翼の森2007年04月07日 02:45


 漁師は赤黒く灼けた手で櫂を握り、黎明から逃れるように岸を目指していた。未だ碧闇に沈んだ海面は、胸騒ぎを鎮めるが如く凪いでいる。額の皺に汗を溜めながら、彼は潮を深く挿し、重い小舟を進める。舟の中は、足元まで巨大な魚で埋め尽くされていた。ターポンと呼ばれる大口の古代魚である。顔つきはアロワナに似ている。コスタリカでは決して珍しい魚ではない。しかし、二百ポンドに迫る巨大なターポンが網一杯に暴れていたことは——それよりも、異様なのはその色だった。闇の中で虹色に輝く魚体。いや、虹色というのとは違う。赤、橙、黄、緑、青、菫。それぞれの一色で体を染めたターポンが十数匹、舟床を彩っているのである。転がったターポンは時折ぺちぺちと互いを尾びれで叩き、無表情に邪悪な口を開閉している。
 夢ではない。網の重みで掻き切られた掌には血が滲み、痛みが鼓動を打っている。ついに頭がいかれたか、とも思う。が、彼は傷ついた手を櫂に食い込ませ、彼方の岸へと無心に舟を駆る。頭のことは、まあいい。とにかくこの胸に去来する異変を知らせねば。
 突然、背後に真っ白な熱を浴び、漁師は顔を上げて振り返った。水平線から頭を覗かせた太陽。その見慣れた光景に視覚が辿り着く前に、彼は目の端に見慣れぬ物体を捉え、視線を戻した。そして無人の海の上、彼は生まれて初めて腹の奥底から——

 絶叫した女の声は紡錘形の山々に木魂した。桂林の山村である。金木犀の香りは四散し、夜闇に溶けようとしていた山水画は輪郭を露わにした。
 彼女は街で観光ガイドの仕事をしていた。奇峰奇岩連なる桂林には、世界各地から物好きな観光客がやってくる。毎日同じ台詞を唱え、同じ笑顔を繰り返す単調な日々。しかし、彼女はそれを肯とし、刺激的な異国の伝聞に惹かれることはなかった。それは郷土愛とも違った。営々と累々と積み重ねられた歴史という魯鈍。ここでは染み込んだ日常が正しく美しい。都会で流行っているmade in Japanのフリースを制服の下に着込み、彼女は淡々たる日々を過ごす。
 そんな日常は突如予告もなく崩壊した。仕事からの帰り道、街から乗り継いだバスを降り、家路を辿っていた時のことだ。右手に聳え立つ一本山に、いつもと違う佇まいを彼女は感じた。地元では神が潜むと信じられているその山は、天を刺すが如く鋭利な頂を構え、夜には後光すら放っていた。が、いまは光も背負わず、どこかしら萎縮して見える。彼女は山の異変をちらちらと気にかけながら、家への道を急いだ。そこで思いがけず雷音が轟き、一本山が閃光に浮かび上がった。彼女は見た。今まで見えていなかった巨大なものを。そして彼女は——

 息を呑み、ただ奇跡を凝視した。瞼の向こうにくっきりと像を結ぶ姿。ベネツィアの路地裏で昼時の残飯を漁っていた目盲いた男は、突然目の奥に差し込んだ光に、掴み出した食べ残しのパニーノを落とした。嗅覚も聴覚も異常を察知することができず、二十数年前に失った視覚にそれは突然映し出された。
 男は方位の感覚に乏しかったが、見上げていたのは北西の空だった。刹那、街全体にどよめきが広がるのを男は感じた。誰もが北西の空を見上げていた。どよめきは瞬時にして叫び唸り呻き絶句となって男の両耳を埋め尽くした。この街、隣町、国境の向こう、眼色の違う民、その国の犬や猫、海を越える鳥、眼下に見える孤島、あらゆる場所とその裏側で、同じ瞬間に異なる言語で同じ言葉が叫ばれた。

「神だ」

 それは確かに「神」であった。北西約五百メートル先に、巨大な神が突っ立っている。身長は三百メートルもあろうか。直立不動。無表情。体は南を向いていて、左斜めからの姿がはっきりと見える。空間に投影された静止映像のようにも見えるが、纏った衣服は微かに風に揺れ、陽の光あるいは月明かりの造り出す陰影が、一箇の物体であることを証明していた。一箇の物体? それは間違った表現かもしれない。なぜなら神は、世界中の誰の目からも、同じ方向、同じ距離に見えていたからである。ただ一つ同じで無かったのは、目に映っている神の姿が人によってまったく異なる、ということだ。
 ある者にはギリシャ神のゼウスに見えた。またある者はバッカスに見えた。ヨーロッパの神々だけではない。エジプトではホルスやオシリス、ラーにカー。インドでは人それぞれが信じる有象無象の神が現れ、キリスト教徒はキリストやマリアを臨み(サタンを見た人々は本来の自分に目覚めた)、日本においては、神官や大仏、天照大御神、千手観音、風神、雷神、七福神、さらには大映の大魔神、陰陽師の安倍晴明(映画と漫画の要素が反映されている)、スタジオジブリのキャラクターまでが、それぞれの神のイメージとして立ち現れた。
 しかし、どのような姿形であれ、それはその人にとって神と直観できるものであった。故にそれは、神に違いなかった。
 人々はまず呆然とした。想定内の超常現象なら、パニックに陥るという常套手段もあったろう。が、あまりにも巨大な神の出現は、人々の最適な反応を麻痺させ、世界は一瞬仰天の叫びをあげた後、奇妙に冷静な観察眼を持ち、目前の状況を確かめ合った。
「神様ですよねぇ」
「ああ、神様ですね」
 大衆への些細な影響にも過敏な国側の人々も、この状況に対する的確な対処法をすぐには思いつかなかった。ある国の大統領は、視界からはみ出そうな現象を夜のニュースだけで片づけようかとも思った。ニュースのアナウンサーは言う。
「次のニュースです。本日午前八時二十分頃、北西約五百メートルに巨大な神が出現し、人々を驚かせています——」
 しかし、その沈着も束の間。あれはいったい何なのだ、という謎が口の端と光回線の中に溢れはじめ、数時間後には世界中のネットワークと騒音計が容量の限界を迎えた。
「私にはこんな神様が見える」
「あれは誰の悪戯だ」
「ああ、世界の終末がやって来た」
 恐怖と期待、歓喜と不安、笑い、ひきつり、合掌と興奮の中、人々は神の姿をその場所で、あるいは移動しながら眺め続けた。神は依然としてそこに在り続けた。
 この異常事態にも関わらず、意外にも人々の営みは日常のままであった。北西に首を曲げたまま、勤め人は会社に赴き、業務に勤しんだ。スーパーのレジ打ちは、ビルの向こうに僅かに覗く神の頭を時折気にしつつも、指先は正確にキーを叩いた。北西に向かう飛行機のパイロットは、時速九三〇キロメートルで追走する神の天頂を雲の下に感じながら目的地を目指し、地下鉄に乗る人々は神を見ることなく中吊り広告のゴシップ見出しを眺めていた。人々はパンで生きているため、経済活動をストップさせることはできない。
 しかし、翌日になって事態は一変した。信頼篤き偉大な霊能力者であり天文学者であるムハンマド・アリスラが、自身のブログを通じて世界にこんなメッセージを送ったのである。
「信じられない。全宇宙の過去、現在、未来が記されたアカシックレコードが書き換えられようとしている。地球は今、並行宇宙の一つと重なってしまった。別次元の世界と、だ。これから奇妙な出来事が起こりはじめるだろう。地上の至る所で。それがどういうものであるか。残念ながら私にもわからない」
 並行宇宙。パラレルワールド。高次あるいは低次に存在している別の世界が、冗談めいた偶然でこの次元に出現してしまったらしい。人々はその意味を今一つ理解できなかったが、そのメッセージが信頼できることだけはわかった。なぜなら預言はすでに的中していたからだ。
 イラクでは西の昼空が真っ赤に染まり、無数の飛行機の飛ぶ音だけが聞こえてきた。ペルーでは地上絵の蜘蛛が一夜のうちに巨大な巣を張った。オランダでは運河に巨大な魚のうごめく影が映り、人々の目前で忽然と蒸発した。これらはニュースに取り上げられたものであり、ニュースにものぼらない事件は今もどこかで起きている。例えば、重慶市に住むヤン・スーは、鏡に映った自分に舌を出された。カリフォルニアでサーフィンを楽しんでいたエリック・カレンは、沖へと押し寄せるビッグウェーブに乗ってまだ帰ってきていない。日本の鈴木酒店では、カップ酒を盗む河童が防犯カメラに記録された。珍事、怪異、超常現象は時を追って増加し、びっくり箱が仕掛けられた日常に人々は戦々兢々としながらも、なんとか普段の生活を続けようとしていた。日常と非日常のあわいがだんだんと溶け始めていた。
 こうして〈なんでもありの現実〉という舞台が、我々の眼前に用意されたのである。

         *

 ある夜。ふいに目を覚ましたエレナは、隣のベッドで眠っている息子に顔を向けた。カーテン越しの月明かりに浮かび上がった六歳の息子は、夜目にもうっすらと透けて見えた。
「ボブ! ボブ! 起きなさい!」
 ベッドから跳ね起きた彼女は、子どもを揺り起こした。が、なかなか目を覚まさない。その間にも、子どもはゆっくりと透けていく。
「……う、ん、ぼく眠いよ、ママ」
 ぼんやりと目覚めた子どもは、顔をしかめて母親を見る。
「大丈夫? 苦しくない? 何か欲しいものある?」
 彼女は子どもの額を撫でながら、震える声で話しかける。
「……お水飲みたい。冷たいの」
 彼女は子どもを抱きかかえると、部屋を出て冷蔵庫へと向かった。抱き上げた子どもの思いもよらぬ軽さに、彼女の目から涙が溢れ出る。
 子どもを抱いたまま冷蔵庫の扉を開け、冷えたポットの水をグラスに注ぐ。子どもはどんどん軽く、薄くなっていく。
 コップを口に持って行くと、子どもはそれを両手で持ち、コクコクと飲み始めた。そして、子どもはゆっくりと消えていった。
 床に転がり落ちたグラス。水に濡れた青いパジャマ。母親は息子のパジャマを抱きながら、繰り返し名前を呼んだ。まだ、ここにいるような気がする。見えないだけで、ずっと一緒にいるような気がする。しかし、濡れたパジャマには息子の重みも体温もすでに感じられない。
「どこに、どこに行ったの……」
 パジャマの背中には、細長い楕円形の穴が二つ空いていた。母親が切り抜いたのである。それは、息子の背中に生えた小さな翼を通すための穴だった——。

 ある日突然、子どもの背中から翼が生えてくる。翼の生えた子どもは、やがて忽然と姿を消す。それはあの日以来、耳目を惹くような怪事に隠れ、こっそりと世界中で起こり始めていた。人々はそれを「天使になって天に召される」と言った。神の出現と併せて考えれば、至極理解しやすい道理である。
 が、いざ自分の子どもを失った人々にとっては、道理も条理もあったものではない。あるのは我が子を突然喪失したという事実のみ。現実が奇妙にずれてしまった今も、親が子を想う気持ちは古来変わるところはない。子を失った親は叫ぶ。
「この世に神などあるものか」

 神隠しを端に、次第に世を綾なすような現象が増え始めた。牛ほどもある毛むくじゃらの赤蜘蛛に追われた男性。朝の来ない街路に迷い込んだ女性。公園で掘り起こした鬼に投げ飛ばされた老人。邪魅がぬるりと空間から現れ、人々にちょっかいを出すようになってきた。地球と重なった異次元の存在が、こちら側の存在に気づき、本来の悪意を振りかざしてきた。
 何が起こるかわからない。それは人々にとって最大の恐怖となった。巨大地震を待ち受ける気分よりも、さらに自分事としての恐怖。それは自室におとなしく閉じこもっていても何の安全も保障されない。むしろ人と関わり、日常生活を保っていたほうが安心できた。道々には警官が配備され、角々には子どもを守る保護者の姿があったが、何とか日々の営みは継続していた。今まで通りの日常を存続させることは、神経の拠り所であり、かつての現実との絶ち難い接点であった。
 しかし、異界はそんな人々の想いとはまったく別の原理で動いていた。異界は世界を呑み込もうとしているのか。それとも共存しようとしているのか。それは誰にもわからなかった。とにかく、現象として立ち現れてくることを、世界はただ呆然と眺めているしかなかった。
 気がつけば、どの街にも「あちら側」が築かれていた。

         *

 午後十時半。マサエは火にかけたビーフシチューをかき混ぜながら、夫の帰宅を待っていた。カウンターキッチン越しにリビングのテレビをちらちらと眺め、過ぎゆく今日を思い、快い疲れに身を委ねる。子どもたちを寝かせつけたら、ひとまず母親としての一日が終わる。結婚して十二年。専業主婦歴は十年を迎えた。世間並みで平凡で慌ただしい暮らし。しかし、そこそこの幸せは感じている。子ども中心に回る毎日。それは人生で考えればとても短いもので、今しか——
「ああああああーーーーー」
 突然耳に飛び込んできた声に欠伸を飲み込む。子ども部屋からだ。慌てて駆けつけ扉を開ける。五畳半の部屋に敷き詰められた布団。廊下から入り込む明かりが、眠ったまま眩しげに眉間を寄せる娘を照らす。その隣の暗がりに、布団の上にちょこんと正座している息子がいた。
 どうやら寝ぼけているらしい。目を閉じ、健やかな寝息を立てている。
 マサエはこの五歳の息子をとりわけ愛しく感じていた。想いの根は出産時のエピソードにあるのかもしれない。息子はこの家で生まれたのである。自宅出産を準備していたわけではない。病院に間に合わなかったのだ。トイレで産み落とし、血まみれの赤ん坊を胸に抱き、漸くか細い産声を聞いた時、彼女は彼の生に心から感謝した。彼自身の生きる力に。諦めることなく生まれ出てくれた魂に。そしてこの親子を守ってくれた何者かに。
 正座したまま眠っている息子を抱きかかえ、布団に寝かそうとしたときである。息子の背中を支えた左手に違和感を感じた。マサエはそっと息子を俯せにすると、パジャマの上着をゆっくりと捲り上げた。
 翼が生えようとしていた。
 肩胛骨の盛り上がった部分に、小さな白い翼がくっついている。ほんの三センチくらいの突起であったが、それは明らかに生まれたばかりの翼に違いなかった。翼は僅かに羽毛を生じ、呼吸に合わせて上下している。その反動で今にも巨大な翼が飛び出してきそうだった。
 マサエは頭の中が真っ白になり、気を失いそうになった。布団の上にへたり込み、右手は忌まわしい翼を撫でさすっていた。その時、ふいに息子が口を開いた。
「おかあさん、ぼく、いなくなってしまうん?」
 その意外な言葉を理解する前に、マサエの眼からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。背中越しに息子を抱きしめ、子どもの耳元でやさしく囁く。
「そんなことあらへんよ。どこにも行くわけないやんか。あんたまだ幼稚園やろ。明日も幼稚園あるやろ。早よ寝なあかんやん」
 必死で涙を押し殺したが、声は震えた鼻声になっていた。おかあさん、ぼく、いなくなってしまうん?——その言葉が頭の中で何度も繰り返される。ぼく、いなくなってしまうん……
 気づけば胸の下、息子は再び眠りに落ちていた。マサエは体を起こし、しばらく呆然と、俯せにしたままの息子の横顔を眺めていた。
「おい、どないしたんや」
 いつの間にか、夫のトモユキが帰ってきていた。振り返ったマサエの表情に、トモユキの顔が険しく曇る。
「ユウキになんかあったんか」
 マサエは何も言わず、またゆっくりと、息子の上着をめくり上げていった。

 夫婦は一睡もせずに朝を迎えた。しかし、この状況をいっそ夢にしてしまう方法は見つからなかった。トモユキは慌ただしく会社に出掛ける仕度をした。子どもたちはまだ眠っている。
「とりあえず、ユウキには誰にも翼のことを話さないように言うといて。フミエにもな。俺は仕事の合間をみて情報を探してみるわ」
 マサエは腫れた目でトモユキを見送った。なんとかしなければ、という想いと、どうにもならない、という諦めが、交互に頭と胸を行き来した。マサエは玄関のドアを閉めると、冷たい水で顔を洗い、キッチンで子どもの朝食の準備をし、午前七時五分、子ども部屋の扉を開けた。
「朝やでー。起きやー。今日も小学校と幼稚園あるよー」
 眩しそうなしかめ面で起きてきたフミエとユウキ。
「ほらほら、早よ朝ご飯食べて学校行く用意してー」
 ぼくもガッコウ行くん?、と戯けてちゃちゃを入れるユウキ。その言葉が一瞬、昨夜の言葉と重なる。そこから先を打ち消すようにマサエは言う。
「そんな屁理屈言うてたら、河童になってまうで」
 カッパだカッパ、カッパッパー、と寝起きからテンション高く振る舞う息子。もしかすると、昨夜のことは憶えていないのかもしれない。
「おかあさん、ユウキにちゃんとご飯食べや言うたら、なんか蹴ってくんねん」
 十歳の娘は、そう母親に訴える。まさにいつもの朝の光景だった。フミエは小学校四年生で、外では優等生タイプ。そして、美しい少女だ。つんと澄ましていれば美少女と評価されるのであろうが、おちゃらけた弟の性格に強く影響され、家の中では五歳下の弟と同じレベルで楽しんでいる。基本的には非常に仲の良い姉弟である。
 母親の怒号が鳴り響き始めた頃、ようやく子どもたちは朝の仕度を終え、午前八時十分、二人は小競り合いをしながら玄関へと向かった。マサエはフミエを先に玄関の外に出し、ユウキの肩を抱いて真顔で切り出した。
「ユウキ、昨日の晩、目ェ醒ましたこと憶えてる?」
「うん、おぼえてるよ。ぼく、ツバサはえてきたんやろ?」
「それ、誰にも言うたらあかんよ。お姉ちゃんにも。わかった?」
「うん、わかった。じゃあ行ってくる。いってきまーす」
 ユウキの元気な姿が扉の向こうに消えた。それはいつも通りの朝であった。そして、その〈いつも通り〉は、マサエの必死の形相の上に成り立っていた。
 子どもを送り出した瞬間、マサエは玄関に座り込み、嗚咽を上げた。

 フミエの小学校とユウキの幼稚園は隣り合っていた。幼稚園の始業時間は小学校よりも遅かったが、幼稚園児たちにとっては朝の〈0時間目〉が最も楽しい遊び時間として定着していた。
 家から五百メートルほどのその道すがら。
「ユウキ、ほんまにいなくなってしまうん?」
 フミエが少し歩く速度を落として話しかけた。
「あれ? おねえちゃん、知ってんの? おかあさんから聞いたん?」
「昨日の夜、お姉ちゃん起きててん。そやから知ってんねん」
 ユウキは悲しそうな口ぶりをつくり、答える。
「ツバサがはえてきてんて。テンシになってまうやろ? ツバサはえたら」
「うーん、そうやなあ」
 しばらく無言で歩く二人。季節は秋の半ばに差し掛かり、枯れ葉を踏む音だけが響いている。
「お姉ちゃん、ユウキがおらんようになったらイヤやな」
 フミエは下を向き、いい音をたてそうな枯れ葉を選んで踏んでいく。
「ユウキ」
「なに、おねえちゃん?」
 フミエは立ち止まり、前を見つめたまま言った。
「その翼、取ってもらおか——」

 朝のワイドショーのトップは、今日も神隠しの話題だった。街の向こうに「あちら側」が現出して以来、ふざけた物の怪が出没する回数は日増しに増えていた。が、人々の関心は自ずと神隠しに向けられた。それは我が子を持つ親、我が孫を持つ祖父母にとって、現実的な恐怖だったからである。
 テレビには子どもを失った親が登場し、経緯を涙ながらに語っている。取材は海外にまで及び、多種多様な事例が報告された。その過程でわかってきたことは、
「現時点で一〇二七例が世界中で確認されている」
「年齢は三歳から七歳児に集中している」
「男女は問わない」
「翼が生えてきてから消滅してしまうまでの時間はまちまち」
「翼は骨で肩胛骨と繋がっており、切り離すことにはリスクがある」
「たとえ翼を切り離しても、子どもは消えてしまう」
「翼は自らの意志で動かし、羽ばたくこともできる」
「一週間で翼の全長が約二メートルまで成長した例もある」
 などである。この他にも、「無数の天使が神様の周りを飛び交っているのを見た」と証言する人もいた。これは世界で三二例報告されている。
 番組のゲストコメンテーターは、日替わりで、霊能力者、宗教学者、神学者、星占い師、サイコセラピスト、子どもを持つ女優などが登場し、それぞれの持論を述べていた。
 霊能力者曰く。
「ぼんやりとしか見えませんが、子どもたちは一箇所、同じ場所にいるようです。そこには巨大な怪物——悪魔みたいなものでしょうか、がいて、子どもたちに何かを指示しています。子どもたちはまだ生のエネルギーを放っています。生きている、ということですね。しかし、その先はまったく見えません」
 宗教学者曰く。
「この現象は仏様の来迎図に似ているんですよねぇ。周りを飛び交うという童子は、宗教学では非常に重要なものでして、この世界と神仏の世界——つまり聖なる領域ですね、それを結ぶ存在なわけです。子どもは異界から来た両義的存在と言えます」
「で?」
 神学者曰く。
「これは三位一体の教義を具現化したものと考えられるでしょう。父なる神、子なるイエス・キリスト、使徒としての聖霊。おそらくイエス・キリストの再臨を予告する現象なのでしょう。天使はその媒介であり祝福する者として登場したのでしょう。目の前の奇跡は、この世が愛に満ちた世界として再構築されることを示しているのでしょう」
 ここで出演の曜日を越えて女優が叫んだ。
「仏だか神だか知らないけど、子どもを奪うなんて何考えてるんだか。あそこに突っ立っているのは神様なんかじゃなくて悪魔よ!」
 マサエはテレビを消し、リビングのソファで少し横になった。誰の意見も今は聞く気になれない。我が子が天使となり、裸で冷たい秋の空を飛んでいる姿を思い浮かべると、もうすでにユウキが逝ってしまったような錯覚に囚われる。それでもユウキは跳び続ける。幼い翼を懸命に羽ばたかせ、親の言い付けを守る健気な子どものように。空はすでに薄暮に包まれ、淡い夕焼けの中を烏が鳴きながら飛んでいく。可愛い七つの子の元へ。いつしかマサエは烏に姿を変え、彼方に聳え立つ巨人に向かって猛スピードで飛んでいた。巨人の周りには翼の生えた裸の子どもたちが舞っている。そこに我が子の姿を見る。マサエは速度を上げて飛ぶ。しかし巨人は同じ速度で逃げていく。その原則の壁を打ち破るべく、マサエは肉体を脱ぎ捨て、流線型の魂となって天翔る。天上から夜闇が降り、巨人の姿はその帷に隠れ去っていく。が、近づいている。あと少し。あと少しだ。光速で風を切る音が耳の奥に響く。ヒュルルルル。ルルルルル。ルルルルル……
 電話の鳴る音に眠りを遮られ、マサエはソファから飛び起きた。慌てて受話器を取る。
「フミエちゃん、学校に来てないんですけど、どうかされました?」
 小学校の担任からの電話だった。時計を見ると、午前九時四〇分を示している。一時間ほど眠ってしまったようだ。
「え、朝はちゃんと登校しましたけど。弟と一緒に」
 まさか。マサエは突如胸騒ぎを覚えた。その時、電話にキャッチホンが入った。
「あ、ちょっと待ってくださいね。キャッチが入ったみいなので」
 マサエは不安を通り越した恐怖を感じながら電話を切り換える。それは幼稚園の先生からの電話だった。
「ユウキくん、今日は幼稚園お休みですか?」

 トモユキは山と積まれた仕事を完全に無視して、インターネットの情報検索に没頭していた。プランナーという仕事柄、その姿は幸いにも周囲の不信を招くことはなかった。
 子ども。翼。神隠し。
 このキーワードで検索してみる。検索結果は四万六千八百件。上位のほとんどは今回の出来事を記したものに過ぎなかった。が、ひとつ、興味深い記述を見つけた。
「七歳以前の幼児はまだ完全な人間とはなり切っていません。未熟な幼児がいつ異世界へ連れ去られるかわからない、という大人の懼れが、神隠しのような観念を形成しているのです」
 突然異界が出現したことに対して、親はまず子のことを心配する。その想念が固まって、神隠しを現実化させてしまったのか。
 しかし、このような記事に今は引っ掛かっていられない。とにかく、翼の生えた息子を救う方法を見つけなければ。
 子ども。翼。神隠し。救う方法。
 この検索結果は二十七件。「千と千尋の神隠し」に関する古い記事が多くあった。それらを読み飛ばして進むうちに、トモユキは奇妙な詩ばかりがアップされているブログに行き当たった。

 もしも翼が生えたなら、子らは偽神に召されらい。
 魔に間に忍びし神隠し、あちらの婆々が救いてや。
 されどあちらに通う者、この世の条理を捨てし者。
 勇気はあるか智はあるか、死となり血となり隣り合い。
 けだし定めにつながらば、今宵あちらに来らいじゃい。

 その時、スーツの内ポケットに入れていた携帯電話が震動した。妻からの電話だ。急いで通話ボタンを押す。
「フミエとユウキがいなくなったって。どうしよう」
 トモユキはデスクもパソコンもそのままに、鞄を持って会社を飛び出した。

         *

 フミエはクラスメートからその話を聞いた。その子は暗く目立たず、時折中空の何かを見つめているような目をして、周りから気味悪がられていた。陰ではサダコと呼ばれていたが、本名はミカと言った。
「あっちの街に髭の生えたお婆さんがいて、翼を取ってくれるんだって」
 数日前、帰り支度をしていたフミエに突然ミカが話しかけてきた。フミエは訳が分からず、「あ、そーなんだ」と応えて、早々にその場を離れた。
 しかし今、フミエはその言葉を信じ、頼っていた。手をつなぎ楽しげに歩いているユウキを伴い、フミエは「あちら側」に向かっていた。
 あちら側。それはこの世界と地続きになっている異世界のことである。間も入り口も定かではなく、人は思いがけずそこに迷い込んでしまう。気づいてすぐに、まったく同じ道を引き返せば、元の世界に戻って来られる。あちら側は街々に存在している。通り慣れた道で違和感を覚えた時は、間違いなくあちら側に入り込んでいる。知らない路地を選択すれば、ほぼ確実にあちら側へ辿り着く。入り口は人それぞれに異なっているのである。
 あちら側。そこでは一体何が起こるのであろうか。今や現実世界でも頻繁に起こっている珍妙な出来事——呂律の回らない犬に話しかけられたり、富士山の火口から五十号の特大花火が一晩中打ち上げられたり、河川と同じ長さの水棲生物が上流の滝を易々と昇ったり、道路が恐るべき速度で動き出し目的地へ一時間も早く着いたり、登校してきた同級生が身長三メートルを越していて赤面していたり、時期後れの地蔵盆が時代錯誤の親子たちで賑わっていたり、大阪城公園の桜だけが突如満開となり寒々しい花見が行なわれたり、遙か上空に支点の知れぬ回転ブランコに乗る人を目撃したり、予てより目撃談の多かった「ちっこいおっさん」が人並みの大きさで道を歩いていたり、など、枚挙に暇がない——よりも、さらに奇怪な現象が溢れているのだろうか。あちら側に行って三日後に帰還した男性が、テレビ番組のインタビューにこう答えていた。
「人が住んでいました」
 彼は会社の営業車であちら側に迷い込んだ(もともとこちらの世界でも道に迷っていた)。車は細い路地に紛れ込み、そのうち石畳の古い——中世の異国のような街を走ることになった。左側には白い石造りの家々が建ち並び、右側は二メートルほどの高さの石垣が彼方へと伸びていた。これ以上進むと車幅が道幅を越えてしまうことを予感した男性は、石垣に門のようになった切れ目を見つけ、そこに車を乗り入れた。そして眼前に広がる光景に驚愕した。
 十字架。卒塔婆。石塔。御廟。小石。盛り土。そこは広大な墓地だった。広大と言うにはあまりにも広大すぎた。見渡す限り、地平線の向こうまで墓標が群れなしている。そして墓地と言うにはあまりにも節操がなかった。各種各国の墓。死は宗教も国境も越えられるのだろうか。
「あまりここにいないほうがいいよ」
 男性は背後から突然話しかけられ、飛び上がるほど驚いたという。振り向くと、黒髪に青い目をした異国の少年がいた。
「早く帰らないと、早く帰れなくなるよ」
 後半の意味がわからず、尋き返そうとしたが、ふと違和感を感じて言葉を飲み込んだ。少年の唇の動きと耳に入ってくる言葉が奇妙にずれているのだ。少年はこちらの心の裡を見越したように、口を閉じたまま言った。
「ここは死の国だから」
 男性は突然底知れない恐怖を感じ、少年の横をすり抜けて無我夢中で駆けだした。元の世界を目指して。乾いた石畳の道を転びそうになりながらとにかく走った。道々には死者たちが現実の世界と同じように暮らしていた。洗濯物を干すアジア系の女性。郵便物を配るアフリカの男。サッカーボールを取り合う毛色の違う子どもたち。その間を駆け抜け、とにかく走る。口の中に血の味が溢れてきた頃、気がつくと見慣れた景色の中を走っていた。
 ほんの一時間程度の迷走だと感じていたが、現実世界では三日が過ぎていた。そして例の如く、彼の髪は銀に染まり、おまけに長い白髭まで生えていたという。
 しかし、この話だけで「あちら側」を判断してはいけない。それぞれまったく別の体験をした人も、世界各国に多数存在するのである。

         *

「ユウキ、この道行ってみよか」
「うん。でもこんな道通ったことないよ」
「だからええんやんか。知らん道のほうが早よ着くねんで、あっちに」
「あっちってどんなとこ?」
「おねえちゃんも知らんよ。でも、ユウキのハネとってくれるおばあちゃんがいんねんて」
「痛ないかなあ、ハネとんの」
「そら痛いわ。のこぎりでガリガリ切んねんから」
「いややー、やっぱり帰る。怖い」
「嘘にきまってるやん。魔法でとんねん魔法で。すぽん、て」
「ウソや。だってなんか怖いもん。魔法使いのおばあさんやろ。悪そうやん」
「悪ないよ。ハリー・ポッターみたいなもんやって」
「あれ男の子やん」
「ハーマイオニー女の子やん」
「あれおばあさんちゃうやん」
「魔法使いのおばあさん、言うからなんか怖いように思うねんて。魔法使いのおばあちゃん、言うたらええねん」
「きゃはは。魔法使いのおばあちゃん。なんか可愛いな」
「そやろ。魔法使いのおばあちゃんに早よハネとってもらお」
「おねえちゃん」
「なに?」
「いっしょにハネとりに行ってくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。おねえちゃんもユウキおらへんようになったらイヤやし」
「でも、いつ消えてしまうんかわからへんねやろ?」
「まだ大丈夫やわ。朝やし」
「朝は大丈夫なん? お昼は?」
「お昼も大丈夫。お日さまパワーがあるから」
「夜は?」
「お星さまパワーで大丈夫」
「ほんならずっと大丈夫やん」
「そやで。でもあんまり遅なったらおかあさんとおとうさんが心配するから、早よおばあちゃん見つけてハネとってもらおな」
「魔法使いのおばあちゃん、な」

         *

 トモユキが家に着いたのは午前十一時過ぎだった。部屋に入るとマサエは携帯電話で誰かとしゃべっていた。
「うん、そう、とりあえずどこかで見かけた人がおったら教えて。忙しいのにごめんね。じゃあ、よろしくお願いします」
 マサエは知っている限りの〈ママさんネットワーク〉を駆使して、子どもたちの行方を追っていた。
「なんかわかったか?」
「まだなんにも」
「警察は?」
「言うた。今探してくれてると思う」
 それにしても——。フミエとユウキが一緒にいなくなってしまうなんて、いったいどうなっているのだろう。神隠し? いや、それは翼の生えた子どもだけのはずだ。フミエまでいなくなるなんて。ユウキはまだ消えてしまっていないだろうか? いや、まだ大丈夫だ。あの程度の翼では。
 あの程度の翼——。それでも翼は翼だった。ふと先日のニュースを思い出す。外科手術で翼を取り去った親子の話。翼はなんとか切除できた。ステンレス製の骨切断器具でカットしたのである。しかし翌朝、その処置を嘲笑うかのように歪な形の翼が生えてきて、子どもは病院のベッドから眠ったまま消えてしまった。そして母親は病院の窓から見た。白亜のマリア像のような巨人。その周りを飛び回る天使たち。その中に、よたよたと上がったり下がったりしながら懸命に翼を動かしている我が子の姿を。
 翼は証なのである。神と呼ばれるものが刻印した。その一方的な約束は必ず守られる。約束の履行時間は神のみぞ知る。
 とにかく今は、一秒でも早く二人を見つけることが先決だ。しかし、どうやって?
 トモユキがパニックに陥っている時、予告もなく電話が鳴った。マサエは携帯電話で誰かとしゃべっている。家の固定電話だ。トモユキは受話器を取る。
「はい、ムラカミです」
 受話器の向こうから、女の子のすすり泣くような声が聞こえてきた。
「もしもし、フミエ? フミエか?」
 一瞬の期待の後、女の子が泣き声で答えた。
「あの……わたし……フミエちゃんと同じクラスの……スギノっていいます」
 スギノさん? トモユキが知っている限り、フミエがいつも遊んでいる友だちではなかった。トモユキは直感的に尋ねた。
「スギノさん? もしかしてフミエがどこにいるか知ってるの?」
 スギノミカは一瞬の逡巡の後、何かを吹っ切るかのように声を大きくして答えた。
「あっちの街に、たぶん、行ったんやと思います」
「あっちの街に? なんで?」
「あたしが言ったんです。あっちの街に、翼をとってくれるおばあさんがいるよ、って」
 受話器の向こうがまた泣き声に変わった。
「それ本当? あっちの街に行けば翼をとってくれるおばあさんがいるの?」
「……わからへんけど、なんとなくそう感じたから。ウソついたつもりじゃないけど、あたしのせいやと思って……」
 スギノミカは号泣しはじめた。とにかく子どもたちの行き先はわかった。トモユキはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「ミカちゃんはなんでウチの電話番号わかったの? 先生に尋いたの?」
「今朝学校に来たら、机の中にフミエちゃんからのメモが入ってて、これから弟の翼をとってもらいにあっちの街のおばあさんに会いに行くって。で、もし何日も帰ってこないようやったら、ここに電話してって」
 トモユキの中にまた焦りが込み上げてきた。早く行かなければ。
「ミカちゃん、連絡くれてありがとうね。今から探しに行くから、ミカちゃんも心配せずに待っていてあげてね」
 その時、
「あっちの世界は怖いから、おじさんも気をつけて」
 スギノミカのその声はまるで別人のように低く響いた。そして電話は切れた。受話器を握るトモユキの腕には鳥肌が立っていた。気がつくと、マサエがすがるような目でこちらを見ている。電話の内容を理解したのだろう。
「フミエとユウキはあっちの世界に行ったらしい。すぐに連れ戻してくる」
 トモユキは受話器を置き、そのまま玄関へ向かおうとした。その手をマサエが掴む。
「止めるな。早よ行かなあかんねん」
 マサエは母親の顔で答えた。
「誰も止めへんよ。早よ連れて戻ってきて。でも何があるかわからへんから、手ぶらで行くんはやめて」
 マサエはユウキが使っているリュックに、手当たり次第に恐るべき速度で様々なアイテムを放り込んだ。食塩の瓶。ミネラルウォーターのペットボトル。ナイフとフォークを何本か。オロナインH軟膏。財布。などなど。
「無事みんなで帰って来てくれな、絶対あかんねんから」
 マサエはそう言うと、トモユキの唇にキスをし、夫と父親を送り出した。

         *

 路地の両側には木造平屋の住居が連なっていた。軒先には石造りの溝が通り、澄んだ水がさらさらと流れている。ユウキは物珍しげにその流れの底を覗き込みながら歩いている。金魚でもいるのだろうか。フミエはここがもう別の世界であることを雰囲気で感じていた。ここはどこからも車や工事の音が聞こえてこない。人の声もない。街中にこんな場所はあるわけがない。それは夢の中で夢であることに気づいたような感覚だった。ユウキは走ったり止まったりを繰り返しながら、水の流れと遊んでいる。無邪気なものだ。あっちの世界に来てしまったというのに。逆にその無邪気さが、フミエの救いにもなっていた。おバカな弟が一緒だから、こんな所に来ても怖さをあまり感じなくて済むのだ。そしてフミエは、ちょっとだけ母親代わりになったような気持ちになる。
「ユウキ、ふざけてたら溝にはまるでー」
 その時、四つ辻から突然男の子が飛び出してきた。フミエの目の前である。男の子はユウキと同じくらいの背丈で、浴衣のような碧い着物を着ている。足元は草履履き。手には風車まで持っている。どう見ても昔の子どもだ。そして顔は狐にそっくりだった。
 驚いて声の出ないフミエの代わりに、狐子が口を開いた。
「これこれ、お前たち。ここは人間どもが来るところではないぞ。今すぐ来た道を引き返してお帰りなされ」
 細く吊り上がった目とおちょぼ口、真白な顔。声は子どもそのものであった。
 フミエはその仰々しい物言いと声との落差に唖然となった。が、なぜか怖くは感じなかった。ユウキと同じくらいの子どもなのだ。
「あの、私たちも早よ帰りたいんやけど、弟のハネをとってもらうまで帰れないんです」
「ハネ? ハネって背中に生えるあれか? もしやあのガキに?」
 狐子は興味津々の表情で(目が若干開いたくらいだが)ユウキに顔を向けた。ユウキは溝の流れに右手を突っ込み、何かを掴もうとしている。フミエは狐子に尋ねた。
「ハネをとってくれるおばあさんのこと知ってますか」
 狐子は狐に摘まれたような顔でフミエの顔を見た。
「オバーサンてなに?」
「なに、って言われても。おばあさんは年取った女の人やん」
「トシトッタってなに? オンナノヒトってなに?」
 フミエは答えかけそうになった口を閉じた。もしかして。
「ここって、あなた一人しかいーひんの?」
「イーヒンてなに?」
「いないの、ってこと」
 その途端、狐子の吊り上がった細目から堪えていたかのごとくポロポロと涙が滴り落ち、コーンコンコンと大声で啼き……いや泣き始めた。
「みんな……みんな喰われてしまったんだ……でっかい黒鬼に……」
「く、クロウニン?」
「クロオニだ黒鬼。あっちからやってきて、友だちを皆喰ろうてどこかへ消えた……」
 事の次第を狐子は短く語った。ここには元々子どもしか住んでいなかったことをフミエは知った。子どもだけでどうやって生活していたのだろう?
「おねえちゃん」
 いつの間にかユウキが隣に立っていた。未だ泣いている狐子を怪訝な顔で見つめている。
「こんなサカナとれたよ」
 と、右手を差し出した。その手には、潮の香りのする鯛の塩焼きが握られていた。

         *

 踏み固められた土の上に、短い三つの影が並んで動いている。フミエ、ユウキ、狐子。三人が連れ立って歩いているのである。どういう訳だか、狐子は子狐ような声で「一緒に連れて行ってくれ」と請い、三人の道行きとなった。とはいえ、狐子がおばあさんの居場所を知っているというわけでもない。しかし、有力な情報もあった。狐子が飛び出してきた道の先は深い森につながっており、その森は〈トバズノモリ〉と呼ばれているという。臆病な狐子たちはその森を懼れて一切近づかなかったそうだ。
「トバズノモリって、〈飛べない森〉ってことやんなあ。それってハネがないから飛べないってことちゃうん」
 フミエはテレビ番組のクイズに答えるように得意気な顔で、「きっとおばあさん、そこにいるで」と結論づけた。狐子は、言わなきゃ良かった、という表情を浮かべながらも、二人の後を怖々ついてきた。それも束の間、気がつくと三人は、戯れ笑い縺れ合いながら、茫々と雑草の生えた田圃に挟まれた小道を進んでいた。

         *

 自転車は坂道を上っていた。勾配はますます急になっていく。大阪平野にこんな坂はないはずだ。車輪の回転はついに止まり、トモユキは自転車を降りた。荒い息を繰り返す。血の味がした。中学三年のマラソン大会を思い出す。あの時は、クラスの好きな女の子にいいところを見せようとして頑張った。が、今回はそんな甘ったるい目的ではない。トモユキは十五歳と四十歳の体力の差を感じながら、自転車を牽いて坂道を急いだ。
 そこは綺麗に舗装された道路で、両側には戸建ての大きな家が並んでいた。どの家の車庫にも高級車が置いてある。あちら側の高級住宅街というところか。どの世界でも裕福な人は坂のある街に住んでいるものだ。
「トモユキ」
 ふいに背後から呼び掛けられ、トモユキは首を百八十度回す勢いで振り返った。
「叔父さん!」
 アイリッシュリネンのジャケットとパンツ。鼻の下の整えられた白髭。春を思わせる笑顔の紳士。それは間違いなくトモユキの叔父であった。
 叔父は大阪で広告代理店を経営していた。年商百二十億円の中堅企業である。トモユキは叔父のコネで大手電器メーカーに就職した。叔父のクライアント企業である。が、トモユキは上司との折り合いが悪く、一年も経たずにそこを辞めた。それでも叔父は怒ることもなく、別の会社を紹介してくれた。そこも三年ほどで退社し、今度は自分で見つけた小さな広告会社に入社した。その時も叔父は付き合いのある優秀な制作プロダクションや印刷会社を連れてきて、トモユキの仕事をサポートしてくれた。「困ったことがあったらなんでも言うてや」と叔父は言った。トモユキにとっては頭の上がらない叔父であった。確か来年は、叔父の三回忌があるはずだ。
 トモユキが口を開く前に、叔父は明るく言った。
「お前、もう死んだんか」
「いやまだ死んでませんよ。て、ここは死後の世界なんですか? 叔父さんは幽霊?」
「幽霊言うな。このとおり、ピンピン死んどる」
 叔父は生前と変わらず戯けてみせた。が、すぐに真面目な顔になってこう語った。
 深い睡りの奥底でぼんやりと目醒めているような感覚。揺蕩う波に身を任せ漂う安らかな時間。それが死の状態だ。生者の睡りは死の模倣、もしくは予行演習と言えるかもしれない。そんな時のない時間が突然打ち破られた。チクチクする流れが押し寄せてきて、どこかへ流されているのを感じた。それは叫びだしたくなるほど不安と恐怖に満ちていた。堪えきれず目を開けると、ここでこうして暮らしていた……
 なんだかおかしなことになってるようだな、と叔父は言った。トモユキは現実世界で起きていることを叔父に話した。ユウキに翼が生えてきたこと、フミエとユウキが翼を取ってもらうために「こちら側」に行ってしまったことも。
「そら早よ見つけなあかん。ここは何が起こるかわからんとこやからな」
 叔父はお尻のポケットから携帯電話を取り出すと、アドレス帳を開いて次々とどこかへ電話をかけ始めた。叔父のコネクションは死後も生きているようだ。

         *

 その森は鎮守の森の如く、こんもりとした緑の山として忽然と現れた。入り口には生木を荒縄で依って設えた鳥居まである。その奥は巨大な楠の群れが天蓋を成し、多種多様な木々が侵入を拒む番人の如く、鬱蒼たる闇を宿していた。その闇を縫い、奥へと続く細い道が伸びている。まるで獲物を呑み込むための舌のように。
「おねえちゃん、いやや、ここ怖い」
 ユウキはさすがに尻込みしている。狐子も何者かの襲撃を警戒し、辺りを落ち着きなく見回している。もちろんフミエも怖くないわけではない。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。
「まだ昼間やし大丈夫やって。ちゃちゃっとおばあさん見つけて、早よ帰ろ」
 フミエは真っ暗な森の奥を指差して二人を促した。が、ユウキも狐子も動こうとしない。仕方なく、フミエは鳥居をくぐり、すたすたと森に入っていく。体中の勇気を振り絞って。ユウキと狐子も慌ててその後を追う。
 暫く歩くと、森の暗さに慣れてきたのか、周囲の様子がよく見えるようになってきた。路傍には背の低い草が生い茂り、緑のグラデーションが波打っていた。その中に赤、青、黄、白、紫、大小の花が咲き乱れている。遠く近くの立木は、上空の青葉を透け梢を抜けて落ちてきた淡緑の光線を受けて雲母にきらめいている。濃い植物の芳香が澄んだ大気を満たし、昔話の森に迷い込んだような不思議な気分になってくる。奥床しき鎮守の森は、ケルトの妖精が木陰に潜む森であった。その美しさに虚を衝かれ、子どもたち一行は無言で森の奥へと歩を進めた。森に酔った子どもたちは気づかなかった。そこに鳥の声も羽虫が葉を移る音も、悪戯な笑みを浮かべて飛び交う妖精の姿もないことに。
「あ、おうちがあるよ」
 ユウキが声を上げた。指差す方向、木立の奥に、いかにも森の一軒家、といった風情とはほど遠い、病院の廃墟に似た巨大な建物が聳えていた。
 その建物は三階建ての白いコンクリート造りで、外壁には亀裂と蔦が這い、屋根にまで植物が侵入していた。割れた窓には鉄格子が嵌められ、異常に背の高い蘇鉄の葉が一部の窓にしなだれ込んでいる。屋上には発電所で見るような鉄塔が何本か突き出ている。人目を避けるように建てられた実験施設のようだ。
「こ、こわっ」
 狐子が声を上げ、ユウキの後ろに隠れる。その異様な建造物にフミエも尻込みした。しかし、屋上の煙突から仄かに立ち昇る煙に気づき、中に人がいることを確信した。ここにおばあさんがいるかどうかはわからないが、ともかく住人に会ってみるしかない。
「あそこ行くよ」
 フミエはつかつかと雑草の中を建物に向かって歩き始めた。その時。
 森の奥からざわざわと草を分けながら何かが近づいてきた。小枝を踏む音が地響きに掻き消され、辺りの低木がゆさゆさと揺れ始める。何か巨大なものが——それは息を呑む暇もなく、フミエたちの前に姿を現した。
 全長三メートルはあろうかという真っ黒な獣が、四つん這いで建物の前に立ち塞がった。
 黒鬼。それは顔だけをこちらに向け、真っ赤な唇をにたりと傾けた。鋭い牙がぬめっている。額には二本の白い角。熊のように全身が硬い毛で覆われている。現実世界では滅びてしまったと思われる、禍々しい異形の生き物だった。
 誰も足がすくんで動けない。恐怖の叫びすら上げられない。叫んだところで誰が助けてくれるのか。
 黒鬼は四つん這いのまま、ゆっくりと獲物の方へ近づいてきた。フミエは反射的に弟たちの前に立ち、獣を睨み付ける。黒鬼は唇の両側を吊り上げ、愉しげに言った。
「みんな喰ってやる」
 絶頂に達した恐怖が、フミエの体を動かした。足元に落ちている大きな石を掴み、次々と黒鬼に投げつける。三つ目の石が黒鬼の額に命中した。その瞬間、黒鬼は二本の足で立ち上がり、森中を震撼させるように咆哮した。そして黒鬼が振り下ろした手がフミエを薙ぎ倒し、そのまま片足を掴んで宙高く振り回した。フミエは人形のようにぶらぶらと手足を揺らしている。そのパフォーマンスの後、黒鬼は六本の指でフミエの頭を鷲掴みにし、彼女の左半身を喰いちぎった。真っ赤な血が噴き出し、地面に飛沫き落ちる。辺りにがりがりと骨の砕ける音が響く。
「こらーっ! おねえちゃんを離せーっ!」
 ユウキが叫んだ。その顔は恐怖と怒りで真っ赤になっている。黒鬼はユウキを横目で見ると、フミエの頭と胴体を引きちぎり、地面に投げ捨てた。
 ユウキの体の奥で、何かが爆発した。その焰は灼熱の痛みと共に背中に伝わった。瞬間、ベリッと音を立てて服を突き破り、巨大な翼が背中から飛び出した。それは金色に輝く天使の翼であった。
 ユウキは黒鬼に向かってファイティングポーズをとった。
 黒鬼は翼に少し驚いた表情を見せたが、またニタニタと笑みを浮かべ、一歩二歩と近づいてきた。
 が、その歩みがふと止まった。黒鬼の視線がユウキの上へ上へと移動していく。同時に、その顔が醜く歪んできた。口元の笑みは消え、顔色は蒼くなっていくように見えた。そして黒鬼が後ずさりを始めた瞬間、その体が恐ろしい勢いで横に吹っ飛んだ。まるで巨大な掌で張り飛ばされたかのように。
 黒鬼は倒れたまま、自分の頸元を呻きながら掻きむしり始めた。次から次へと何者かがその頸を締め付けにかかっているらしい。黒鬼はのたうち回り、もんどり打ち、口から大量の白いどろどろとした液体を吹き出し、大きく痙攣した後、ついに絶命した。
 その光景を呆然と見つめていたユウキは、急に体中の力が抜け、その場にへたり込んだ。見ると黒鬼の屍は、無数の地を這う蟲へと姿を変え、叢へと逃れて行った。ユウキは立ち上がると、逃げる蟲を片っ端から踏み潰した。怒りのままに、夢中で踏み潰した。
 気がつくと、辺りは潰れた黒い蟲と白い粘液で覆われていた。その中に、一塊の肉片が転がっていた。フミエの左手だった。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
 ユウキは泣きながら、姉の肉を集め、汚れていない草の上に並べた。
「これも」
 狐子も神妙な顔で小さな肉塊を両手に持ち、丁寧に草の上に並べた。
 いつの間にか陽は傾き、濃い緑の光が赤みを帯びて、二人とかつて一人であったものを照らしている。二人はこれからのことを考えることもできず、その場に座り込み、泣き続けた。
「こりゃひどいなあ」
 背後からの声に二人は振り向いた。そこには、白衣を着た若い男が立っていた。長めの金髪に銀縁の眼鏡。高い鼻。青い瞳。日本人ではないようだったが、言葉は日本語で聞こえてくる。まだ二十歳を過ぎたくらいに見えるその男に対して、恐怖心は湧かなかった。彼は集められた肉片の傍らにしゃがみ込み、一つひとつを子細に眺めながら呟いた。
「うん、まだ間に合いそうだ」
 男はフミエの右半身と頭部、左腕を抱え、建物に向かって歩き始めた。唖然とするユウキと狐子に男は言った。
「ごめん、残りの体を持ってきてくれないか。細かいのも全部」

 建物の内部は外観からは想像できないほど新しく綺麗に整っていた。廊下を挟んでたくさんの部屋が並んでいたが、どこも扉が閉じられていて中は見えない。男は一番奥の部屋の扉を開け、中に入った。ユウキと狐子も後に続く。
 扉の中を見て、子どもたちはまた驚いた。小学校の教室ほどの広さの部屋は、ぎっしりと機械の部品で埋め尽くされていたのである。中央には鉄製のベッドが置いてあり、その周りは工場で使われるような種々の機器で囲まれていた。男はフミエの体をすべてベッドに置くと、部屋中を歩き回ってめぼしい部品を掻き集め始めた。そしてふと顔を上げて言った。
「少し時間がかかるから、君たちは隣の部屋で休んでいなさい」
 まだ状況が把握できていない二人は、促されるまま隣の部屋に入った。そこは病室のような匂いが仄かに漂っていた。蛍光灯を点けると、三つ並んだ白いベッドが眩しく光った。きちんとガラスの嵌った窓が少し開いていて、淡い植物の香と涼風が柔らかに忍び込む。ユウキと狐子は一つのベッドに並んで座った。
「おねえちゃん、大丈夫かなあ。あの男の人、お医者さんなんかなあ」
「よくわからんが、悪い奴ではないみたいだ。とにかく任せるしかないだろう」
 二人は橙色に染まった窓外を見つめながら黙り込んだ。ユウキの翼も黄昏色に項垂れている。ユウキが何かを思い出したように口を開いた。
「さっきの黒鬼、なんであんなふうになったんやろ?」
 まさに鬼の霍乱。頓死した黒鬼は何者かに襲われているようだった。狐子が俯いたまま呟く。
「あれは喰われた仲間たちがやったのだ。みんなこの森で待っていたのだ。黒鬼をやっつける機会を」
「ふーん。すごいなー、あんなでっかい怪物に勝つなんて」
「いやいや、お前だってすごかったぞ。黒鬼に立ち向かおうとしたではないか」
「そんなことしたっけ? 全然おぼえてないわ。まあ、結局なんにもできひんかったけどね」
 そう言ってユウキは泣きそうな顔で笑った。狐子もつられて笑った。そのまま二人はまた黙り込む。だんだんと光を失っていく窓の外を眺めながら。

         *

「おい、君たち、起きなさい」
 突然体を揺さぶられてユウキと狐子は目を覚ました。男が二人の両肩に手をかけている。いつの間にか二人とも眠ってしまったらしい。
「お腹減っただろう。晩ご飯の用意ができたから、こっちへ来なさい」
 寝起きのぼんやりとした頭で促されるまま部屋を出て、玄関に近い部屋へ通された。ユウキは部屋に入る前に、ちらりと奥の部屋を見た。あの実験室のような部屋の扉は閉じられ、建物は静まりかえっていた。
 招かれた部屋は一時代前の食堂のような広間だった。長方形の白いテーブルが八台置かれ、それぞれに六脚ずつの椅子が並べられていた。部屋の左手にはキッチンが見えている。ソースとニンニクの香ばしい匂いが部屋に充ち、子どもたちの食欲を刺激した。
「こんな場所だし男一人のやもめ暮らしなものだから、たいしたものは用意できなかったんだけど」
 机の上には、二つの大きな陶器の皿が置いてあった。その上には、ハンバーグにスパゲティ、チキンナゲット、ピザ、エビピラフ、そしてレタスとプチトマトが盛られていた。ほとんどが冷凍食品である。が、そんなことは気にせず、空腹の二人は椅子に座るやいなやフォークを片手に好きなものから食べ始めた。狐子は(果たしてハンバーグなど食べたことがあるのかどうか定かではないが)手づかみでむしゃむしゃと美味しそうに食べている。思えば子どもの好きそうなものばかりである。
 男は満足そうな笑みを浮かべながら、子どもたちを眺めている。手に一斤の食パンを持ち、それを小さくちぎって食べている。スパゲティをフォークに大きく巻きつけながら、ユウキは男に尋いた。
「おにいちゃん、なんでこんなところにいんの?」
 男は唇でキュッと笑みをつくると、こう答えた。
「ちょっと逃げてきたんだよ。あっちの世界から」
「え、おにいちゃんて、もしかして人間?」
 ユウキが驚いて尋ねる。男はおかしそうに答える。
「そう、人間だよ人間。人間の世界にいられなくなった人間さ」
 男は少し寂しげに微笑んだが、ユウキにその微妙な表情はわからなかった。男の唇の動きと発声される言葉に違和感があったが、それはさほど気にならなかった。とにかくイノチノオンジン、てやつだ。とユウキは思った。その時、ハンバーグを口に運ぼうとしていた手がぴたりと止まった。そうだ!
「おねえちゃんは?」
 男は食パンを二つに裂きながら答えた。
「大丈夫。今、処置してるから」
「ショチって?」
「元通りに直してる、ってこと」
 そう言いながら、二つに裂いたパンをまたくっつけて見せた。その時、ユウキの脳裏に引きちぎられた姉の姿が浮かび上がった。ハンバーグが刺さったままフォークを皿に戻す。男はテーブルに身を乗り出し、ユウキをじっと見つめて言った。
「そう心配しなさんな。明日の朝には会えるから」
 突然、ユウキの眼から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。麻痺させていた感情が一気に緩み、五歳児の感覚が押し寄せてきた。おねえちゃんがいないとさびしい。おねえちゃんがいないとこわい。おねえちゃんがいないとあそべない。おねえちゃんがいないとどこにもいけない。おねえちゃんがいないと、かなしい……。
 えぐえぐと泣き出したユウキを元気づけるように男は言った。
「こらこら泣いてないで、ちゃんと食べなきゃ。君たち、おばあさんを探しに来たんだろ?」
 ユウキは驚いた。
「なんで知ってんの?」
「だって、それ」
 男はユウキ越しに背中に目をやってそこを指差した。
「翼を取ってもらうんだろ、おばあさんに。何人か君と同じ翼を持った子どもに道を尋かれたよ」
 今度はユウキがテーブルに身を乗り出した。
「おばあさんどこにおるか知ってんの?」
 男は窓に目をやり、その向こうの夜を見ながら呟いた。
「まだもう少し先だよ。この森を抜け出る辺り。おばあさんはそこにいるんだ」
 そしてまたこちらに向き直って微笑んだ。
「だから、たくさん食べて元気つけとかなきゃ」
 ユウキは少し元気が出てきた。明日はおねえちゃんに会える。そして一緒におばあさんに会いに行くんだ!
「おかわりならまだあるからね。と言っても、冷食をチン、だけど」
「おかわり!」
 叫んだのは狐子だった。

         *

 プーンという音と震動でユウキは目覚めた。どこかで大きな機械が唸っているような音だ。狐子は隣のベッドでまだ眠っている。
 ユウキはベッドを降り、部屋を出て、音の聞こえてくる方へ向かった。そこは姉のいる部屋に違いなかった。
 ユウキがドアノブに手を掛けた時、扉が部屋側に開き、男がぬっと出てきた。その顔を見上げてユウキは後ずさった。男は別人のようだった。一夜のうちに頬は痩け、目の下が黒くなり、髪はざんばらに乱れていた。が、目からは爛々とした光が溢れている。
「ああ、ちょうど良かった。今君を呼びに行こうと思ってたんだよ」
 その声に抑揚はなく、男の目は遠いところを見据えていた。ユウキは男の横をすり抜け、部屋に入り込んだ。
 鉄のベッドの上に、フミエが横たわっていた。ごちゃごちゃとした線がフミエを取り囲んでいる。ブーンという音が微妙に高低を変えながら部屋中に鳴り響いている。ユウキは恐る恐るベッドに近づいた。
「ユ……ウキ……」
 おねえちゃんがしゃべった! 生きてるんだ! ユウキはベッドに駆け寄った。そして——

         *

 信頼篤き偉大な霊能力者であり天文学者であるムハンマド・アリスラは、アカシックレコードに奇妙な雑音が入っていることに気づいた。それは歴史への人為的介入を示すものであった。が、どこかしら無機質な響きに違和感を覚えた。その響きの中には、助けを求める叫びのようなものが時折交差していた。彼は全神経を集中させ、その雑音の奥へと潜っていった。注意深く、獣めいた光る眼で、音の粒子を観想し、追いつめる。そして彼は見つけた。この異次元を造り出しているものを。
「信じられない……まさかこんなものが……」

         *

 叔父の携帯電話が黒電話の着信音で鳴った。
「ああ、はい、わかりました。そこにあるんですね。あ、行き方とかわかります?」
 叔父は誰かと話しながら道の先を見つめ、指で家を何軒か数えた後、トモユキを振り返り、右手でOKサインをつくった。
 携帯電話を切った叔父は、温かな微笑み——そういえば、いつもこんな顔をしていたっけ——を向け、トモユキに問い掛けた。
「トモユキ、お前はいま幸せか?」
「幸せどころか、大不幸ですよ、フミエもユウキもいなくなって」
「いや、そこからやない。ここへ来る前のことや」
 ここへ来る前——それは幸せだった。いや、ここへ来る前は幸せかどうかなど考えたことはなかった。しかし今は思う。子どもたちがいて、妻がいる。その最小宇宙は、存在そのものが幸福であることを。日常が通常となり、普段は幸福など気に留めなくなる。幸福は無意識のうちに当たり前の日常に転化され、人は幸福を感じることよりもそれを侵されぬよう腐心することに努めるようになる。そこから生まれるのが、ぼんやりと世界を覆っている不安や恐怖である。幸福を守るがために不幸を恐れる。不幸が現実になった時、人は幸福を思い出す。
 トモユキは言った。
「幸せですよ、すごく。今は心からそう感じます」
 その答えに叔父は肯いた。
「よし、じゃあ行ってこい。フミエとユウキを連れ戻し、決して手放さないために」
 子どもたちは別の場所にいる。別の世界、と言ってもいいだろう。が、すべての世界は繋がっている。ここからその世界に行く入り口がある。三軒向こうの家の裏に、小さな池がある。それが入り口だ。
「フミエとユウキのことを想いながら、その池に頭から飛び込め」
「わかりました、ありがとうございます」
 トモユキは駆けだした。そして一旦立ち止まって振り返った。
「叔父さん、またどこかで会えますか」
「ああ、会える。夜中に枕元に立っといたるわ」
 叔父とトモユキは笑った。
「それじゃあ、また」
 再び駆けだす。その後ろ姿に叔父が叫んだ。
「風邪ひかんようにな。水冷たいぞ」

         *

 ベッドに裸で横たわるフミエを見て、ユウキは言葉を飲み込んだ。
 フミエの身体は、半分機械になっていた。
 首には鉄輪が嵌められ、頭部と胴体を繋いでいる。額の真ん中と右の頬に大きな穴が開き、そこには小さなバネを幾つか組み合わせた部品が埋め込まれている。顔の左半分は鼻と口を除けて鋼鉄のマスクが打ちつけられ、丸く開いた穴からフミエの左目が見えている。左半身はすべて機械になっている。左手は元に戻せなかったのだろう。機械の手と足は、鉄パイプとワイヤーが幾筋か組み合わされ、関節部分には大きなボルト、後は適当に調達してきたような統一性のない部品で造られていた。が、手の指はきっちり五本あり、カチャカチャと音を立てながら動いている。胴体の表面は成型した鉄板を何枚か貼り合わせたもので覆われている。中身がどうなっているのかはわからない。中からは歯車が触れ合い、自転車のチェーンが回っているような音が聞こえている。
 フミエは目覚めていた。ユウキの方へ顔を向け(ギギーッと音をさせながら)、微笑みかける。
「おねえちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。なんだか体が重くて変な感じがするけど」
 そう言ってフミエはゆっくりと体を起こした。ベッドに上半身だけ起こし、両手を前に持ち上げて眺めている。指を握ったり開いたりを暫く繰り返して、言った。
「おねえちゃん、ロボットになってもた」
「立つことも歩くこともできるよ。ゆっくりだけどね」
 知らぬ間に男がユウキの後ろに立っていた。顔つきは少し穏やかになっている。一晩中、フミエの体を機械で造り、命を組み立てていたのだろう。そして男は付け加えた。
「でも一つ、言っておかなければならないことがあるんだ」
 機械は徐々に肉体を浸食していく。この世界では機械も生きていて意思を持っている。やがて体全体が機械に変わる。体だけではない。感情も記憶も機械のメモリーに組み込まれ、機械の思考と置き換えられていく。最後には人間としての体も記憶も消え、完全な機械になってしまう……
「さあ、急いでおばあさんのところへ行きなさい。時間はあまり残されていない」
 男は自分の使命を託すかのように子どもたちを促した。
「でも、この格好じゃあ……」
 フミエが恥ずかしそうに言う。
 ちょっと待ってて、と男は部屋を出て行き、暫くして戻ってきた。
「ごめん、こんな服しかないけど、裸よりマシだろ」
 それは男の物と思われる紺色のジャージで、腕とスボンの裾が鋏で不器用に切り取られている。男の靴下もあった。靴は幸いフミエのものが残っていた。学校指定の黄色い靴は、所々に黒い血が乾いていた。
 この服も充分恥ずかしい。フミエは心の中で思った。

 漸く起きてきた狐子——フミエを見てコンと叫んだ——と子どもたちは、男に冷凍食品の焼きおにぎりとペットボトル入りのお茶を持たされ、再び森を行くことになった。
「おにいちゃん、ありがとう。おねえちゃんをなおしてくれて」
 男は微笑み、軽く手を上げた。
「気をつけて。おばあさんによろしく」
 子どもたちは歩き始めた。その後ろ姿、大きく垂れた翼と機械の手を見つめながら、男は呟いた。
「頼んだよ、子どもたち」

         *

 現実世界は、全世界にテレビ中継された信頼篤き偉大な霊能力者であり天文学者であるムハンマド・アリスラの発言に騒然となっていた。

「この世界は今、ある機械に支配されている」

 ある機械、とは一体何であるのか。アリスラは「何か鉄製の焼却炉みたいなもの」と表現し、「側面に大きな穴が開き、短い煙突が二本上部に突き出ている」と付け加えた。その大きさはわからないと言う。
 様々な憶測と噂が世界を飛び交った。
「どこかの国の戦略兵器だ」
「いや、宇宙人が地球を支配しようとしているのだ」
「その焼却炉は死せる魂の象徴であり、これは霊界からの干渉に他ならない」
「アトランティス文明の隠された機械がついに蘇り発動したのだろう」
「それなら小学校の裏にある」
「アリスラはペテン師だ」
 しかしどの想像も真実に至ることはなかった。そもそも機械に支配されているという状態が誰にも理解できなかった。アンドロイドの軍団が体中からレーザー光線を撃ちながら街を破壊しているわけではない。むしろ機械のイメージとはほど遠い、奇々怪々たる超常現象が起こっているのだ。アリスラは言う。その機械が異界を創造し、地球に覆い被さっているのだ、と。
 その間にも龍は雨雲の隙間を駆け、飛行機の翼にガルーダが舞い降り、墓場から這い出た骸骨たちがどこかで調達してきたフォア・ローゼスを垂れ流しながら宴に興じていた。学校の天井にはミケランジェロの天井絵画が浮き上がり、絵の中の天使が夜毎ラッパを吹き鳴らした。マンションの建設現場には古びた大聖堂が一夜のうちに姿を現し、パイプオルガンの音が中から聞こえてきた。神様は相変わらず突っ立ったままである。

         *

 朝まだきの森は夜雨に濡れ、土と植物の臭気が充満していた。時折天を覆う葉や梢から水滴が落下し、子どもたちの背筋を脅かした。古代の森を思わせるその光景に、似つかわしくない機械音がリズミカルに響き渡る。
 フミエの歩みはぎこちなかった。機械の左足はまだ思うように動かず、引き摺るようにしか歩けなかった。湿った土の上に深い足跡の筋ができる。その横を心配そうにユウキが歩いている。
「おねえちゃん」
「ん、なに?」
「痛くない?」
「うん、痛くないよ。ちょっと歩きにくいだけ」
「おねえちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
「なにが?」
「黒鬼出てきたとき、助けようとしてくれたやろ」
「当たり前やん。おねえちゃんやねんから。それより、ユウキも助けてくれようとしてたやん。おねえちゃん、見えてたで。ユウキがファイティングポーズとってんの。さすがユウキや。勇気あるわ」
 そう言ってフミエは笑った。その声に金属を擦り合わせるような音が微かに混じっている。だんだんと機械になっていく——男の言葉を二人は思い出した。
 その時、フミエが突然立ち止まった。ふと眺めた森の奥、緑の葉が生い茂る中に、真っ赤な眼でこちらを伺う獣を見つけたのである。それは巨大な狼に見えた。恐る恐る周囲を見渡す。まったく気づかなかったが、そこここに数知れぬ眼があった。狼。蜥蜴。猫。熊。蜘蛛。蛇。蛙。無数の足を持つ蟲。地を這う生き物たちがびっしりと周りを取り囲んでいた。それらはどれも図抜けて大きく、故に今まで目に入らなかったのかもしれない。
「大丈夫。奴らは手を出せぬ」
 狐子が落ち着いた声で言った。
「守ってくれておるのだ。仲間たちが」
 眼に見えない狐子の仲間たち。黒鬼に喰らわれ、肉体を奪われた魂が、生き残った仲間を守護している。そのイメージにフミエは美しく尊いものを感じた。
「仲間って、狐なん?」
 フミエが尋ねる。
「狐に育てられた人間だ。正しく言えば、あっちの世界に生まれ得なかった人間が、こっちの世界で狐に育てられた、ということだ。わからんだろ?」
「うーん、ようわからんけど、なんか、ちょっとあったかい感じがするね」
 言い終えてフミエは咳き込んだ。咳と共に口から小さなネジが飛び出した。
「ちょっと急ぐとしよう。二人とも消えたり機械になられてはたまらん」
 一番後ろにいた狐子は、ちょこちょこと歩を進めると、先頭に立ち歩き出した。フミエも機械音を立てながら急ぎ足で進んだ。無数の光る眼に囲まれ、無数の眼に見えぬ仲間に守られながら。
 
         *

 教えられた家の裏に、確かに池はあった。高級住宅街の裏手に突如現れた小さな野池。その向こうには遥々とした田園風景が広がっている。まったく現実離れした光景である。その中に、現実として受け止めざるを得ない光景があった。
 池が干上がっていたのである。
 池の底は例の如くひび割れた土しかなく、魚やザリガニの死骸さえ見当たらない。地面を大きくえぐった落とし穴。そんな感じだ。深さは二メートルもあろうか。
——フミエとユウキのことを想いながら、その池に頭から飛び込め——
 ここに頭から飛び込めと言うのか。だがトモユキは腹を括った。こんなわけのわからない世界。現実的な心配をしている場合か。きっと目には映らない水があって、飛び込んで目を開けばフミエとユウキのいる場所に続く洞窟がぽっかりと口を開けているのだろう。そう、叔父の言葉を信じるのだ。フミエとユウキのことを想いながら頭から飛び込む。急げ。
「くそ、風邪ひくどころちゃうやんけ」
 トモユキはあたかも水の充ちた池に飛び込むが如く、池の縁を蹴り、腕を真っ直ぐに伸ばして宙に飛んだ。しかし、イメージしていた幻の水面はやはり存在せず、あっという間にひび割れた池の底が眼前に迫った。
 ぶつかる!——と思った瞬間、予想外のことが起こった。池の底に突如真っ暗な穴が開き、トモユキは深淵なる暗黒に吸い込まれていった。ただ落下するのではなく、吸い込まれるように加速していく。トモユキはとっくに気絶していた。

         *

 もう三時間は歩いただろうか。森は粛々と続いている。陽光が強くなり、木漏れ日がフミエの鉄の腕を煌めかす。子どもたちは無言で歩き続けていた。ユウキの荒い息づかいにも増して、森に響く機械音が大きくなっている。ユウキはちらりと姉の顔を見て目を逸らした。左顔面を覆っている鉄のマスク。そこから覗いていたはずの目が機械の目に変わっていた。フミエの目に模した機械の目は、カチッ、カチッと小さな音を鳴らして瞬きを繰り返している。その音を聞き分けながら、ユウキは考えていた。魔法使いのおばあちゃんは、おねえちゃんも元に戻してくれるだろうか。
 先を行く狐子が立ち止まった。
「道が、無くなっとる」
 遙か前方に小高い岩壁がそそり立っていた。ユウキには見えなかったが、道がそこで途絶えているのが狐子には見えるらしい。
「とにかくあそこまで行ってみよう」
 狐子は再び歩き出す。ユウキとフミエも後に続く。フミエは一言も発しない。もう体の中まで機械になってしまったのだろうか。道が無いって、じゃあ、おばあさんの家はどこに?——
 確かに道は途絶えていた。眼前には一枚岩を割ったような荒っぽい壁が聳えている。それは左右にも伸び、木々が絡み合った険しい森に埋まっていた。岩壁の上部は葉と枝の天井に隠れて見えない。日の光も遮られ、辺りは暗い緑に覆われている。
——ガシャン!
 突然大きな金属音が響き、ユウキと狐子はびくりと首をすくませた。振り向くと、フミエが仰向けに倒れていた。
「おねえちゃん! おねえちゃん!」
 ユウキはフミエの上に屈み込み、叫んだ。
「そんナ大きナ声ダさんデも」
 フミエが機械音の混じった声で喋った。生身の右目と機械の左目でユウキを見つめ、微笑んでいる。
「ちょッと滑っテ転んダダけやから」
 右の頬に埋められていた鉄の部品は、今や青光りする鉄板に変化し、大きく広がっていた。ユウキは泣き出した。
「もお、おねえちゃん機械になってもたらイヤや。機械にならんといてえやぁ」
「泣かんデもええヤん。おネえちャん、機械ニナっテもユウキと遊んダげルカラ」
 フミエは右手でユウキの背中をぽんぽんと叩いた。その指先が鈍色に変化し始めている。機械化は加速しているようだ。
 ふとフミエの瞳が木々の天井に向けられた。
「あ、トリ」
 ユウキと狐子もフミエの視線の先を見上げる。深緑の葉と幾重にも交差する枝の間に、真っ白な鳥がいた。丸い大きな眼でこちらを見下ろし、突き出た耳で子どもたちの声を聞いている。それは体長が五十センチはありそうなミミズクであった。
「地を這う者たちがいなくなっておる」
 狐子が辺りを見渡して呟いた。ずっと子どもたちに付きまとっていた獣や蟲の眼が消えている。周囲に充ちていた不穏な気配もいつの間にか無くなり、この森に初めて踏み入った時の美しい光景に戻っていた。
「ここで終わりなん? トバズノモリ」
 その時、白ミミズクがばさりと飛び立った。暫く枝を縫うように飛び回り、やがて右側の道無き森へと飛び込んで行った。その直前に首だけをくるりと後ろに回し、片眼を閉じた。ミミズクの白色が緑の奥でちらちらと輝いている。
「今、ウインクしたで、あの鳥」
「ツいテ来い、ッテこトかナ?」
 フミエはギシギシと音を立てながら上半身を起こした。
「重タ。チょット起キるノ手伝ッテ」
 ユウキと狐子はフミエの脇の下を両側から支え、持ち上げた。尋常でない重さである。フミエの内部で確実に機械化が進んでいるようだ。
「とにかく行ってみるか。あの鳥が飛んで行った方向へ」
 狐子はそう言うと、木の枝を掻き分け、右側の森へと入って行った。同時に狐子の周りの木々がざわざわと揺れ動いた。見えない仲間がまだ一緒に来てくれているのだろう。フミエとユウキも狐子たちが拓いた道に入り、白い鳥を追った。

 泳ぐように枝葉を割いて進むうちに、森は突如として拓けた。目の前には紫と白の花が咲く小さな草原があった。森に囲まれた草原には日光が降り注ぎ、草花は目映く輝いていた。上空には晴れ渡った青い空が広がっている。子どもたちは思わず目を細めた。その明るい光を浴びながら、幾匹かの蝶が飛び交っている。まるで春の真っ只中に迷い込んだような状態である。夢を見ているのか、はたまた狐に騙されているのか。狐子さえ狐につままれたような顔をしている。その不思議な風景の中に、子どもたちは見た。岩壁に張り付くように建つ、奇妙な形の小屋を。
 その小屋は二階建ての丸太小屋で、随分と古びていた。一階には小さな扉があり、二階にはガラス張りの小窓が一つ。中は暗くて見えない。そして屋根からは、太い煙突のようなものが岩壁の上まで伸びている。三十メートルくらいはあろうか。
「おばあさんの家や」
 ユウキが思わず叫ぶ。いかにも魔法使いが住んでいそうな佇まいである。ユウキは駆けだしていた。叢からバッタやコオロギが驚いて跳ね出る。ユウキは息を切らして扉の前に立った。そして扉をノックしようとした時、ギィーッと音を立てながら扉が内側に開いた。

         *

「もしもし、大丈夫ですか。もしもし」
 男の声が意識の遠くから聞こえ、トモユキは覚醒した。顔を上げると、目の前に若い男の顔があった。長めの金髪に銀縁の眼鏡。高い鼻。青い瞳。まだ二十歳を過ぎたくらいに見える男が、日本語で話しかけてくる。(口の動きは外国語を喋っているようだった)
「あの子たちのお父さんですね。お顔が息子さんにそっくりだ」
 トモユキははっと我に返った。
「子どもたちのことを知ってるんですか!」
 こんなところではなんですから、と、男はトモユキを建物に招き入れた。そしてトモユキに缶コーヒーを渡し、これまでの経緯を語った。話を聞き終えたトモユキは明らかに動転していた。
「フミエが……そんなことに」
 トモユキは口を手で覆い項垂れた。しかも時と共に身体が機械に浸食されていくという。ユウキの翼も成長したらしい。いつ消えてしまうかわからない。
「ありがとうございます。私は今すぐ後を」
 その言葉を遮るように男は言った。
「その前に、僕の話を聞いてくださいませんか。もしかすると、お子さんたちを救えるかもしれません」
 立ち上がりかけていたトモユキは、再び椅子に腰を下ろした。
「子どもたちを救える? いったいどうやって」
 男は落ち着いた口調で、始めにこう言った。
「この世界を造っているのは、ある一つの機械なんです」

 この世界を造っているのは、機械である。
 その機械は、生命体が発する「想念」を感知し、吸収し、増幅させて吐き出す、という仕組みになっている。想念は生物が発する微弱な電気エネルギーである。それは電磁波や諸々の粒子の波に乗って速やかに地球を覆い尽くす。そして風を伝い地を伝い、携帯電話やワイヤレスネットワークに潜入して世界中の人々の体に入り込む。いや、人間だけではない。あらゆる生物から想念は放出され、また送り込まれる。多種多様な生命体の想念がごちゃ混ぜとなり、すべての生命体に吸い込まれるのだ。
 想念のほとんどは、不安と恐怖、諦めに近い願望で占められている。その成分の多くは、嫉妬や虚栄心や被害者意識、そしてそれらを解決するための妄想云々である。通常、これらのネガティブな要素を打ち消すために、頭脳はポジティブな願望や期待、喜び、そして愛と総称されている様々な感情を獲得し、バランスをとりながら生物を生かしている。そのバランスがこの機械の作用によって崩れ、剥き出しの想念が形を成して現実界に立ち現れているのである。それは単なる幻影ではない。想いというエネルギーの粒が物質化した実像である。その機械は地面に足跡を残す百鬼夜行を止めどなく製造しているのだ。
「その機械を造ったのは、僕なんです」
 男はアメリカに本社のある精密機器メーカーのエンジニアだった。子どもの頃からオカルトじみたものに興味があったが、大学生の頃にドッペルゲンガー——もう一人の自分を目撃して以来、超心理の世界に傾倒するようになった。中でも彼がのめり込んだのは「タルポイド説」というものだ。タルポイドとは、人間の想念が物質化する現象のことである。タルポイド説によると、古来より人々を脅かしてきた怪物や異星人、今も目撃談の絶えない未確認生物、未確認飛行物体、延いては天使や悪魔、妖精に至るまで、すべては人の想念が物質化して出現したものだという。想念の物質化。その蠱惑的な現象に取り憑かれ、彼は一人で研究を始めた。人の想念を増幅し、物質化させる機械の研究である。人の思考が脳内で発生する電気活動である以上、そのエネルギーを何らかの粒子と結びつけ、質量を持つ物質に転化することは可能であると思われた。彼は自宅の地下室に様々な部品や道具を持ち込み、夜毎研究に没頭した。そして試験段階の機械に電気を通した途端、それは暴走し始めた。発明者は最初の犠牲者となった。彼は想念の異空間に吸い込まれ、気がつくとここで生活していたという。幾度も元の世界に戻ろうとしたが、この森を抜け出すことはできなかった。彼はすでに異界の住人として籍を置かれてしまったのだ。しかし、機械の強力な作用を受けたためか、彼には想念を現実化する力が備わった。ただしその力は、現実世界の物体をここに持ち込む程度のものであったが。
「なんだかよくわからんが、とにかく子どもたちを救う方法を教えてくれ」
 男の説明をそこまで聞いて、トモユキは思わず口を挟んだ。男は肯き、手短に語った。
「あの機械を破壊することです。機械は今、想念の世界と現実世界の間に身を隠しています。その場所へは、あなたのお子さんたちが案内してくれるでしょう。ちょっと待っていてください」
 男は足早に部屋を出て行き、ほどなく何か大きな物を持って戻ってきた。
 それは黄金に輝く「翼」であった。
 翼は翼部と制御パネル、装着用のハーネス、操縦用の手袋で構成されていた。翼部は開長三メートル強、幅は一メートル、厚みは最大三五センチメートル。その形はツバメの翼に似ている。翼の表面には、木の葉型の形状記憶プラスチックが鱗状に重ねられている。その内部には伸縮性のある強化電熱線が葉脈のように張り巡らされ、形状記憶プラスチックのピースを複雑につないでいる。その電熱線の発熱による形状記憶プラスチックの変形が羽ばたきの力となる。形状記憶プラスチックは大小のピースが連動することにより、それぞれの微妙な変形が増幅され、大きく滑らかな翼の動きを生み出す。翼の変形に伴ってピースの密着度が高まるように設計されており、力強く風を孕むことができる。また、翼に取り込まれた空気が電熱線を瞬時に冷却し、プラスチックピースの素早い変形を繰り返し得られるようになっている。各ピースに伝わる発熱のタイミングは飛行の状態に合わせてプログラムされている。
「この翼を使って、森の外れまで飛んで行ってください。地上を行くのは危険ですから。そこでお子さんたちに出会えるはずです」
 それから、と言って、男は金属製の小さなボールを目の前に掲げた。
「機械を見つけたら、この爆弾で破壊してください」

 トモユキは背負っていた荷物を置いて背中に翼を装着した。爆弾をズボンのポケットに入れて、教えられたとおりに助走した。
「地底の次は空かいな。しかも爆弾付きや。ほんまえらいとこ来てもた。早よ子どもら連れて帰らな。フミエ、ユウキ、待っとれよーっ!」
 トモユキは大地を蹴り、腕を前に伸ばした。その瞬間、翼は一瞬にして大きく開き、深く、素早く羽ばたき始めた。

         *

 扉の向こうに立っていたのはおばあさんではなく、さっきまで一緒にいた青年であった。顔はもちろん、白衣まで同じである。男は扉から出てくると、狸に化かされたような顔をしている子どもたちに向かってニヤリと嬉しそうに笑った。
「魔法使いのおばあさんじゃなくてごめんね。僕は彼のドッペルゲンガー……って言ってもわかんないか。まあ、双子みたいなものだよ双子」
 フミエが恐る恐る尋ねる。
「ココじャナいんデすカ? ツバさをトッテクれるおバあサんノトコろッテ?」
 男とは真面目な顔になって言う。
「実はおばあさんなんていないんだ。すべては君たちをここに導くために、僕たちが仕組んだこと——」
 ある機械が、人の想像したことをごちゃごちゃに混ぜて変な世界を創ってしまった。今、その変な世界の一部に君たちと僕はいる。この世界を消し去り、元の世界を取り戻すには、その機械を壊すしか方法はない。しかし、生身の体では——つまり人間はその機械に近づくことはできない。機械はこの変な世界に隠れてしまったから。
「その機械に近づいて壊すことができるのは、君たちだけなんだ」
 男はフミエとユウキ、狐子を小屋に招き入れた。中は調度品が何も置かれておらず、埃が積もった床が広がる殺風景な場所だった。部屋の端に上階へと続く階段がある。
男は階段を上り始めた。三人も後に続く。フミエが機械の足で階段を踏みしめる音が響く。階段は螺旋状に、上へ上へと伸びている。
「その機械を壊したら、おねえちゃんも元に戻る?」
 ユウキが男の背中に尋ねる。男は振り向かずに答えた。
「そう信じていれば、きっと元に戻るよ。信じて、願うんだ。ユウキくん、君は知っているかい?」
 男は階段を上りながら話し始めた。ユウキが生まれた時のことを。
「君のおかあさんが君を産み落とした時、真っ先に抱き上げたのはおとうさんだった。おとうさんは心からこう願った。生きてくれ、と。おとうさんだけじゃない。おかあさんもおねえちゃんも、同じことを願った。その時、君の体に命が吹き込まれ、産声を上げたんだ」
 ユウキはその時の光景を思い出したような気がした。血まみれの世界から明るく白い世界に導いてくれた三人の声。
「今度は君が想い、願うんだ。おねえちゃんのこと、おとうさんのこと、そしておかあさんのことを」
 ユウキの小さな体の中に、熱い火のようなものが灯った。それは左胸の辺りから背中に回り、翼を一瞬大きく奮わせた。後ろにいた狐子が階段を踏み外しそうになる。
 果てどなく続いた階段がついに途絶えた。目の前に木の扉がある。男が扉を開き、外に踏み出す。そこは岩壁の頂上だった。
 そこには意外な風景があった。断崖から望む眼下には、黄金色に暮れなずむ異国の街が広がっていたのである。そして四人は見上げた。街の中心部に聳え立つ、巨神の姿を。

「機械は、あの中にある」
 男は神を指差した。その姿は、鋼鉄を纏ったダビデ像のようであった。不思議なことに、四人とも同じ姿を見ていた。男は言った。
「あれは、機械の神様なんだ」
 鋼鉄の神。それは機械自体が描き出した神の姿だった。現実世界の人々はその黒光りの表面に映し出された自身の神を見ている。言わばあれが本体なのである。
「そしてあの虚像に近づけるのは、この世界にいる者だけなんだ。見てごらん」
 鋼鉄の神の周りを飛び交う天使たち。それは現実世界から突然姿を消した子どもたちである。よく見ると、翼の生えた子どもたちは、神に向かって何かを投げつけている。
「子どもたちが投げているのは鉄屑なんだ。あの中にある機械を壊そうとしているんだよ。彼らは君たちと同じように、僕たちが導き込んだ。でもあの程度の鉄屑じゃあ、機械にダメージを与えることは難しいようだ」
 男は奮闘している子どもたちを悲しそうな目で見つめた。しかしその目の奥には、覚悟にも似た強い光があった。
 その時、遠く背後から声が聞こえた。四人は振り向いた。森の巨木を越え、こちらに向かってくる大きな鳥。
「おとうさん!」
 ユウキが叫んだ。それは金色の翼を大きく羽ばたかせて飛ぶトモユキだった。トモユキは速度を弛めることなく接近し、断崖の上に滑り込むように転がり落ちた。
「フミエ! ユウキ!」
 トモユキはしゃがんだまま、子どもたちを両手で強く抱きしめた。声を上げて泣き出すフミエとユウキ。
「ほんまお前ら心配かけやがって」
 トモユキは抱きしめたフミエの冷たさに驚き、その顔を覗き込む。顔のほとんどが鉄のマスクで覆われている。機械化、ってやつがここまで進行しているのか。トモユキは立ち上がると、青年に向き直った。
「あなたが彼のドッペルゲンガーですね。言われたとおり、爆弾を持ってきました。早く機械とやらを破壊してください」
 トモユキはズボンのポケットをまさぐりながら言った。両手を前のポケットに差し込み、次に後ろのポケットを探る。その動作を何度か繰り返し、絶望的な表情で顔を上げた時、森の遠い所で爆発音が響いた。振り返ると、森の一部がぽっかりと消失し、黒い煙がその上空に立ち込めている。青年は言った。
「落とした爆弾のスイッチを地を這う者がいじったんでしょうね」
 トモユキは煙を見つめながら、呆然と地面に両膝をついた。
「ああ、なんちゅうことをしてしもたんや……。ごめん、みんな、ごめんな」
 子どもたちはその大爆発の跡を口を開けて見つめている。男は少し微笑みながら、しかしきっぱりとした口調で言った。
「こうなったら最後の手段しかないですね。皆さん、僕を信じて協力してください」
 最後の手段。それは機械の神様の中に入り、直接機械の作動を停止させる、というものだった。そこにどのような危険が待ち受けているのか。それは男にもわからないという。
「おそらく、機械は地下室に据え付けられているはずです。その周りにはいろんな工具が転がっていると思いますから、それで機械を破壊してください。スイッチを切るだけでは止まらないでしょう」
 トモユキが答える。
「わかった。じゃあ私が行ってきます。こうなったのも私の責任だ。お前たちはここで待っていなさい。あれに飛び込んだらいいんですよね? それでは」
 早速飛び上がろうとするトモユキを男が慌てて制する。
「ダメなんです。現実世界の体であの中に入ることはできないんです。ここであの中に入れるのは、現実と想念の世界、その二つにまたがった存在」
「誰ですか?」
「ユウキくんです」
「はあ〜っ? こんなちっこい子どもにそんな危ないことさせられるか!」
 トモユキは男の胸ぐらに掴みかかった。男は伏し目がちに言った。
「確かにそうですね。ユウキくんがあの中に入っても、機械を停止するのは難しいかも知れない……」
 希望は一瞬にして潰えた。しかしここで諦めるわけにはいかない。トモユキは言った。
「もう一度君の本体の所に戻って、爆弾をもらってくる。今度は落っことさないように戻ってくるから」
「その時間はありません。おそらくその間に、ユウキくんは完全にこの世界の住人になってしまうでしょう。いずれにせよ、あの神に近づけるのは今の状態のユウキくんだけなんです」
 万事休す。トモユキは両手で顔を覆った。その時、ユウキが口を開いた。
「ぼく、やってみるわ。機械こわしてきたらええんやろ。あそこのみんなも頑張ってるし、ぼくもやってみる」
 ユウキは鋼鉄の神の周りに飛び交う翼の生えた子どもたちを見つめながら言った。
 そんなもん無理や、とトモユキが言いかけた時、
「アタしモ入レルんチャウかナ。まダ全部機械ニナッテナイみタイやし」
 フミエが機械音の混ざった声で言った。
「ワシも行く。元々は霊界ってところの住人だから、行けると思う」
 狐子も声を合わせた。トモユキは狐子を初めて振り返り、何か不思議な感覚にとらわれた。もしかして君は——
「おとうさん、どうされますか?」
 男が尋いてくる。元々お前が悪いんやろが、という言葉が喉元まで出てきたが、今更そんなことを言っても始まらない。トモユキは再び腹を括った。
「よし、わかった。とにかくやってみよう。でも、お前たちだけを行かせるわけにはいかない。俺も行く」
 トモユキは言った。俺がフミエを抱いてあの中に飛び込む。ユウキは狐の子を抱いて飛べ。ユウキ、飛べるか?
「やってみる」
 ユウキは背中に神経を集中し、翼に力を込めた。その瞬間、翼は大きく風をはらみ、ユウキを中空に打ち上げた。
「あんまり意識せんでも飛べるみたい」
 空の高みで大声で叫ぶ。そして上空を一回転して再び舞い降りた。
「じゃあ一か八かやってみるか。フミエ、おとうさんにしっかり掴まっとくんやで」
 トモユキはフミエを片手で抱きかかえる。重たっ、と思わず声が出る。
「危ないと思ったらすぐに戻るからな。ほんじゃ行くで。せーのー」
「あ、そうそう」
 男が間の悪い声を掛ける。
「神の心臓を目掛けて飛び込んでください。あの辺りが入りやすくなるよう、僕が念を送りますから。おとうさんの体も一緒に」
 トモユキは右手を軽く挙げて了解を示した。再び仕切り直す。
「よっしゃ本番や。行くで。せーのーでっ!」
 フミエを抱いたトモユキと狐子を抱いたユウキが断崖の縁に向かって走り出す。二組は速度を上げ、地面を思い切り蹴り、その絶壁から空へ飛び立った。ユウキは天高く上昇し、トモユキは真っ逆さまに落ちていった。

「あかん、重すぎる!」
 トモユキは懸命に機械の翼を羽ばたかせたが、落下は阻止できなかった。眼下には異国の白い街が広がり、急速に拡大されていく。トモユキはフミエをしっかりと抱きしめ、無意識に翼に力を込めた。機械の翼であるにも関わらず。
 が、その瞬間、体がふわりと宙に浮いた気がした。思わず閉じた目を開く。街がゆっくりと遠ざかっていく。上昇しているのだ。トモユキは背後を振り返った。翼の先に、天使がいた。右の翼に三人、左にも三人。天使たちは機械の翼を両手で掴み、巨神の方へと引っ張っている。一人は歪な翼を持ち、時折ふらふらしながらも懸命に翼を掴んで飛んでいる。
「おじさん、落っこちてる場合じゃないよ」
 天使の一人——アジア系の子どもだ——が言う。どう答えていいかわからず、無言のまま翼の生えた子どもたちに曳航されていく。機械の神がだんだんと近づいてくる。黒い鋼のダビデ。
 ダビデ。それはヘブライ語で「愛された者」を意味する。そしてダビデは戦士でもあった。ミケランジェロの創ったダビデ像は、ダビデが巨人兵士ゴリアテとの闘いを決意した瞬間を表しているという。皮肉なことに今、ダビデが巨人となり、この小さき者たちに闘いを挑まれている。
 ユウキは狐子を抱いたまま、左胸の前に掲げられた巨神の腕の周りを旋回していた。
「おとうさん、びっくりするやん。落っこちてる場合とちゃうで」
「そんなこと言われてもやなあ——まあええわ。それより、みんなで一気に突っ込むで」
 トモユキは翼を持つ子どもたちに向かって叫んだ。
「こいつの左胸、心臓の辺りに思い切り突っ込んでくれないか」
 子どもたちは肯き、翼の羽ばたきを速めた。ユウキも大きく旋回して速度を上げた。崖の上で白衣の男が念じる。すべてが神の左胸に向けて一直線に放たれた。そして四人は、神の中へと消えた。

         *

 四人は固いコンクリートの地面に転がり落ちた。
 そこはあの男の地下実験室に違いなかった。くすんだ白い壁を天井からぶら下がった二つの蛍光灯が薄暗く照らしている。広い部屋には様々な部品や工具が転がり、至る所を配線が這っていた。中央には木のテーブルが一脚置いてあり、書物が山積みになっている。その横にはデスクトップタイプのパーソナルコンピュータがあり、モニタには回路の設計図らしきものが映し出されている。部屋中に耳鳴りのような機械音が響いている。電気ストーブのスイッチを入れた時に鳴るブーンという音だ。音の源は、テーブルの向こうの壁際に隠れていた。
 それは小型の工業用送風機を思わせる機械だった。四角いコンクリートの台座に太い筒状の胴体が横たわっている。右側には網目状のカバーが嵌め込まれ、中で羽根車が音を立てて高速回転している。左側には丸い大きな穴が黒い口を開けている。胴体の中央部には制御盤らしき箱が埋め込まれ、薄く開いた蓋の向こうに幾つものボタンが見えている。剥き出しの鋼で覆われた機械。色も種類も異なる有り合わせの鉄材。出鱈目に打ち付けられた螺子。見るからに未完成の試験装置。こんなものが、混沌たる巨大な異空間を生み出しているのか。
「こいつだ。よし、とっとと壊してまおか」
 君たちは下がっていなさい、とトモユキは子どもたちを扉近くに移動させると、翼を外し、足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げて機械に近づいていった。その時——
 トモユキの前をトモユキが歩いている。右手に鉄パイプを持ち、機械に近づいていく。トモユキは機械の左側に回り込むと、鉄パイプを捨て、機械の穴に頭から飛び込んだ。その後ろからまたトモユキが歩いていく。機械の左側に回り込むと鉄パイプを捨て、機械の穴に頭から飛び込んだ。続くトモユキも鉄パイプを捨てると、機械の穴に頭から飛び込む。トモユキの前を歩くトモユキは、機械の左側で鉄パイプを捨てると、機械の穴に頭から飛び込んだ。トモユキは機械の左側に回り込むと鉄パイプを捨て、機械の穴に頭から——
「おとうさん!」
 腰にしがみつく子どもたちに気づき、トモユキは我に返った。目の前にはぽっかりと機械が口を開けている。一瞬、真っ赤な舌がべろりと穴の縁を舐めたように見えた。子どもたち諸共、慌てて後退する。
「これは舐めてたらあかんな」
 うっかり近づけば、想念の世界に引きずり込まれる。近づけば? この部屋にいること自体、充分に近づいているではないか。世界中の人の想いが入り乱れて部屋中を満たし、形成す不可視の波に変換されて吹き出されている。その波もまたこの部屋に広がり、壁を抜けて奇天烈な世界を創り出す。その真っ只中に彼らはいるのだ。
 機械から何かが染み出してきた。黒い煙のようなもの。それは機械を取り囲み、徐々に広がっていく。闇が涌いてきたのだ。壁際から部屋を埋めていく闇。その中には何があるのか。
「一旦、外に出るぞ」
 トモユキが叫び、背後の扉に手を掛けた。
 その扉に、ドアノブは無かった。
 体当たりしたがびくともしない。振り返ると闇は眼前に迫っていた。
「みんな、手をしっかりと繋ぐんだ」
 四人は隣同士で手を繋いだ。トモユキはフミエとユウキの手を握り、ユウキは狐子の手を掴んだ。その瞬間、部屋は闇に呑み込まれた。

「フミエちゃん、今度はどれ乗りたい?」
「メリーゴーランド!」
 母のマサエに手を引かれ、フミエは目の前に広がる光景に興奮していた。
 その遊園地は、幼稚園に入る頃までよく連れてきてもらった思い出の場所だ。が、二年前に経営不振で閉園し、今は跡地にマンションが建設されている。
 フミエはメリーゴーランドの白馬に跨った。横にはマサエが立ち、フミエを支えてくれている。マサエのお腹は大きく膨らんでいた。中にユウキが宿っているのだ。ユウキが産まれるまでは、マサエもトモユキもフミエ一人のものだった。フミエ一人にその愛情は注がれていた。
 ブザーの音と共に、メリーゴーランドが回り始める。上下しながら走る馬。周りの景色がぐるぐると巡り、楽しそうな乗り物や親子がどんどん後ろに過ぎ去っていく。
 目を戻すと、マサエの姿が無かった。驚いて辺りを見回す。いた。マサエは少し後ろの茶色い馬の横に立っていた。その馬にはユウキが乗っていた。嬉しそうに笑っている。フミエの馬が激しく上下に動き出した。必死で馬の首から突き出た棒を握り締める。が、そんな棒は存在せず、馬は本物の馬に変わっていた。その首に強くしがみつく。馬は前足を上げて嘶き、メリーゴーランドから飛び出した。
「おかあさーん!」
 疾駆する馬にしがみつきながら、フミエは叫んだ。遠く後ろから、マサエとユウキの笑い声が聞こえてきた。
 突然、馬が立ち止まった。恐る恐る目を開く。道の左右に水の流れる溝が見えた。そこは、狐子に初めて出会った場所だった。
「おねえちゃん、目を覚まして」
 狐子が馬の前に立ちはだかっていた。これまでとは違う口調で話しかける。
「闇は人を不安にさせるけど、闇は光が生まれる場所でもあるんだ。僕は闇の中で光に出会った。それは、親が子を想う心だ。僕はこの世に生まれることはできなかったけど、その光に触れることはできた。暗闇で見つけたその光は、闇を祓い去り、僕を温かく抱きしめてくれた。ほら、これが僕がもらった光の力だ」
 狐子の体から、真っ白な光が溢れ出した。その輝きは力強く広がり、すべてを目映く覆い尽くした。
 三人の目の前に狐子が立っていた。あの実験室である。暗闇は消え、元の仄暗い蛍光灯がパチパチと音を立て、部屋を照らしている。狐子は言った。
「この機械は現実世界だけでなく、霊界にまで影響を与えている。早く何とかせねば」
 トモユキもユウキも、それぞれの幻を視ていたのだろう。惚けたような顔で狐子を見つめている。その時、トモユキの携帯電話が黒電話の音で鳴った。お尻のポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てる。
「こら、何をぐずぐずしとんねん。早よそんな機械壊してしまえ」
「お、叔父さん!」
 叔父は言った。機械には機械を。想念には想念を。そして電話は切れた。
 トモユキはその言葉の中に、啓示めいた閃きを感じた。トモユキはフミエを振り返り、言った。
「フミエ、その左手は動くか?」
「ウン、大丈夫」
「よし、じゃあその左手で、この壁を思いっ切り殴ってみなさい」
「ウン、わカッタ」
 フミエは扉の横の壁を力一杯左手——機械の腕で殴った。その瞬間、トモユキは心の中で念じた。壁を壊せ、と。
 フミエの左腕は壁を突き破っていた。腕を抜くと穴の向こうに暗い通路が見えた。
「腕、痛ないか?」
「ゼンゼン、大丈夫」
「おねえちゃん、すごい!」
 ユウキが叫ぶ。そのユウキにトモユキが尋く。
「ユウキ、この部屋の中、飛べるか?」
 ユウキは翼を一振りし、天井近くに舞い上がった。自慢げな顔をしている。
「よっしゃ、わかった。では反撃開始といくか」
 狐子は機械の方を向き、何やらぶつぶつと唱えている。きっと仲間たちに守ってくれるようお願いしているのだろう——フミエはそう思った。
 トモユキは床に置いてある機械の翼のスイッチを入れた。翼は起動し、電熱線が熱を秘め始める。
「まず、フミエ、あの機械の真ん中にあるパネルをぶち壊してきてくれ。他も二、三発殴りたかったら殴ってこい。ユウキはこの機械の翼を左側の穴にぶち込んできてくれ。中に放り込んだら飛んで戻ってこい」
 わカッタ、と返事をして、フミエは機械に近づいた。トモユキは意識を集中して念じる。ただの機械だ、ただの機械、と。
 ガシャン、という音が三回部屋に響いた。フミエが制御盤を打ち壊し、他にもその周辺に二箇所穴を空けていた。穴からは白い煙が出ている。
 続けてユウキが飛び立ち、機械の左側に立つと、力一杯翼を穴に放り込んだ。翼はガリガリと音を立てながら機械に吸い込まれていく。
 急いでフミエとユウキが戻ってきた。トモユキが二人を両手で抱きしめる。
「ようやった。じゃあ仕上げや。みんなで強く念じるんやで。爆発しろ、って。よし、いくぞ。せーのーで!」
 爆発しろ!——四人は機械を睨みつけて念じた。その瞬間、機械の中で大きな爆発音が響いた。やった!、と四人は声を上げた。が、それで終わりではなかった。機械は白い煙をもくもくと纏いながら、シューッという呪いの声を出し、赤黒く膨張し始めたのである。内側から灼熱のマグマが噴出しようとしているかの如く。
「あ、マズイ。ほんまに爆発しよる」
 トモユキがそう叫んだのと同時に、機械は大爆発した。思わず後ろを向き地面に身を伏せる。
 熱風が部屋を駆け抜けた。その熱はユウキの翼を焼き落とし、フミエの鋼を溶かした。真っ赤に染まる部屋の中、トモユキは薄目で機械を振り返った。しかし、機械は見えなかった。トモユキたちを包み込むように、狐子とその仲間たちが組み重なり、大きな壁をつくっていたのである。背中で紅蓮の炎を受けながら。
 狐子は火に焼かれ、燃えながらこう言った。
「おとうさん、会えて嬉しかったよ」
 トモユキはそのまま、すっと気を失った。

         *

「おとうさん、おとうさん」
 ぼんやりと近づいてくる声でトモユキは意識を取り戻した。フミエとユウキが覗き込んでいる。
「おとうさん、機械やっつけたよ」
 ユウキが誇らしげに言う。見回せば、部屋の半分が真っ黒焦げに焼け、あの機械は台座を残して微塵に消し飛んでいた。木のテーブルも書物も、すべてが灰になっている。
「でも、あの子まで消えてもてん」
 あの子——狐子のことだ。フミエが泣きながら指を差す。そこには、焼け残った草履が片方だけ転がっていた。トモユキはその小さな草履を拾い上げ、胸のポケットに仕舞った。え? トモユキはフミエに向き直り、尋ねた。
「今なんて言うた?」
「あの子も一緒に消えてもた、って」
「お、お前、声元どおりになってるやん」
「あ、ほんまや」
 トモユキはフミエに近づき、顔を覆う鉄のマスクに触れた。それは炭のようにぽろぽろと剥がれ落ち、その下から元の顔が現れた。顔だけではない、完全に機械だった左手も左足も、纏っていた鋼はすべて炭と化し、中からフミエの手足が出てきた。
「おとうさん、ほら、僕も」
 ユウキが背中を向ける。翼が消えている。ユウキの足元には灰燼と化した翼の残骸が落ちていた。トモユキはユウキのシャツをめくって背中を確かめた。翼の付け根に少し炭の塊のようなものがついていたが、それも指で撫でると綺麗に消えた。
「奇跡や」
 トモユキが呟いた。ユウキが言い返す。
「キセキやなくて魔法やで。あの狐の子の魔法や」
 三人は忌まわしき地下実験室を後にした。扉を思い切り蹴破って。暗い通路の奥にあった階段を上り、蓋のように閉じられている扉を押し開ける。眩しい光に三人は目を細めた。
 そこは大きな白い家の庭だった。よく手入れされた芝生の上に立ち、三人は北西の空を見つめた。神は姿を消していた。青く澄み渡った空がどこまでも続いている。
「はぁ、終わったか」
 トモユキは芝生に座り込んだ。近隣の住人も戸口に姿を現し、北西の方角を眺めて歓声を上げている。その姿をぼーっと見ているうちに、トモユキの顔は次第に険しくなっていった。そして勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「おいっ、まだ終わってへんぞ」
 フミエとユウキがなんで?と尋ねる。トモユキは遠い所を見つめたまま答えた。
「ここ、外国や」

         *

 トモユキたちがいたのはイリノイ州の古い街だった。不可思議な現象が世界を覆い尽くした直後でもあり、「気がついたら親子でここにいた」という説明だけで、日本大使館を通じて帰国の手筈を整えてくれた。それは巨大な神が消え、世界中から珍現象が去ったことに対するお祭り騒ぎ的な驚喜に後押しされたことでもあった。
 すべての怪異は楽天的な結末を迎えた。カリフォルニアでサーフィンを楽しんでいたエリック・カレンは、ビッグウェーブに乗って再び浜辺へと戻ってきた。(彼は束の間の行方不明をクールな体験だったと仲間に吹聴している) イラクの空は乾いた穏やかな碧を湛え、平凡な航空機の音が時折聞こえるだけだった。日本の鈴木酒店の防犯カメラの前を、河童が横切ることは二度と無かった。重慶市に住むヤン・スーは、鏡に映る自分のメイクに満足し、悪戯に自分で舌を出してみた。そして、翼が生えて消えていった子どもたちは、玄関を開けてひょっこりと帰ってきた。あの歪な翼でふらふら飛んでいた子どもも、今頃母の胸に抱かれていることだろう。
 一つ、トモユキたちが知らない情報が空港のテレビで流れていた。目撃者の中年男性がインタビューを受けている映像だ。男はこう言った。
——神は消え去る瞬間、ニタリと笑みを浮かべた。その口には、銀歯が三本光っていた——と。
 トモユキは飛行機の小窓から雲の海原を眺め、思った。あの青年は異世界と共に消えてしまったのだろうか。叔父さんはちゃんと天国に戻れただろうか。フミエとユウキは、この冒険譚を興奮してマサエに話すだろう。爆弾を森に落っことした話は、ことさらおかしく伝えられるだろうな。マサエはきっと、泣きながら笑うだろう。狐子のことはどう伝えよう? トモユキにはわかっていた。この親子を守ってくれたのは、生まれ得なかった第三子——経済的、精神的な理由で堕ろしてしまった我が子であることを。
 雲の隙間、遙か彼方に、そろそろ故郷の明かりが見え始めた。

(完)

(第2回 ダ・ヴィンチ文学賞/ボツ)

はらから掲示板2007年03月09日 23:45

 私に覗き見の趣味はない。少年時代からカンニングなど一度もしたことはないし、今も嫁さんの携帯電話をこっそり開いたりすることは決してない。
 しかし、一つだけ、ついつい覗いてしまうものがある。覗き歴はかれこれ六年にもなろうか。そろそろ筋金が入ってきた。何を覗いているのか? それは、親父のためにつくった、インターネットの「OB用掲示板」である。
 親父は十四歳で就職し、六十歳の定年退職まで一つの会社で勤め上げた。社歴四十六年。四十歳になっても転職を繰り返している息子(私だ)とは大違いである。一社一筋。そんな生き方も当然尊敬に値する。
 それ故か、定年後しばらくすると、家でぼーっとテレビを観て過ごす時間が多くなった。いわゆるバーンアウト——燃え尽き症候群てやつだ。飼っていた犬が死んでからは、外に出る機会も減った。このままでは畳の上ではなくテレビの前で往生することにもなりかねない。親父が七十歳の声を聞く前に、私は半ば無理矢理パソコンを実家に持ち込み、同じく会社を定年退職した方々とコミュニケーションするための掲示板を立ち上げた。
 同様の状況がどの家庭でも進行していたようだ。親父宛の年賀状にEメールアドレスの記されたものが数通あった。文面には小さくこう書かれている。「息子に勧められてパソコンとやらを始めました」。とりあえずその方たちにメールを送り……と本来ならそういきたいところだが、やはり昭和一桁生まれ。親父は電話を掛けて掲示板のURLを伝えていた。
 そんなこんなで三、四人のインターネットコミュニケーションが始まった。お決まりの近況報告から各地の季節の頼り——この辺りは理解できるが、そのうち「ロト6,次の通り買いました。03,22,24,28,36,42デス」などという、ロト6購入報告会の様相を呈し始め、現在もまだ続いている。
 気づけばそんな集まりも十数名を超え、半年に一度は「温故知新の会」と銘打たれた同窓会も開かれているようだ。さらには「紅葉バスツアー」や「大阪城(親父の)案内ツアー」「京都寺巡り」などが好き放題に企画され、リアルに顔を合わせる機会も増えている。
「デジカメ買うてんけど、これどうやって掲示板に載せるんや」
 いまや七十五歳の親父にいきなりそんなハイテク機器を買わせてしまうほど、この掲示板はアクティブシニア育成に貢献しているようだ。ちなみに掲示板にはコメント機能も付けてあるのだが、それはまったく無視されている。掲示板に貼り込む写真も巨大な解像度のままで、表示されるのに時間がかかったりしている。ああ、ちょっと顔を出してやり方を教えてあげたい——。が、多少のジレンマを抱えつつもデバガメは決して表に登場することなく、そのぼちぼちとしたコミュニケーションを見守っている。
 覗き見の中で私が発見したこと。それは、親父たちが決して後ろばかりを振り向いていない、ということだ。掲示板の開設当初は、思い出話に花が咲き乱れる場になるだろうと期待していたが、そんな話題は一切登場しない。現在進行形。そう、今もなお現役の同胞関係が続いているのだ。懐かしさではなく、ずっと一緒にいるような感覚。仲間というのは生涯そういう関係なのかもしれない。
 そろそろ実家のインターネット回線を光に換えて、大きな写真もパッと表示できるようにしてあげようと思う。せっかくだから、ウェブカメラでも付けて、直接対話できるようにでもしてあげようか。いやいや、そこまですると恥ずかしがるだろう。ほどほど、にできるのもネット活用の良いところだ。その人それぞれのマイペースで。
 会えば「もういつ死ぬかわからんぞ」などと何故か偉そうに言う親父だが、あの掲示板の中では、永遠に仲間たちとの未来に向けての会話が続いていくような気がする。そんな場所をつくれたことは、良い親孝行をした、と自分では考えるようにしている。
 さて、今日も親父たちのくだらない会話を覗いてみるとするか。そうしてこっそりと、私自身もパワーをもらおう。まだまだたっぷりある、人生に向かう力を。

(完)

(第4回 NTT西日本 コミュニケーション大賞/ボツ)

寄り道コミュニケーション2007年03月09日 23:43

 私は彷徨った。蜘蛛の糸の砂漠を——。
 詩人ランボオではないが、私はインターネットという電子網を彷徨することが多い。プランナーという仕事柄、インターネットで調べ物をすることが多く、何故か頻繁にその海(もしくは砂漠、あるいは森、ときに街)を漂泊してしまう。
 「CGM 消費行動」というキーワードで企画書の参考資料を検索しているうちに、気がつくと「コピーライターになるにはどうすればいいですか?」という高校生の悩みに行き当たり、ご丁寧にアドバイスを書き込んだりしている。
 「イベント シニア」というキーワードで検索すれば、「おばあちゃんの米寿の記念に何をプレゼントすれば喜ばれますか?」という質問に遭遇し、「滑りにくくて暖かいスリッパなんていかがでしょう?」などと一緒に考えてしまったりしている。
 東ニオ困リノ人アレバ……これではランボオというより、宮沢賢治デアル。
 決して世話焼きなのではない。単なる寄り道好きなのだ。
 その寄り道で出会うのは、もちろん人である。喜び、悲しみ、怒り、悩み……現実社会の仮面を脱ぎ去り、本来の自分を探している彷徨者たち。ブログが普及して以来、このような想い人に出会うことが多くなった。情報という目的地への最短距離、その周辺には、生々しい人間の声が漂っている。
 便利で簡単、快適で楽しいインターネット。表通りにはそんな広告看板が連なっている。が、路地裏へと寄り道してみれば、そこではリアルな人の暮らしが淡々と営まれている。寄り道の中にこそ、感動や夢との出会いが隠れているような気がする。
 光ブロードバンドでコミュニケーションはますます促進されるだろう。映像、音声、画像、それらを活用した「顔」の見えるコミュニケーション。その広がりを想像しただけでわくわくしてくる。しかし、時にはその脇道で迷子になっている人たちの元へ寄り道してみよう。そこにいるのはもしかすると自分自身かもしれない。

(完)

(第4回 NTT西日本 コミュニケーション大賞/ボツ)

パンスティ・ラブ2006年09月15日 22:26

 中学三年に上がって一週間ほど経ったある日。僕と数人の生徒は、担任の先生に連れられて病院に行った。クラスメートの女の子が胃の病気で入院したのだ。
 病室に入った僕は、窓際のベッドに少女を見つけた。僕はその子の顔をまだ憶えていなかった。ベッドに腰掛けた彼女は、僕たちを見て微笑んだ。その瞬間、地球の自転は止まった。
 少しタレた大きな瞳。雪よりも白い肌。肩まで伸びた癖のない黒髪。そしてビーナスの微笑み。
 僕はまばゆい光の洪水に身をゆだね、シャンバラを瑠璃色の蝶と化して漂いながら、頬を伝う熱い涙を感じていた。これまでの人生はビー玉大に凝縮され、キラキラと輝く彼女の瞳に溶けてしまった。僕は青春のバカヤローと叫びながら、水平線に沈みゆく夕日に向かって駈けていった。
 彼女が退院して、それは楽しい学生生活がはじまった。
 恋のパワーは強い。席替えがある度に、僕は彼女の前後左右いずれかの席を獲得した。僕は毎日、彼女に会うためだけに学校に通っていた。人と目を合わせることの苦手な僕が、なぜか彼女の目を見ながら話せるようになっていた。
 夏休みに入って、僕たちのクラスは淡路島へ遊びに行った。海辺のバンガローに一泊二日の小旅行だ。日が沈むまで波と戯れ、夕食はバーベキュー、夜は花火に肝試し。この夏休みが終われば、本格的な受験勉強が待っている。僕たちは眠ることも忘れて、夜を語り明かした。
 翌日、出発の時間までは自由行動だった。海で泳ぐ人、釣りをする人、山に行く人。みんなは思い思いに残された時間を楽しんでいた。
 僕は海で泳いでいた。少し休もうとバンガローに戻ったそのとき、彼女を見つけた。彼女は水着になり、海へ向かおうとしていた。僕は彼女に声をかけようとした。が、喉元まで出かかったその声を飲み込んだ。
 彼女の手には、あるモノが握られていた。
 パンストだった。
 電線でも入ったのだろう。彼女はそのパンストをゴミ箱に捨てるところだった。そこを僕が目撃してしまったのだ。
 彼女は僕に気づかず、そのまま海へと走り去った。残ったのは、僕とゴミ箱とパンスト。どうやら辺りに人影はない。
 気がつくと、僕はパンストを握りしめていた。
 そしてまた気がつくと、それを畳んでをバッグに入れていた。
 結局僕は、パンストを持って帰った。
 二学期がはじまり、受験勉強が忙しくなってきた。パンストの罪悪感と妙な高揚感が混ざり合い、彼女とは話しにくくなってしまった。僕は彼女の目を見て話せなくなった。そのまま何ごともなく月日は流れ、僕たちは中学を卒業した。
 彼女は別の高校に進み、通学電車のなかでたまに顔を合わせるだけとなった。ある日、学校帰りの電車のなか、彼女が男に寄り添い、楽しそうにしゃべっている姿を見たとき、僕は恋の終わりを知った。
 あのとき、パンストを手にしていなかったら。二五年経ったいまでも、ふとそう思うことがある。


(第1回WEBダ・ヴィンチ読者参加企画「心にくいこむ短編小説」/ボツ)

一日世界2005年11月26日 22:15

 東の地平線から伸びた白い光が、石灰質の球体を次々と照らし出す。急激な気温の上昇
にその表面は汗ばみ、見る間に乾いていく。
 太陽の頂が見え始めた頃には、球体の表面に無数の亀裂が生じ、はや次の瞬間、内側か
ら蹴られ、あるいは手押されて、その殻は粉々に瓦解する。
 そこには、砕けた卵殻を纏った嬰児が横たわっていた。
 まさぐるように手足を動かし、苦悶の顔で小さな産声を上げる。その声は幾つもの殻の
割れる音にかき消され、また、幾重もの声に反響した。まるで軋み喘ぎながら、大地が太
陽を産み落としているかのように。
 ほどなく嬰児はうつ伏せに寝返り、草地に向かって匍匐し始める。すでに脱ぎ捨てた殻
は微塵に砕け、土に還ろうとしている。
 見よ! 地面に掌と膝を着き、顔を上げて這い進む子どもたちを。
 目を離した隙に、彼らは黒髪がなびくほどに成長してしまった。
 背丈を越す草の海を二本足で泳ぐ。葉に結ばれた朝露を吸い、その裏で太りゆく青虫を
食む。歩行は確かなものになりつつあったが、濡れた下生えに足元をすくわれ、転倒する
者が続出した。出遭い頭に仲間とぶつかる者もいた。草畑の其所此処で、甲高い笑い声が
湧き上がった。
 次第に草から頭を出し、緑野を眼下に眺める頃、裸の子どもたちは聳え立つ巨大な塔を
臨む。それは左に回転する螺旋を成し、空に向かっている。人工の建造物とも自然の堆積
物とも見えるその塔は、すべてが白い石と漆喰で固められていた。
 蜻蛉の塔。かつて世界の中心だった場所。朝に生まれ夕べに死す——そんな束の間の生
を全うしていた人々が暮らした小さな世界。遙か遠い昔の物語である。

                   *

 塔の中腹、穿たれた窓に腰掛け、東の空を行く朝陽を眺める少年と少女の姿があった。
 少年の名はパダム。淡い小麦色の肌に濃い緑の瞳。刻々と厚みを増す胸板は、青年の逞
しさを帯びていく。
 少女の名はマナ。栗色の長い髪に白い肢体。その表情からあどけなさは去り、振り返れ
ば大人の女へと変化している。
「あの光はどこへ行くのだろうね」
 パダムの言葉にマナは少し微笑み、彼の右手に左手を重ねる。塔の中へ駆け込んでくる
風が、二人の髪を絶えず通り抜ける。
「きっと巣に帰っていくのよ。あの黒くて大きな巣に」
 マナは北の彼方を指差した。果てしなく続く森の向こう、なだらかに連なる山脈の辺り
から、真っ黒な雲の波が急激に膨れ上がっていた。

 雨は間もなく降り始めた。太陽は巣の奥深くに潜み、代わりに轟音を引き連れた雷光が
一面を照らし出す。闇を飲んだ雲は水溶する墨のように溢れ出し、空に満ちる。雨に包ま
れた塔は鈍色に変色し、打ち落とされる紫電に震えていた。
 いや、震動の原因は落雷だけではなかった。
 塔の中は、今まさに発情の時を迎えていたのである。
 蟻の巣の如き小部屋が並ぶ回廊を、男女が手を取り合って走り抜けていく。その頬は紅
潮し、男は屹立した陰茎を隠すこともなく、女は股間に湿った音を響かせながら。
 パダムはマナを導き、空いた部屋へ飛び込むと閂を下ろした。そこは白い闇が溜まった
四角い空洞だった。小さく切り取られた灯り取りの窓から雨が吹き込んでいる。
 二人は砂状になった床に寝ころび、抱き合った。本能が声を上げ、肉が解放された。そ
して雄が頂に達した瞬間、部屋は真っ蒼な光に包まれ、激しい地響きが鳴り渡った。
 はじかれるようにマナから離れたパダムは、窓の外を覗き、叫んだ。
「あの光だ!」

 草地に立つ大きな木が、落雷に貫かれて燃えていた。雨に打たれているにも関わらず、
まるで蜜蝋に触れた燐の如く。燃え盛る炎は嵐を煙らせ、佇立する塔を揺らめかせた。
 パダムは塔を飛び出し、燃える木の傍らに駆け寄った。熱せられた蒸気が肌に触れ、瞬
時にはじける。
 陶然と炎に魅入られていた彼の足元に、突然火の塊が転げ落ちた。火の粉の中に見たの
は、足ほどもある枝であった。パダムは未だ烈火を放ち続けるその枝の燃えていない部分
を両手で掴み、空に高々と突き上げた。遠巻きに見ていた人々の間から、地を覆うような
歓声が沸き上がった。

 塔の一階、大きな広間の中央に、火勢衰えぬ木の柱が打ち立てられた。薄暗かった空間
が蒲色に浮かび上がる。成熟した男女がその周りを囲み、静かに言葉を交わす。刻々と揺
れ動く火焔をじっと見つめ、不思議な変化に驚きながら。
 そんな時間が暫く続いた。そのうち男の皮膚に染みが浮き、女の胸が下がり始めた頃、
女たちはいそいそと塔の外へと抜け出す。嵐は収まり、中天を過ぎようとしている太陽が
雲の向こうに見える。塔を出た女たちは、濡れた草むらを抜け、元居た白い砂地に至る。
そして、いくつかの小さな卵を産み、再び塔へと戻っていく。

 午後の時間、人々は思い思いの作業に精を出していた。男たちの半分は、数の足りてい
ない部屋を増設するための工事に励んでいる。残りの半分は、草地を流れる河や森に出か
け、狩りをした。女たちは野で草を摘み、あるいは塔の中、部屋を造る男たちの手伝いを
している。
 マナは塔を離れ、今なお樹上に余炎を抱くあの木のところに来ていた。そして、木の周
りに焼け落ちた枝を拾い集め、塔へと持ち帰った。
 灯火に照らされた広間で、マナは枝をいくつもの細い木片に折り、引き裂いた。その一
つひとつに灯火の炎を分け、小さな灯明を作る。集まってきていた女たちは、その灯りを
それぞれの部屋に運び、片隅の床に突き刺して廻った。
 やがてすべての部屋に灯りが行き渡り、塔は窓々から橙色の光を発し始めた。太陽はす
でに地平線に沈もうとしていた。

 人々の顔には皺が刻まれ、白髪が目立つようになった。外は上弦の朧月に淡く照らされ
た闇だった。その闇が深々と濃くなっていく。老いた人々は広間に集い、ある者は我が住
処へ籠もり、またある者は歩ごと弱りゆく足で塔の周りを散策しながら、番いで語らって
いた。この短い人生を振り返り、小さな思い出に微笑み。
 夜が更ける頃、塔から話し声は消え、火のはぜる音だけが静かに壁に響いていた。時折、
燃え尽きた枝が床に落ちる音と、窓から吹き込む風の声、そしてその風に煽られ、骨が崩
れる音が幽かに舞い、また消えていく。
 世界は一日を閉じた。人々はこの世での生を終え、大地へ、風の中へと還っていった。

 翌朝、塔の扉を開けた少年は、地面の近くで揺れている炎を見て驚いた。その驚きは、
神にでも出くわしたような崇高な衝撃であった。なぜならば、彼が目の当たりにした炎こ
そ、「昨日」というものの存在、そしてそこに生きていた人の存在を直感させたからであ
る。
 生命が受け継がれることを知らず、一日を限りに生から死へと向かうのみのこの世界で、
昨日を知る者は誰一人いなかった。そこに誰かがいた、という生々しい気配は、世界の在
り方を大きく揺さぶった。
 しかし——彼は思った——この感覚は、なんと温かなのだろう、と。優しく、甘く痺れ
るような感触が、胸の奥にしくしくと湧き起こった。それは、見知らぬ世界を夢見る浪漫
ではなく、人から人へと伝わる肌摺れの心地よさであった。
 彼は火の傍らに転がっていた数本の枝を手に取ると、炎の中へ投げ込んだ。炎は少年の
問いかけに答えるように、一際高い火柱を巻き上げた。

 その日、人々は新しい松明の製作に多くの時間を費やした。鋭利な石で木の枝を切断し、
太い枝と細く割いた樹皮を重ね、虫の巣から取り出した蜜を上から注いだ。
 すでに枝一本の勢いになっていた火種を松明に移す。瞬間、炎は屋蓋にまで吹き上がり、
人々の目を眩ませた。火は広間を隅々まで照らし、空気を暖め、活気づかせた。人々は火
を囲み、歌い、踊り、いつしか骨と化して崩れ去った。

 翌日、塔に辿り着いた少女は、煌々と輝く炎を見て知った。ついさっきまで、ここに大
勢の人たちがいたことを。そして暖かな空気に触れ、そこで過ごした人々の息づかいを肌
で感じた。
 少女は思った。先人が残したこの火を受け継ぎたい、と。
 そのとき、人は初めて「明日」の存在を想った。昨日を生きた人が私たちに残してくれ
たものを、私たちは明日を生きる人に残そう、と。
 人々は削った木を蜜蝋に浸して、小さな蝋燭をいくつも作った。それをすべての部屋に
設置し、まだ火を灯さずに広間へと戻った。

 夕闇が世界を覆う頃、塔の広間では賑やかな宴が始まっていた。人々は燃え盛る松明の
周りに集まり、明日という時間、明日という場所、明日を生きる人たちのことを話した。
「明日の人は、私たちよりも体が大きく、力も強くなっているんじゃないか」
「いや、きっと頭が良くなって、いろんな技術を生み出しているはずだ」
「空を飛ぶ方法を手に入れるかもしれない」
「医療や科学が発達し、寿命はもっと永くなっているに違いない」
 誰かが呟く。
「明日の人は、どうやってこの世界に生まれてくるのだろう」
(その日から女たちは、この塔の部屋で卵を産み落とすようになった)
 いつまでも尽きぬ明日の話も、そろそろ終幕の頃合いを迎えた。人々はしずしずと部屋
へと戻っていく。月明かりに淡く照らされた部屋で、蝋燭に火を点す。そして再び明日を
想いながら、静かな風に吹き浚われていく。

 こうして夜毎、灯りの数は増えていった。塔内のみならず、塔の周囲にも松明が据え付
けられた。それはやがて草地へ、その先の森や砂地へも広がっていった。
 世界は日増しに明るさを増していった。無数の光が夜の闇を照らし、暖められた大気は
上昇気流を巻き起こした。その風は草木の種を撒き散らし、異国へと運び去った。
 いつしか灯りは海を越え、火を抱く不思議な木と共に裏側の世界にまで至った。そこで
もやがて炎が瞬き、点々と蝋燭の火が戦ぎ始めた。
 百年。二百年。三百年。
 火はあらゆる世界を覆い尽くし、想いは太い気流となってこの星を駆け巡った。
 千年。二千年。三千年。
 燃焼によって発生した二酸化炭素は、植物を育て、光合成を促進した。大気中の酸素は
次第に濃くなり、徐々に生物の寿命を延ばしていった。
 一万年。
 真夜中の嵐が星を吹き飛ばす瞬間を目撃する者がいた。
 十万年。
 薄れゆく意識の中、夜明けを告げる鳥の声を聴いた者がいた。
 百万年。
 予感めいた東の空を見つめ、卵を抱いたまま朽ちていく者がいた。
 そして黎明。
 透き通った光が、卵に幾筋もの影を刻んだ。その一つが大きくひび割れ、小さな手が差
し出される。その手にひび割れた指が触れる。生まれたばかりの指先は戸惑いながらもそ
の指を握り返す。やっと会えた。やっと会えた。明日の人。我が子に。
 子どもが殻から這い出したときには、白い灰が蜻蛉の如く舞い落ちるばかりだった。

 親子の刹那の邂逅は温かな潮のように人々を包み、そして永遠の別れは熱い涙の河となっ
て大地に刻まれた。体を離れた霊魂は久しくその場に留まり、天界からの光に名残惜しく
吸い込まれていった。
 しかし、人々は灯りを点し続けた。悲しみを懼れず、胸の奥に点った暖かい炎を信じて。
累々たる昨日の屍の上に、連綿と、訥々と、その想いを重ねながら。

「ママ」
「パパ」

 やがて世界のあちらこちらから、母を、父を呼ぶ声が上がり始めた。それはかつてこの
世界に光をもたらした二人の名に違いなかった。パダムとマナの子孫はその子を腕に抱き、
太陽を点したあの枝の温もりを思い出すのだった。そして子どもは安心して眠りにつく。
おやすみ。もう慌てて大人にならなくていいんだよ……

                   *

 午前二時。街の煌めきが夜空を明々と照らしている。鉄とコンクリートのビルディング
に点る色とりどりのネオンサイン。それは蜻蛉の塔と蝋燭の行く末であろうか。
 二四時間消えることのない光は、もはや昨日と今日の境界線を消してしまった。明日は
今日と地続きになり、また明日へと滑らかに繋がっていく。人々は明日を想う気持ちを忘
れ、その先の子どもたちに伝えるべき灯りを見失ってしまった。明日は遙か遠い未来の出
来事となり、そこに生きる人々を想像することさえできなくなった。
 しかし、火はまだ絶えてはいない。
 月の清かな夜、窓を開け、空の向こうを透かしてみるがいい。淡い雲に映えるいくつも
の火影に気づくだろう。
 嵐の朝、風の隙間に耳を澄ましてみるがいい。塔の壁に反響する松明の音が聞こえてく
るはずだ。
 思いがけず触れたやさしさの中に、無邪気に微笑んだ目の奥に、私たちはあの日の炎を
見つけられる。固く繋いだ手と手の間に、再び出会えた歓びの時間に、受け継がれてきた
温もりを感じることができる。
 そう、火は私たちの内側にある。

 目を上げれば、黎明の光が塔を白く照らしている。澄んだ風が街を吹き渡る。人々はま
だ眠りの中。人知れず、一日が始まる。

(完)

(第1回Yahoo!Japan文学賞/ボツ)

そして夜が明けるころには2005年11月26日 22:14

 明日、太陽はどの方角から昇るか。
 第一の男は「東」と答えた。当たり前でしょう。この国はもちろん、隣の国もその隣の
国も、海を跨いだあの国でさえ、太陽は東から昇るに決まっている。
 第二の男は「西」と答えた。逆を行く。裏をかく。答えはいつも反対側にある。それが
俺の成功法則だ。正しいとか間違っているとか、そんなことはたいした問題ではない。
 第三の男は「南」と答えた。太陽が南から昇るって? ハワイやあるまいし。そやけど
明日の朝、太陽は南から昇る。たった一度だけ。なぜか? もちろん理由があるんやん。
 第四の男は「北」を選んだ。そしておどおどした目で三人を覗き見たあと、薄く笑みを
浮かべた。

 そのバーはマンションの屋上に建っていた。なんの変哲もない、建売マンションの屋上
である。そんなところに、路地裏の風情をたたえた四角い建物がある。大きな木製の扉の
前に、黄色く光る電照看板。「13」——それがこのバーの名前らしい。
 店内は蒼く光る闇が充満していた。その闇は海底の洞窟のようにゆらゆらと揺れている。
光と闇は境界を見失ったまま漂っている。
 テーブル席には一組のカップルと天井を見上げたまま動かない中年の男が一人、そして
カウンターに男が四人。店内には有線放送のジャズヴォーカルチャンネルが流れている。
ヘレン・メリルが“You'd be so nice to come home to”と囁く。今宵、観客たちはだれか
の待つ家に帰るのだろうか。時刻は午前一時をまわっている。

「さて、なにを賭けますか」
 バーテンダーは泣き顔のような笑みをたたえ、四人の顔を見渡した。
「そら当然、カネやろ」
 金魚柄の派手なシャツを着た男が身を乗り出し、細く整えた眉をきゅっと吊り上げる。
「いや、そんな当たり前のものじゃおもしろくない」
 浅黒い顔の男が顎髭をいじりながら、よく通る声で制する。
「勝者には権力を。負けたヤツは奴隷になる、なんてどうだ」
「奴隷て、いつの時代の出来事やねん」
 まあまあまあ、と、グレーの安っぽいスーツを着た男が割って入る。
「マスターが持ちかけた話なんだから、勝った人は飲み代タダってことでどうですかね」
 カウンターの向こう、パールオニオンを摘んだバーテンダーが泣き顔を上げる。
「わたしは構いませんよ。お代くらいで済むのでしたら喜んで」
 その答えを待たずして、金魚柄と顎髭が静かにもめはじめる。
 やっぱカネやていやカネより地位だそやけどカネがいちばん燃えますやん栄誉を勝者に
だからカネのほうがカネなんて下劣だカネやチカラだ……
「これ、どうですか」
 くたびれた茶色いジャケットを着た男がふいに呟く。座は一瞬静まり、全員の視線が男
の右手に注がれた。その掌にはマッチ箱が乗っている。男は言った。
「なかに〈アシタネ〉が入っています」

 それは、「明日を思い通りにできるタネ」らしい。土に埋めるのではなく、錠剤のよう
に飲み下すのだそうだ。タネが胃で消化されている間に念じれば、その願いが明日叶うと
いう。ただし、効力は明日かぎり。その先の願いは叶えられない、とのことだ。
「なんじゃそら」
 金魚柄が我慢できずに突っ込む。そんな魔法みたいなこと現実に起こるかいな。
「へぇ、なにか幻覚剤みたいなものですか。それはちょっと勘弁だなあ」
 安スーツが首をすくめる。麻薬なんてとんでもない。警察沙汰はごめんだ。
「それほど便利なものなら、みすみす賭けのカタに差し出すことはないだろう」
 顎髭が醒めた口調で問う。だが、その目はどこか楽しげでもある。そうそう、このよう
な奇妙な展開が大逆転のきっかけになるのだ。待ってました、ヘンなおじさん。
 マッチ箱はそんな面々を上目遣いに見回し、にたりと言った。
「大丈夫。私が勝ちますから」
 そしてマッチ箱を開き、なかから一粒の〈アシタネ〉を取り出した。それはスイカのタ
ネを一回り大きくしたような形で、ピーナツに似た色をしていた。確かに植物の種のよう
だ。男はそれを目の前にかざすと、ポイッと口に放り込んだ。
「さあ、北から昇る太陽を楽しみに待ちましょう」

 結局、賭けの報酬はアシタネに決まった。顎髭が「おもしろい」と推したのである。金
魚柄も意外にあっさりと了承した。クスリならいくらかで売れるだろう、などと考えたの
である。安スーツは渋っていたが、マスターが飲み代との交換を提案し、落着した。
「ところで——」
 安スーツが切り出す。
「以前から疑問だったんですけど、今日と明日の境目ってどこなんでしょうね。いつどの
瞬間から、明日がはじまるんだろう」
 〈明日〉はいつはじまるか? 日付が変わる午前〇時。が、感覚的にはズレがある。寝
て起きたら明日。では、徹夜をすると明日は来ないのか? 四人が出した結論は、「日の
出と共に明日が来る」というものだった。夜半に思いがけず目覚め、そのまま寝付けなく
なった人も安心するがいい。まだ明日にはなっていない。酒臭い息を撒きながら始発電車
を待つ人々は諦めるがいい。太陽が顔を出した瞬間、ああ明日になった、と。
「じゃあ、太陽系の外に明日はないのか?」
 そんなとりとめのない会話を楽しんでいたとき、バーの扉が開いた。入ってきたモノを
見て金魚柄が小さく叫んだ。
 それは、翼の生えた男だった。神話の挿絵でよく見る白く大きな翼が、扉に収まる幅に
折りたたまれて揺れている。挿絵との違いは、男が裸身ではなく、黒いトレーニングウェ
アの上下を着ていたことだ。男は親しげな笑顔を浮かべてカウンターに近づいてきた。
「いらっしゃい」
 マスターが声をかける。どうやら顔見知りのようだ。翼男はカウンターの四人に軽く会
釈をすると、空いている席に腰掛けた。
「いやあ、まいった。今夜はソーキが多いわ」
「満月ですからね」
「そろそろツキモリが降りてくる頃だな」
 なにを言っているのかよくわからない。それよりも——
 一同の不審な目に気づいた翼男は一瞬はっとした顔をし、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんごめん、こんなの着けてたら邪魔だよね」
 そう言って翼男は、ランドセルでも下ろすかのように背中の翼を脱ぎ始めた。
 翼が発売された。NASAに研究用の部材を納入している樹脂加工会社が開発、販売し
ている。翼は翼部と制御パネル、装着用のハーネス、操縦用の手袋で構成されている。翼
部は開長三.二メートル。その形はツバメの翼に似ている。翼の表面には木の葉型の形状
記憶プラスチックが鱗状に重ねられている。内部には伸縮性のある強化電熱線が葉脈のよ
うに張り巡らされ、プラスチックのピースを複雑につないでいる。この電熱線の発熱によ
るプラスチックの変形がはばたきの力となる。大小のピースが連動することにより、それ
ぞれの微妙な変形が増幅され、大きく滑らかな翼の動きを生む。発熱のタイミングは飛行
状態に合わせてプログラムされているため、複雑な操作の必要はない。
 翼男はジントニックを片手にそこまで語ると、
「続きはまた別の物語に譲ろう」
 と捨て台詞を残し、再び翼を装着して出て行った。扉の隙間から黄金色の月光が蒼闇に
差し込む。四人は翼男の残像をしばらく無言で見つめていた。その静寂を猿の咆哮が打ち
破る。猿? 四つの疑問符が店内を振り返る。
 椅子に座った女の後ろ姿。髪の毛が不自然に上下している。よく見るとそれは女の髪の
毛などではなく、背もたれの上に乗ったケモノ——まさしく猿の後ろ姿であった。
「おいおい、大きな声出すなよ」
 向き合った男が困り果てた顔で猿を制している。ちらりとこちらに目をやり、情けない
顔で頭を下げる。猿は激しく体を揺らしながら、なにかを叫び続けている。
「キョォ、ャッォクッタナ、キョォ、ャッォクッタナ……」
 顎髭が眉間に怪訝な陰を刻んで呟いた。
「おい、気のせいかもしれないが、しゃべってないかあの猿」
 カウンターの男たちが次々と答える。
「私には〈今日おやつ食ったな〉って聞こえます」
「いや、〈今日やつ送ったな〉やろ」
「俺には〈今日親つくったな〉と聞こえるが」
「〈今日ヤツを食ったな〉ですよ」
 そのとき、業を煮やしたかのように猿の連れが小声ですごんだ。
「だまれ。暴れるな。確かに今日、おまえの親を料理しておやつ代わりに食い、あの世へ
送ったのはオレだ。が、おまえも食べたじゃないか」
 その内容のショッキングさよりも、猿の言葉にすべての意味が含まれていたことに驚く。
同時に、どこかしら違和感のようなものを感じている。出来損ないのダジャレのような。
素人芝居の台詞のような。破綻した言い訳のような。
 そして次の出来事——天井を見上げていた中年男の口から巨大な魚の尾びれが出現した
——に至って、だれもが場の異常さを確信した。気づいていなかったわけではない。目を
逸らしていたのだ。
「あんた、昨日なにか願っただろ。そのアシタネってやつで」
 顎髭がマッチ箱を振り返って詰め寄る。金魚柄と安スーツも疑惑の眼差しを向けて返答
を促す。マッチ箱は照れたように目を泳がせ、しかしふてぶてしさの混じった声で答えた。
「願いましたよ。明日がおもしろくなりますように、ってね」

 ひょんなことからアシタネを手に入れて、そりゃまあいろんなことを願ったさ。最初は
そう、「明日、大金持ちになりますように」ってね。翌朝目覚めてびっくりだ。部屋中が
いろんな国の紙幣で埋め尽くされていたんだから。使えるものを集めて、昼はステーキを
食べ、壊れた掃除機を買い換え、銀行に新しい口座を開き、夜通し一人で飲み歩いたさ。
そして次の朝、猛烈な空腹感で目が覚めた。目覚めた途端、虚無感に声を上げた。部屋か
ら金は消え、銀行からは口座も消え、腹のなかの肉もアルコールも満足感も消えていたの
だ。アシタネの効力は明日一日限り。そういうことだった。ほんと、たちの悪い麻薬みた
いなもんさ。が、オレは懲りずに試し続けた。死んだおふくろを生き返らせたこともあっ
た。アシタネはなんでも叶えてくれたさ。朝日が昇るまではね。オレはぼろぼろになりな
がら願い続けた。そして興味深いことに気づいたんだ。それは、〈神の存在〉だ……
 ボトリ、となにかが落ちた音に全員が振り向いた。巨大な魚が床の上をのたくっている。
ついに天井男の口から吐き出されたらしい。銀色の鱗を蒼く光らせながら、尾びれでベチ
ベチと木の床を叩いている。構わずマッチ箱は続けた。
 アシタネに幻滅したオレは、大それた願いを諦め、ただ「明日がおもしろくなりますよ
うに」と願うようになった。すると、確かにおもしろいことが起こり始めた。空から突然
“王様”が振ってきたり、目の前を二足立ちの黒猫が走り抜けたり。
「翼を買った男や言葉を使う猿、あの気持ち悪い魚もそうか」
 顎髭が知れきった答えを求める。マッチ箱が目だけで頷く。
「そしてある日、ふと思ったんだ。だれがそれを“おもしろい”と判断しているのか」
 “おもしろい”はあくまでも主観によるものであり、答えがあるものじゃない。でも、
その願いは聞き遂げられた。だれかがそれを、おもしろいと思ってやってるわけだ。だれ
かとはだれか? 仮にそれを「神様」と呼ぼうか。神様ってのは付き合ってみるとなかな
か愉快なやつで、幼稚と言うか無垢と言うか、果てしなく人間ぽいんだよ。おもしろいこ
とを一生懸命考えて仕掛けてくる。まあ、ほとんどはまったくくだらないものだが。
 一瞬、びくっと猿が飛び上がり、ぎょろりと振り向いた。
「それから毎日、願っているんですよ。明日がおもしろくなるように。今夜もなかなかお
もしろいじゃないですか」
 取り憑かれたようにしゃべっていた言葉から横柄なものが消えた。代わりに金魚柄がい
らついた口調で反応する。
「なにがおもろいねん。神様? はあ? そんなもんおったら、もっと世の中平和やろ。
おもろいことなんかやっとらんと、もっと人間助けたらんかい」
「神様はそんなことしませんよ。善でも悪でもなく、ただしたいようにしているだけ」
 マッチ箱は全員を見渡して続けた。
「神様にとって、太陽が昇る方角さえ、別にどうでもいいことなんです。そもそもこんな
おかしな賭け、神様の考えたおもしろいことに決まってるじゃないですか」
「いや、この賭けは俺とマスターが——」
 そう言いかけて、はっと口を押さえた男——金魚柄だ。
「おい、それはどういうことだ」
 顎髭と安スーツが問い詰める。金魚柄は知らんぷりを決め込んだマスターを横目に、ど
うとでもなれと開き直った。
「ああ、もうしゃあない。言うたるわ。この賭けは、俺とマスターが仕組んだ八百長です
わ。マスター、あれ出して」
 マスターは後ろを向いたまま、ポケットからなにかを取り出し、カウンターに置いた。
「これ。方位磁石。ちょっと狂わせてあんねんけどね」
 その磁石は、N極が西を向くように細工されていた。方角の目印が見えないこの場所で、
狂った磁石だけが正しい方角を指し示すはずだった。
「どうせ、みんな酔っ払ってるやろし、うまくいくんちゃうかなー、と。ね、マスター」
 マスターはおどけて振り返りナハハと笑った。が、その先に笑顔など見あたらない。
「なんだよここは。みんな頭がヘンになってるんじゃないか。もう賭けなんてやめだやめ」
 安スーツがパニック気味に叫ぶ。金魚柄もふてくされて磁石を投げ出す。
「私はどっちでもいいですよ。いずれにせよ太陽は、北の空から昇りますから」
 この異様な状況のなかにあって、もはやだれもその言葉を否定しなかった。明日の朝、
太陽は北の空から顔を出す。神様はアシタネの願いを子どものように実行するのだろう。
 そのとき、顎髭がなにかに気づいたように壁にかかった時計に目をやった。午前三時五
〇分。そして呟いた。まだ間に合う——。
「諦めるのはまだ早いさ。それよりも、こうすればもっとおもしろくなる」
 そう言うと同時に、顎髭は金魚柄越しに手を伸ばし、マッチ箱の手からマッチ箱を奪い
取った。その勢いでマッチ箱が開き、アシタネがカウンターに飛び散る。示し合わせたよ
うにそれを拾い、口に入れる三人。
 あっと言う間の出来事だった。
 マッチ箱は呆然とその光景を見つめ、頭を抱えた。顎髭が嬉々として宣言する。
「さあ、続行だ。おもしろくなってきたじゃないか」

 午前五時。九月の黎明は肌寒くもなく、ただ清んだ大気が世界を包んでいた。四人はバー
を出てマンションの屋上に立っていた。低い鉄柵の向こうには、棟成す巨大なマンション
が建ち並んでいる。ここはどこなのだろう。だれもが方向を見失う。なぜこの場所に立っ
ているのかさえ。そして——
 空は巨大な太陽の息吹に揺れ始めた。
 東の空が白む。
 西の空が明らむ。
 南の空が光る。
 北の空が闢かれる。
 見よ!
 かくして四つの太陽が、いまこの地上に出現したのであった。
 四つの太陽は四つの影を互いに殺し合いながら、みるみる天空へと昇り始めた…………

 屋上バー「13」。偶然でしかたどり着けない場所。まだ客のいない真っ昼間、二人の
男がカウンター越しに向き合っていた。
「夕べはおもしろかったね、マスター」
 男は泡の消えたビールを片手に、木製の小さなボールに盛られたスナック菓子——それ
はスイカのタネを一回り大きくしたような形で、ピーナツに似た色をしている——をボリ
ボリと頬張りながら話しかけた。マスターは泣き顔のような笑い顔でうんうんと肯く。
「それにしても、すごい効き目だな、これ」
 男はカウンターの上にある小さな瓶を手に取った。橙色の液体が半分ほど入っている。
 それは強い幻覚作用のあるリキュールだった。ラベルに記された商品名は——
『AS IN TUNE』(調和した、かのような)

「さてと、そろそろ帰って寝るとするか」
 男はカウンターに札を置くと、フラフラとバーの扉を開けた。
 やけに眩しい日差しが、店を白く染め上げた。

(完)

(第1回Yahoo!Japan文学賞/ボツ)

暮色2005年09月11日 11:31

 老人は走馬燈を止め、照らし出された風景をのぞき込んだ。まず目に飛び込んできたのは、懐かしい武彦山の夕景であった。橙色に輝く山の上空に、昼と夜の境が一直線に伸びている。碧天と紫雲が成す不思議な帯を、少年たちはいつまでも見上げていた。そのなかに十歳の私がいる。だれかが一番星を叫んだ。少年たちは声を上げ、先を争って町へ続く小道を駆け出した。
 老人の目は白い指先を見つめていた。両掌の間を細い糸が伸びては縮む。繰り返し。繰り返し。その柔らかな動きがふと止まった。どこか遠くを見る目。菊江は遠縁の親戚で、岡山から奉公に来ていた。昭和初期の大不況下、小さな材木問屋を営むこの家も暮らしは決して楽ではなかった。その屋根の下、菊江はひっそりと隠れるように生きていた。
 文机に向かう少年の姿を見る。隣では菊江が薄く微笑んでいる。六つ年上の少女は、少年に勉強といくつかの岡山弁を教えた。時折ぽろりとこぼれる方言を少年が真似る。「いらまかしたらいけんよぉ」と少女は小さく笑った。壁の時計が日暮れの鐘を打つ。
 朧な目に映る色鮮やかな情景。しかし老人は心の目を伏せる。足元には製材された角材が崩れ、重なっている。老人は瞼越しに見た。その下敷きに倒れている菊江の姿を。何本かの角材が土を打ち、きな臭い煙を上げている。その靄の奥、菊江は祈るような声でなにかをつぶやいている。
「大丈夫じゃ。大丈夫じゃ」
 少女は繰り返しつぶやく。胸のなか、小さくなっている少年の耳元で。
 出入りの建具職人と菊江の関係を少年が知ったのは、すでに祝言の日取りが決まった後のことだった。いつものように文机に並んでいたとき、少年は菊江にそのことを打ち明けられた。いつものように勉強を教わり、いつものように岡山弁をからかい、いつになく少年は菊江に噛みついた。「こじゃくそや、こじゃくそや」。少年はそう繰り返し叫び、縁側から表に飛び出した。そして、倉庫に立てかけてあった材木に体当たりしたのだった。
 菊江は首から右肩にかけて二十針も縫う大怪我をしたが、幸い後は打撲程度で事なきを得た。少年は両の膝と肘を擦りむいただけだった。菊江はだれにも本当のことを言わなかった。そして傷が癒え、醜い轍となって肌に馴染んだ頃、菊江は隣町へと嫁いでいった。
「菊さん、かんにんな」
 あのとき言えなかった言葉が老人の口から溢れた。その刹那、酸っぱい痛みが胸に満ち、張りつめていくのを老人は感じた。それは七十余年の時を経て現れた失恋の感情だった。老人はその痛みに目を凝らし、耳を澄ました。しばらく、そのままに。
 また走馬燈は回り始めた。小さく笑う少女の顔が遠くへ去っていく。戦争。復興。我が妻。我が子。我が人生。泣き、笑い、懐かしみ、時折立ち止まりながら、老人はゆっくりと旅路を進んだ。


(第1回WEBダ・ヴィンチ読者参加企画「心にくいこむ短編小説」/ボツ)

一度半の失恋2005年09月11日 11:30

 その少女と出会った瞬間、少年は失恋し、同時に初めての恋に落ちた。
 少女の隣には背の高い男が立っていた。日に焼けた顔に白い歯が浮いている。彼は少女のことを“カノジョ”と呼んだ。カノジョは胸元まで伸びた栗色の髪をいじりながら「あは」と笑った。その少し下品な笑顔に少年は真っ逆さまに落っこちた。
 少年は知った。失恋の苦みを。少年は震えた。恋の痛みに。少年は読んだ。ゲーテを。ヘッセを。ツルゲーネフを。少年は書いた。嗚呼我が胸裏に去来するこの想ひは。少年は喩えた。まるで筋肉痛のやうだ。少年は祈った。カレの座に居座る友人の不幸を。少年は見た。放課後の校庭を。少年は走った。夕日夕日夕日に向かって。
 ある日の夕暮れ時。学校帰りに立ち寄った商店街の書店で、少年はカノジョに遭遇した。カノジョは参考書のコーナーで高校入試集中ドリル理科を開き、真剣に眺めていた。少年はふいにその横顔に出くわし、絵を見る人のように立ちつくした。少年に気づいたカノジョは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまたあの笑顔で少年を刺激した。書店を出て、商店街の出口まで少年とカノジョは歩いた。少年は友人の話を、カノジョはカレシの話をした。別れてから少年は落ち込んだ。そして少年は知った。失恋とはひと太刀の快刀ではなく、隙あらば飛び込んでくる竹刀の打撃なのだと。
 やがて少年の祈りが天に通じた。友人がカノジョにふられたのである。失恋の傷は不思議な魔法で閉じられた。が、恋の痛みは猛烈な痒みに変わって少年を苦しめはじめた。少女との接点も告白の勇気も持たない少年は、募る痒みにただ悶々と耐えるしかなかった。少女を想うことは、蚊に刺されたふくらみに爪を押しつける感覚に似ていた。刹那の甘美の後、痒みは強く大きく広がるのだった。少年はそんな仕組みに気づかぬまま、あの時刻、あの書店に足を運び続けた。
 そしてついに少年は少女と再会した。あの商店街の入り口で。少女の隣には背の高い男が立っていた。少女は男のことを“イマノカレシ”と呼び、あわてて“ジャナクテフツーノカレシ”と訂正した。再びの失敗をあの笑いでごまかすカノジョに、少年は性懲りもなく突き落とされるのだった。が、穴の底、強打した膝をさすりながら少年は感じていた。痒みよりも痛みのほうがまだマシだ、と。
 少年は学んだ。恋と失恋が同一人物であることを。だから恋に落ちた瞬間から、人は失恋し続けているのだ。片思いという恋。両思いという失恋。すべては裏表であり、一体である。“無い”という言葉が“在る”という事実を浮き上がらせ、“在る”という安心は“無い”という不安をかきたてる。楽園パラダイス。高校ハイスクール。同じことの繰り返しは同じことの繰り返しだ。云々。少年はそんな内容のポエムを書いた。
 タイトルは、一度半の失恋。


(第1回WEBダ・ヴィンチ読者参加企画「心にくいこむ短編小説」/ボツ)

深夜漂流2005年09月11日 11:29

 三本目の缶ビールが空いた。僕は小銭入れをジーパンのポケットに突っ込み、外に出た。日中の熱気が冷めてくるころ。時刻は午後十一時半を回っていた。
 祖師ヶ谷大蔵の駅に向かって歩く。都会に忍んだ竹林の横を過ぎる。大阪から上京して五ヶ月。街なかにぽっかりと自然が残っていることに最初は驚いた。東京のすべてが都会ではないこと、人情に厚い人が意外と多いことを知り、僕は東京が好きになった。
 駅は午前〇時を前に、いまだ煌々と明かりを灯していた。学生の集団や酔ったサラリーマンが構内へと吸い込まれる。朝夕は閉じっぱなしになる踏切を渡り、祖師谷商店街を北に進む。居酒屋、コンビニ、二四時間営業の飲食店。日中は下町風情の商店街だが、この時間になると街の色は薄れ、乾いた光が点々と続く狭い道に変化する。
 この道を進めば——。僕が向かっているのは、井の頭公園の近くにある彼女のマンションだった。道路地図帳で見た限り、二時間ほど北へ歩けば行き着くはずだった。なぜ彼女の家まで歩こうなどと思ったのか。それは自分でもよくわからなかった。
 彼女とは大学のサークルで知り合い、ほどなく付き合いはじめた。大学生になって初めての夏休みを彼女と過ごす。野暮ったい言い方ではあるが、それはまさに人生の春だった。郊外の進学校で女の子と付き合うこともなく生きてきた僕は、思いっきり舞い上がっていた。東京が僕をそうさせた。
 駅から二十分も歩くと、商店街は住宅街へと移りはじめた。人通りはほとんどない。自転車が僕を追い抜き、交差点を左に消えた。途端に静けさが満ちてくる。規則的な足音を響かせながら、ただ歩く。
「お友だちでいてくれる?」
 彼女は別れ話をそう締めくくった。お盆に里帰りしたとき、元の彼氏とよりを戻したらしい。電話の向こう、明るくさわやかな別れを演出しようとする彼女の声に、僕はいら立ち、怒り、憎しみをぶつけた。彼女は何度もごめんと言い、自分が悪いと謝り続けた。
 終電を見送った千歳烏山の駅に着き、僕は店の明かりに安堵した。光あふれる東京は孤独な人々が築いたのだろう。タバコを一服。そして気づく。自分の未熟さに。元の彼氏の話は嘘だろう。彼女は、僕の幼稚な愛し方から逃れたかったのだ。束縛、甘え、思い込み。その暗い世界に囚われることを嫌った。そして思う。だれかを愛しく想うことは、心にやさしい明かりを灯すことだ。僕は自分の明かりしか見ていなかった。大切なのは、相手の心に灯った明かりを見つめ、寄り添うことだったのだ。
 ふと憑き物が落ちた。夜が抜けた、と言うべきか。腕時計を見る。午前一時。甲州街道の先には、静謐とした夜が続いている。
 夜歩く。その失恋の症状に苦笑し、目の前の闇から踵を返した。もう一本、失恋の特効薬であるタバコに火をつけ、大きく煙を吐き出す。もう二度と、ここを歩くことはないだろう。僕は来た道をゆっくりと引き返しはじめた。


(第1回WEBダ・ヴィンチ読者参加企画「心にくいこむ短編小説」/ボツ)

失恋セレモニー2005年09月11日 11:28

 彼氏が大学に落っこちた。おいおいどーすんのよキミ。で、慌てて受けた私立大学に滑り込みセーフ。でもその大学じゃあ、わたしたち離ればなれだよね。
 予備校で知り合い、付き合うようになったわたしたち。でも予備校生同士って、どこか後ろめたい。よし、こうなったら二人同じ大学に行って、恋と青春を謳歌しよう! ……ところがだ。
 最初は無理して会う時間をつくってたけど、大学って意外と忙しい。できるだけ電話するようにしてたけど、大学って思ったより刺激的だ。メールくらいは毎日欠かさずと思っていたけど、大学ってかなり楽しい。お互いがそんな状態で、わたしたちは次第にすれ違い、ぎくしゃくするようになった。
 一度、ちゃんと話をしよう——そう切り出したのはわたしだ。やっぱり彼のことが好きだったし、話し合えばまたやり直せると信じていた。わたしはいまの状態とこれからのこと、わたしの想いを真剣にしたため、メールの送信ボタンを押した。数分後、メールの返事が来た。そこには一言、
「OK牧場」
 しばらく放っておいたら、「別れよう」というメールが来た。すっかり興ざめしていたわたしだが、はっと気づいた。わたしはたったいまふられたのだ。これは失恋だ。しかも、は・じ・め・ての失恋。
 わたしは思い出した。こうしてはいられない。このタイミングだ。失恋した女の子がいますべきこと。そう、“お風呂で泣く”を実行するときがやってきたのだ。
 失恋したらお風呂で泣く——それは女の子の憧れ。汚辱にまみれた失恋という現実を、美しい思い出に昇華させるための儀式。浅い湯船に浸かり、ひざを抱え、BGMはもちろんドリカムだ。
 季節は八月。いつもはシャワーで済ませてしまうところを、浴槽を丁寧に掃除し、ぬるめのお湯を張る。湯量の設定を間違えてちょっと多めに入っちゃったけど、ま、いっか。
 いよいよそのときがやってきた。CDラジカセを浴室に持ち込み、再生ボタンを押す。セットしたのはベスト盤のディスク2。ストリングスが静かに空間を満たしていく。途端にメランコリックな気分に落ちていく。わたしは俯いたまま掛かり湯を済ませ、右足から湯船に入った。
「……お、っほぉ」
 思わず声が出る。喉元まで浸かり、大きく深呼吸をする。久しぶりの湯船はチョー気持ちいい。足を伸ばし、目を閉じる。長湯になりそうだったので、浴室乾燥機を涼風運転しておいた。顔に触れる冷たい風が心地よい。ドリカムを軽く口ずさんでみる。ほのかなエコーがいい感じだ。ちょっと真剣に歌いこんでみる。あーカラオケ行きたいな。憂さ晴らしにはちょうどいいかも。あとで恵美子に電話してみよっと。「サンキュ」まで歌って、さすがにのぼせてきたのでお風呂から出た。なにか大きな忘れ物をしているような気がしたが、冷房の効いた部屋に入った途端、そのことも忘れた。
 それ以来、わたしの失恋セレモニーはカラオケになった。


(第1回WEBダ・ヴィンチ読者参加企画「心にくいこむ短編小説」/ボツ)