夜笛2005年06月17日 01:30

「こらっ、早よ寝んかい」
 姉と弟は慌てて布団に潜り込んだ。丸く膨らんだ掛け布団が小刻みに笑いを堪えている。時刻は午後十一時を迎えようとしていた。風呂を上がってからビデオを観せたのがいけなかったのだろう。子ども向けのアニメ映画にすっかり興奮してしまったようだ。母親は今夜、幼稚園の保護者親睦会に出かけ、まだ帰っていない。このいつもと違う状況が、子どもたちの不眠に拍車をかけている。
「今度しゃべったら真っ暗にするからな」
 そう釘を刺して子ども部屋を出る。二人同時になにかを叫んで再び布団に潜り込む。効果覿面。子どもは暗闇に弱い。彼らの想像力は、闇からの来訪者に恐怖する。
 五分もしないうちにまたひそひそと話す声が聞こえる。憮然とドアを開け、常夜灯を消す。マンションの外灯がカーテンの隙間からうっすらと差し込む。
「だっておねえちゃんが足さわってくんねんもん」
「ヒロキがいびきのマネするからやん」
 子どもたちは口々に言い訳をはじめる。そのうち、姉も弟もぐずぐずと泣きはじめるだろう。こうなったら、あの手しかない。
 ひゅー。ひゅー。ひゅー。
 僕はドアの横に突っ立ったまま、なにかを呼ぶように口笛を吹いた。
「やめて」
「あかん」
 子どもたちは闇のなかで布団を頭からかぶる。
 ひゅー。ひゅー。ひゅー。
 夜、口笛を吹くとおばけがやってくる——。この俗信は日本各地だけでなく、世界中で言い伝えられているそうだ。幽霊、悪魔、蛇、泥棒、人さらい……やってくるものはまちまちだが、どれも不吉な存在であることは共通している。人の記憶の奥深くに眠る暗黒と獣への恐怖が呼び覚まされるのか。ともすると大人でさえ夜の口笛を恐怖する。況わんや幼子をや。
 あからさまに怖がる子どもたちに、僕は少しいじわるな気持ちになって口笛を吹き続ける。
 ピィー。ピィー。ピィー。
 唇がほどよく湿ってきたのか、笛の音に張りが出てきた。日中の雑音がない夜、口笛は高く部屋に響き渡る。その響きが妙に心地よく、さらに強く吹き上げる。
 ピィー。ピィー。ピィーィィ、ピィーィィィピィーィピィーィィピピピィーーー………
 陶然と吹き続ける口笛はいつしか幾重にも積み重なり、家中に響き渡っていた。上から下から前から後ろから、いくつもの笛の音が子ども部屋を取り囲む。それはすきま風の唸りとは明らかに違う。人為的な音。だれかがなにかを呼ぶときの口笛だ。そして僕は知る。すでに自分が口笛を吹いていないことを。
 ピィィィピィィィィピィィィィィィーーーー、ピィィィピィィィィピィィィィィーーーー
 乾いた口笛がぐるぐると回り出す。子どもたちは布団のなかで小さくなり声すら上げない。淡く差し込んでいた外の光が青白く淀みだす。部屋のあちらこちらでバチッと閃光がはじける。電気のプールに潜ったかのように産毛がピリピリと逆立ち、息苦しくなる。僕は金縛りにあったようにその場を動けない。口笛は太く大きな地鳴りとなり、やがてそれが唱名であることに気づく。
 来る——。
 奥の部屋に人の気配を感じ、眼球だけで振り向いた。目の縁が廊下の向こうに蠢く人影を捉える。一人ではない。大勢の得体の知れないものが、苦しげに呻きながらわらわらと近づいてくる。そして僕は見た。白装束に身を包み、ざんばらの髪の毛を顔に垂らした武者たちの姿を。
 ずどん。体の中心をなにか重いものが落ちた。恐怖。意識が遠のきはじめる。子どもたち。だめだ。子どもたちを——。
(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子……)
 僕は目を固く閉じ、口のなかで般若心経を唱えた。
 ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
 突然、亡霊たちの呻きが大きくなる。僕は必死で般若心経を唱え続ける。背中を、肩を、首を、頭を、冷たい掌で押さえつけられる。耳元に腐った息を吹きつけられる。ここは絶対に通さない。僕は子ども部屋の入り口で足を踏ん張った。そのとき——
 ひゅー。ひゅー。ひゅー。
 玄関の扉の向こうで口笛が鳴った。小さく、しかしはっきりと。
 おおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーー
 亡霊がその音に反応した。捜し人を見つけたかのように唸り上げる。僕の背中から圧力が消える。
 ひゅー。ひゅー。ひゅー。
 その音に導かれるように亡霊たちは玄関に向かう。まだ金縛りは解けない。十数人もの武者たちが玄関の扉にぶつかり、突き抜けていくのが見える。呻き声は口笛と共に遠ざかっていく。
 りん。
 鈴の音がひとつ。それを合図に我に返る。家は静寂を取り戻していた。慌てて子どもたちに駆け寄り、掛け布団をめくる。
 安らかな寝息。
 僕は脱力し、布団の上に座り込む。シャツが汗でべっとりと体に張り付いた。
 翌朝。不思議なことに子どもたちは昨夜のことを憶えていなかった。あの武者は何者なのか。彼らを連れ去った口笛はだれが吹いていたのか。いや、どこまでが現実でどこからが幻なのか。それを確かめることは二度とないだろう。確かなことはひとつ。夜、口笛を吹くと——

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