ミガワリ人形 ― 2006年12月08日 23:37
真夜中。カラン、という音に目を覚ました峰夫は、布団から出て音のしたリビングへ向かった。何かがフローリングの床に落ちた音だろう。
リビングの明かりを点け、眩しさに目を細めながら部屋を見回す。ほどなくチェストの下に転がり落ちた茶色い木片を発見した。十二年前、新婚旅行先のバリ島で買った木製の人形である。身代わり人形、として売られていたそれは、神事に用いる御幣人形に似たもので、家内安全のお守りとして峰夫が買ったものだった。
しかし、拾い上げた木片は人形の上半身だけだった。下半身はチェストの上に残っている。研ぎ澄まされた日本刀で薙いだように、切り口は奇麗に両断されていた。
峰夫は不吉な思いに身震いした。が、それはただのお守りではなく身代わり人形であったことを思い出し、それが迷信でないことを悟った。これから起きたであろう厄災を一身に引き受け、家族の不幸を救ってくれたのだろう。
日曜日、峰夫は庭の土に小さな穴を掘り、二つに分かれた人形を埋めて手を合わせた。私たち家族をお救いくださりありがとうございます……
数日後。峰夫は会社からの帰宅途中、居眠り運転のトラックに轢かれて死んだ。後輪に巻き込まれ、遺体は無残な姿となった。
が、衝突の衝撃で外れたのであろうか。彼の眼鏡は、傷ひとつなく路上に転がっていたという。
(完)
リビングの明かりを点け、眩しさに目を細めながら部屋を見回す。ほどなくチェストの下に転がり落ちた茶色い木片を発見した。十二年前、新婚旅行先のバリ島で買った木製の人形である。身代わり人形、として売られていたそれは、神事に用いる御幣人形に似たもので、家内安全のお守りとして峰夫が買ったものだった。
しかし、拾い上げた木片は人形の上半身だけだった。下半身はチェストの上に残っている。研ぎ澄まされた日本刀で薙いだように、切り口は奇麗に両断されていた。
峰夫は不吉な思いに身震いした。が、それはただのお守りではなく身代わり人形であったことを思い出し、それが迷信でないことを悟った。これから起きたであろう厄災を一身に引き受け、家族の不幸を救ってくれたのだろう。
日曜日、峰夫は庭の土に小さな穴を掘り、二つに分かれた人形を埋めて手を合わせた。私たち家族をお救いくださりありがとうございます……
数日後。峰夫は会社からの帰宅途中、居眠り運転のトラックに轢かれて死んだ。後輪に巻き込まれ、遺体は無残な姿となった。
が、衝突の衝撃で外れたのであろうか。彼の眼鏡は、傷ひとつなく路上に転がっていたという。
(完)
夜笛 ― 2005年06月17日 01:30
「こらっ、早よ寝んかい」
姉と弟は慌てて布団に潜り込んだ。丸く膨らんだ掛け布団が小刻みに笑いを堪えている。時刻は午後十一時を迎えようとしていた。風呂を上がってからビデオを観せたのがいけなかったのだろう。子ども向けのアニメ映画にすっかり興奮してしまったようだ。母親は今夜、幼稚園の保護者親睦会に出かけ、まだ帰っていない。このいつもと違う状況が、子どもたちの不眠に拍車をかけている。
「今度しゃべったら真っ暗にするからな」
そう釘を刺して子ども部屋を出る。二人同時になにかを叫んで再び布団に潜り込む。効果覿面。子どもは暗闇に弱い。彼らの想像力は、闇からの来訪者に恐怖する。
五分もしないうちにまたひそひそと話す声が聞こえる。憮然とドアを開け、常夜灯を消す。マンションの外灯がカーテンの隙間からうっすらと差し込む。
「だっておねえちゃんが足さわってくんねんもん」
「ヒロキがいびきのマネするからやん」
子どもたちは口々に言い訳をはじめる。そのうち、姉も弟もぐずぐずと泣きはじめるだろう。こうなったら、あの手しかない。
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
僕はドアの横に突っ立ったまま、なにかを呼ぶように口笛を吹いた。
「やめて」
「あかん」
子どもたちは闇のなかで布団を頭からかぶる。
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
夜、口笛を吹くとおばけがやってくる——。この俗信は日本各地だけでなく、世界中で言い伝えられているそうだ。幽霊、悪魔、蛇、泥棒、人さらい……やってくるものはまちまちだが、どれも不吉な存在であることは共通している。人の記憶の奥深くに眠る暗黒と獣への恐怖が呼び覚まされるのか。ともすると大人でさえ夜の口笛を恐怖する。況わんや幼子をや。
あからさまに怖がる子どもたちに、僕は少しいじわるな気持ちになって口笛を吹き続ける。
ピィー。ピィー。ピィー。
唇がほどよく湿ってきたのか、笛の音に張りが出てきた。日中の雑音がない夜、口笛は高く部屋に響き渡る。その響きが妙に心地よく、さらに強く吹き上げる。
ピィー。ピィー。ピィーィィ、ピィーィィィピィーィピィーィィピピピィーーー………
陶然と吹き続ける口笛はいつしか幾重にも積み重なり、家中に響き渡っていた。上から下から前から後ろから、いくつもの笛の音が子ども部屋を取り囲む。それはすきま風の唸りとは明らかに違う。人為的な音。だれかがなにかを呼ぶときの口笛だ。そして僕は知る。すでに自分が口笛を吹いていないことを。
ピィィィピィィィィピィィィィィィーーーー、ピィィィピィィィィピィィィィィーーーー
乾いた口笛がぐるぐると回り出す。子どもたちは布団のなかで小さくなり声すら上げない。淡く差し込んでいた外の光が青白く淀みだす。部屋のあちらこちらでバチッと閃光がはじける。電気のプールに潜ったかのように産毛がピリピリと逆立ち、息苦しくなる。僕は金縛りにあったようにその場を動けない。口笛は太く大きな地鳴りとなり、やがてそれが唱名であることに気づく。
来る——。
奥の部屋に人の気配を感じ、眼球だけで振り向いた。目の縁が廊下の向こうに蠢く人影を捉える。一人ではない。大勢の得体の知れないものが、苦しげに呻きながらわらわらと近づいてくる。そして僕は見た。白装束に身を包み、ざんばらの髪の毛を顔に垂らした武者たちの姿を。
ずどん。体の中心をなにか重いものが落ちた。恐怖。意識が遠のきはじめる。子どもたち。だめだ。子どもたちを——。
(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子……)
僕は目を固く閉じ、口のなかで般若心経を唱えた。
ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
突然、亡霊たちの呻きが大きくなる。僕は必死で般若心経を唱え続ける。背中を、肩を、首を、頭を、冷たい掌で押さえつけられる。耳元に腐った息を吹きつけられる。ここは絶対に通さない。僕は子ども部屋の入り口で足を踏ん張った。そのとき——
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
玄関の扉の向こうで口笛が鳴った。小さく、しかしはっきりと。
おおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーー
亡霊がその音に反応した。捜し人を見つけたかのように唸り上げる。僕の背中から圧力が消える。
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
その音に導かれるように亡霊たちは玄関に向かう。まだ金縛りは解けない。十数人もの武者たちが玄関の扉にぶつかり、突き抜けていくのが見える。呻き声は口笛と共に遠ざかっていく。
りん。
鈴の音がひとつ。それを合図に我に返る。家は静寂を取り戻していた。慌てて子どもたちに駆け寄り、掛け布団をめくる。
安らかな寝息。
僕は脱力し、布団の上に座り込む。シャツが汗でべっとりと体に張り付いた。
翌朝。不思議なことに子どもたちは昨夜のことを憶えていなかった。あの武者は何者なのか。彼らを連れ去った口笛はだれが吹いていたのか。いや、どこまでが現実でどこからが幻なのか。それを確かめることは二度とないだろう。確かなことはひとつ。夜、口笛を吹くと——
姉と弟は慌てて布団に潜り込んだ。丸く膨らんだ掛け布団が小刻みに笑いを堪えている。時刻は午後十一時を迎えようとしていた。風呂を上がってからビデオを観せたのがいけなかったのだろう。子ども向けのアニメ映画にすっかり興奮してしまったようだ。母親は今夜、幼稚園の保護者親睦会に出かけ、まだ帰っていない。このいつもと違う状況が、子どもたちの不眠に拍車をかけている。
「今度しゃべったら真っ暗にするからな」
そう釘を刺して子ども部屋を出る。二人同時になにかを叫んで再び布団に潜り込む。効果覿面。子どもは暗闇に弱い。彼らの想像力は、闇からの来訪者に恐怖する。
五分もしないうちにまたひそひそと話す声が聞こえる。憮然とドアを開け、常夜灯を消す。マンションの外灯がカーテンの隙間からうっすらと差し込む。
「だっておねえちゃんが足さわってくんねんもん」
「ヒロキがいびきのマネするからやん」
子どもたちは口々に言い訳をはじめる。そのうち、姉も弟もぐずぐずと泣きはじめるだろう。こうなったら、あの手しかない。
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
僕はドアの横に突っ立ったまま、なにかを呼ぶように口笛を吹いた。
「やめて」
「あかん」
子どもたちは闇のなかで布団を頭からかぶる。
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
夜、口笛を吹くとおばけがやってくる——。この俗信は日本各地だけでなく、世界中で言い伝えられているそうだ。幽霊、悪魔、蛇、泥棒、人さらい……やってくるものはまちまちだが、どれも不吉な存在であることは共通している。人の記憶の奥深くに眠る暗黒と獣への恐怖が呼び覚まされるのか。ともすると大人でさえ夜の口笛を恐怖する。況わんや幼子をや。
あからさまに怖がる子どもたちに、僕は少しいじわるな気持ちになって口笛を吹き続ける。
ピィー。ピィー。ピィー。
唇がほどよく湿ってきたのか、笛の音に張りが出てきた。日中の雑音がない夜、口笛は高く部屋に響き渡る。その響きが妙に心地よく、さらに強く吹き上げる。
ピィー。ピィー。ピィーィィ、ピィーィィィピィーィピィーィィピピピィーーー………
陶然と吹き続ける口笛はいつしか幾重にも積み重なり、家中に響き渡っていた。上から下から前から後ろから、いくつもの笛の音が子ども部屋を取り囲む。それはすきま風の唸りとは明らかに違う。人為的な音。だれかがなにかを呼ぶときの口笛だ。そして僕は知る。すでに自分が口笛を吹いていないことを。
ピィィィピィィィィピィィィィィィーーーー、ピィィィピィィィィピィィィィィーーーー
乾いた口笛がぐるぐると回り出す。子どもたちは布団のなかで小さくなり声すら上げない。淡く差し込んでいた外の光が青白く淀みだす。部屋のあちらこちらでバチッと閃光がはじける。電気のプールに潜ったかのように産毛がピリピリと逆立ち、息苦しくなる。僕は金縛りにあったようにその場を動けない。口笛は太く大きな地鳴りとなり、やがてそれが唱名であることに気づく。
来る——。
奥の部屋に人の気配を感じ、眼球だけで振り向いた。目の縁が廊下の向こうに蠢く人影を捉える。一人ではない。大勢の得体の知れないものが、苦しげに呻きながらわらわらと近づいてくる。そして僕は見た。白装束に身を包み、ざんばらの髪の毛を顔に垂らした武者たちの姿を。
ずどん。体の中心をなにか重いものが落ちた。恐怖。意識が遠のきはじめる。子どもたち。だめだ。子どもたちを——。
(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子……)
僕は目を固く閉じ、口のなかで般若心経を唱えた。
ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
突然、亡霊たちの呻きが大きくなる。僕は必死で般若心経を唱え続ける。背中を、肩を、首を、頭を、冷たい掌で押さえつけられる。耳元に腐った息を吹きつけられる。ここは絶対に通さない。僕は子ども部屋の入り口で足を踏ん張った。そのとき——
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
玄関の扉の向こうで口笛が鳴った。小さく、しかしはっきりと。
おおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーー
亡霊がその音に反応した。捜し人を見つけたかのように唸り上げる。僕の背中から圧力が消える。
ひゅー。ひゅー。ひゅー。
その音に導かれるように亡霊たちは玄関に向かう。まだ金縛りは解けない。十数人もの武者たちが玄関の扉にぶつかり、突き抜けていくのが見える。呻き声は口笛と共に遠ざかっていく。
りん。
鈴の音がひとつ。それを合図に我に返る。家は静寂を取り戻していた。慌てて子どもたちに駆け寄り、掛け布団をめくる。
安らかな寝息。
僕は脱力し、布団の上に座り込む。シャツが汗でべっとりと体に張り付いた。
翌朝。不思議なことに子どもたちは昨夜のことを憶えていなかった。あの武者は何者なのか。彼らを連れ去った口笛はだれが吹いていたのか。いや、どこまでが現実でどこからが幻なのか。それを確かめることは二度とないだろう。確かなことはひとつ。夜、口笛を吹くと——
コータイ ― 2005年05月14日 12:46
——見えるんですよ、崖の下から這い上がってくるのが……
——こっちをじっと見てるんです。その木の下から……
——逆さにぶら下がってたんです。部屋の扉んとこに……
——目を開けると顔の真ん前で肯いてるんですよ、女が……
時刻は午前二時を過ぎていた。ファミリーレストランは昼間のように賑わっている。クーラーが利きすぎているのか、やけに肌寒い。
目の前で話している男は、バイト先の同僚だ。午前零時に仕事が終わり、なんとなく、ちょっとお茶でも、ということになった。
——あー、やだな。あそこの暗いところに一人立ってますよ……
ファミリーレストランに入ろうとしたとき、彼はだれにともなくそうつぶやいた。そこから彼の体験談がはじまった。
彼はいわゆる「霊感」の強い人間である。次から次へと語られる実話は、どれもが不条理で唐突な霊の出没に彩られ、それが却ってリアルなイメージとなって伝わってくる。はじめはおもしろがって聞いていたが、だんだんと僕は、鳥肌が体の芯まで染みこんでいくような怖気を抑えられなくなっていた。
「でもそういうのって幻覚なんじゃない?」
心にもない。僕はちょっと怖かったのだ。
彼は、ですよねー、と笑いながら、ちらりと辺りをうかがい、小声でこう言った。
——見ます?
彼はテーブル越しに身を乗り出し、右の手のひらを上に向けて僕の前に差し出した。
——あまりやっちゃいけないんですけど、
よく見ててくださいね、と、次の瞬間……
彼の手のひらから、糸こんにゃくのような白い光が何本も立ち昇りはじめた。それはイソギンチャクのようにゆらゆらと揺れている。
——神様がね、これは「善い力」だって言うんですよ。お化けが見えるようになることのどこが善い力なんでしょうねぇ?
そんな言葉をぼんやりと聞きながら、僕の目は糸こんにゃくに釘付けになっていた。目の当たりにした心霊現象は、恐怖よりも崇高な、神聖な畏怖に満ちていた。そして、僕がなにかを言おうと口を開きかけたとき……
——タッチ、コータイ!
彼の手が僕の左肩を叩いた。
思わず叫ぶ。店内の人たちが振り向く。
——スミマセン、冗談ですよ冗談。
その場はそれでお開きになった。僕たちはなにもなかったかのように家に帰った。
そして後日。
「なにが冗談なものか……」
霊感は、うつる。それは本当だった。あれ以来、僕も得体の知れない影が見えるようになってしまった。街で、家で、昼間の踏切で。
この「善い力」は、いったい僕になにを与えてくれるのだろうか?……
——こっちをじっと見てるんです。その木の下から……
——逆さにぶら下がってたんです。部屋の扉んとこに……
——目を開けると顔の真ん前で肯いてるんですよ、女が……
時刻は午前二時を過ぎていた。ファミリーレストランは昼間のように賑わっている。クーラーが利きすぎているのか、やけに肌寒い。
目の前で話している男は、バイト先の同僚だ。午前零時に仕事が終わり、なんとなく、ちょっとお茶でも、ということになった。
——あー、やだな。あそこの暗いところに一人立ってますよ……
ファミリーレストランに入ろうとしたとき、彼はだれにともなくそうつぶやいた。そこから彼の体験談がはじまった。
彼はいわゆる「霊感」の強い人間である。次から次へと語られる実話は、どれもが不条理で唐突な霊の出没に彩られ、それが却ってリアルなイメージとなって伝わってくる。はじめはおもしろがって聞いていたが、だんだんと僕は、鳥肌が体の芯まで染みこんでいくような怖気を抑えられなくなっていた。
「でもそういうのって幻覚なんじゃない?」
心にもない。僕はちょっと怖かったのだ。
彼は、ですよねー、と笑いながら、ちらりと辺りをうかがい、小声でこう言った。
——見ます?
彼はテーブル越しに身を乗り出し、右の手のひらを上に向けて僕の前に差し出した。
——あまりやっちゃいけないんですけど、
よく見ててくださいね、と、次の瞬間……
彼の手のひらから、糸こんにゃくのような白い光が何本も立ち昇りはじめた。それはイソギンチャクのようにゆらゆらと揺れている。
——神様がね、これは「善い力」だって言うんですよ。お化けが見えるようになることのどこが善い力なんでしょうねぇ?
そんな言葉をぼんやりと聞きながら、僕の目は糸こんにゃくに釘付けになっていた。目の当たりにした心霊現象は、恐怖よりも崇高な、神聖な畏怖に満ちていた。そして、僕がなにかを言おうと口を開きかけたとき……
——タッチ、コータイ!
彼の手が僕の左肩を叩いた。
思わず叫ぶ。店内の人たちが振り向く。
——スミマセン、冗談ですよ冗談。
その場はそれでお開きになった。僕たちはなにもなかったかのように家に帰った。
そして後日。
「なにが冗談なものか……」
霊感は、うつる。それは本当だった。あれ以来、僕も得体の知れない影が見えるようになってしまった。街で、家で、昼間の踏切で。
この「善い力」は、いったい僕になにを与えてくれるのだろうか?……
たくわん小僧 ― 2005年05月14日 02:50
それは昭和の暮れ方、僕が大学の一回生だった頃の話である。
京都の大学に通うことになった僕は、兵庫の実家を離れ、京都で下宿生活をすることになった。大学が斡旋してくれた下宿先は、一軒の人家だった。
金閣寺の近くにあるその家は、瓦葺きの古い木造の家だった。一階は大家さんの居宅、二階は和室が五部屋あり、三部屋に学生の下宿人が住んでいた。僕の部屋は四畳半で天井が低く、夕方になると西に開かれた窓から強烈な光が差し込んできた。
下宿生活は快適とは言えなかった。西陽。埃っぽい土壁。網戸のない窓。不意に飛び込んでくる蛾や蜂。なかでも一階のトイレが薄気味悪かった。それは中庭を巡る廊下の突き当たりに厠然として佇んでいた。中庭は鬱蒼と木々が生い茂り、夜闇に覗けばなにかしらの影すら伺えるような気配がした。京都には、怪異が顔を出しやすい雰囲気がある。
大学での生活がはじまって三月ほど経った頃。同じクラスのKという男が、僕の隣の部屋に下宿することになった。六畳間のその部屋は、僕が入居する前からずっと空室だった。Kが下宿を探していることを聞き、この部屋を紹介したのだ。
Kは人付き合いのいい人間ではなく、大学でも襖一枚を隔てた下宿でも実際に言葉を交わすことはあまりなかった。僕自身もサークル活動に夢中で、下宿には夜遅くに戻ることが多くなっていた。季節は夏を過ぎ、Kとの親交を深められぬまま夜長の頃を迎えた。
そんなある日のこと。珍しくKが僕の部屋を訪ねてきた。入ってきたKの顔は青白く、目の下にはうっすらと隈ができていた。
——おれさぁ、引っ越ししよかと思ってんねんけど。
彼の話はこうだ。ときどき真夜中に、奇妙な物音が聞こえてくる、と。その音がたまらなく気持ち悪く、ノイローゼ気味になっているらしい。その音とは、
——それが、……たくわんをかじってるみたいな音なんや。
人骨を食らう。死肉をむさぼる。生き血をすする。そのいずれでもなく、たくわんをかじる音。その意表を突いた表現は、京都の古い家屋の風情と即座に結びつき、妙な生々しさを伴った。
たくわん小僧。古い民家に取り憑き、夜中にこっそりとたくわんをかじる。豆腐小僧、座敷わらし、あかなめ、枕返し……そんな妖怪たちの仲間が、この家の闇に潜んでいるのか。
ほどなくしてKは下宿を去っていった。襖越しの六畳間はまた空室に戻った。
あの日以来、僕も夢うつつに例の音を幾度か聞いた気がした。飛び起きると物音はすでにやんでいる。そのたびに僕はのどの渇きをおぼえ、冷蔵庫の扉を開ける。
二回生に上がる前に、僕もその下宿を引き払った。引っ越した先は、新築のワンルームマンション。もうたくわん小僧に会うこともないだろう。
しかし時折、夜中にあの音に目覚めることがあった。ぼりぼり、ぼりぼり、ぼりぼりぼり……
その音の正体が僕の歯ぎしりであったことに気づいたのは、ずいぶん後のことである。
京都の大学に通うことになった僕は、兵庫の実家を離れ、京都で下宿生活をすることになった。大学が斡旋してくれた下宿先は、一軒の人家だった。
金閣寺の近くにあるその家は、瓦葺きの古い木造の家だった。一階は大家さんの居宅、二階は和室が五部屋あり、三部屋に学生の下宿人が住んでいた。僕の部屋は四畳半で天井が低く、夕方になると西に開かれた窓から強烈な光が差し込んできた。
下宿生活は快適とは言えなかった。西陽。埃っぽい土壁。網戸のない窓。不意に飛び込んでくる蛾や蜂。なかでも一階のトイレが薄気味悪かった。それは中庭を巡る廊下の突き当たりに厠然として佇んでいた。中庭は鬱蒼と木々が生い茂り、夜闇に覗けばなにかしらの影すら伺えるような気配がした。京都には、怪異が顔を出しやすい雰囲気がある。
大学での生活がはじまって三月ほど経った頃。同じクラスのKという男が、僕の隣の部屋に下宿することになった。六畳間のその部屋は、僕が入居する前からずっと空室だった。Kが下宿を探していることを聞き、この部屋を紹介したのだ。
Kは人付き合いのいい人間ではなく、大学でも襖一枚を隔てた下宿でも実際に言葉を交わすことはあまりなかった。僕自身もサークル活動に夢中で、下宿には夜遅くに戻ることが多くなっていた。季節は夏を過ぎ、Kとの親交を深められぬまま夜長の頃を迎えた。
そんなある日のこと。珍しくKが僕の部屋を訪ねてきた。入ってきたKの顔は青白く、目の下にはうっすらと隈ができていた。
——おれさぁ、引っ越ししよかと思ってんねんけど。
彼の話はこうだ。ときどき真夜中に、奇妙な物音が聞こえてくる、と。その音がたまらなく気持ち悪く、ノイローゼ気味になっているらしい。その音とは、
——それが、……たくわんをかじってるみたいな音なんや。
人骨を食らう。死肉をむさぼる。生き血をすする。そのいずれでもなく、たくわんをかじる音。その意表を突いた表現は、京都の古い家屋の風情と即座に結びつき、妙な生々しさを伴った。
たくわん小僧。古い民家に取り憑き、夜中にこっそりとたくわんをかじる。豆腐小僧、座敷わらし、あかなめ、枕返し……そんな妖怪たちの仲間が、この家の闇に潜んでいるのか。
ほどなくしてKは下宿を去っていった。襖越しの六畳間はまた空室に戻った。
あの日以来、僕も夢うつつに例の音を幾度か聞いた気がした。飛び起きると物音はすでにやんでいる。そのたびに僕はのどの渇きをおぼえ、冷蔵庫の扉を開ける。
二回生に上がる前に、僕もその下宿を引き払った。引っ越した先は、新築のワンルームマンション。もうたくわん小僧に会うこともないだろう。
しかし時折、夜中にあの音に目覚めることがあった。ぼりぼり、ぼりぼり、ぼりぼりぼり……
その音の正体が僕の歯ぎしりであったことに気づいたのは、ずいぶん後のことである。
「怪談」について ― 2005年05月14日 02:47
ものすごい怖がりなので、
あまり怖くない怪談を書いてみました。
あまり怖くない怪談を書いてみました。
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