ないまぜエルドラド ― 2007年04月16日 00:07
男は四十一歳を目前に、突然思い立った。
「美しいものを集めよう」
と。
そのきっかけは、たぶんあれだろう。
恋心。
美しい女性に出会い、不覚にも深く片足を恋に落としてしまったのだ。
しかし、もう一方の足をその穴に踏み入れることはできない。彼には美しい妻と美しい娘がいるからである。
仕方なく彼は、代替の美しさを求めることにした、という訳だ。
ところで、「美しいもの」とは何だろう。ただ見た目に美しさを感じるものだけを「美しい」としてしまうのは、やはり違うような気もする。それだけの定義では、薄っぺらなコレクションになってしまいそうだ。もっと深い美しさを定義し、その発見に心を震わせたい。誰とも違う、自分なりの美の感覚に陶酔したい。
とは言うものの、所詮根っこは、禁断の恋(この言葉を思い浮かべた瞬間、彼はその美しさに戦いた)から抜け出し、これからも落ちないようにするための回避法である。普遍的、超越的な美の探求などではない。だから、美学という学問を生半可にかじったりすることは端から考えていない。
とりあえず彼は、これから集める「美しいもの」に対して幾つかの基準をつくった。あくまでも彼独自の基準であり、できるだけ美しいものを発見しやすくしてある。
その基準は三つ。
一、赤色もしくは黒色であること。或いは、赤色もしくは黒色を感じさせること。
二、人工的であること。或いは、人が創造もしくは想像したものであること。
三、マイナー(多くの人に支持或いは認知されていない)であること。
思考の流れは、一、二、三の順番を追う。
まず、第一の思考。これは単純に赤色と黒色が好きだからである。好きなものの中から美しさを発見するのは効率的だろうし、目の付け所を限定したほうが目移りしなくて済む。
第二の思考は、自然や生物を排除するためのもの。自然に内包されたリアルな美は求めればキリがない。生物を外したのは、もちろん人間に対する想いを断ち切る——単純に言えば女性に目を向けないための逃げ道である。
第三の思考は、メジャーなものでは独占欲が満たされないから。独占することは最も魂をときめかせる感覚だろう。(ここで再び彼は、恋という言葉を思い出し、頭を振って振り払った)
独断の美しさを定義すると、彼は早速「美しいもの」探しを始めた。部屋を見回し、赤色もしくは黒色のものを探す。
最初に目に飛び込んできたのは、赤い電気ストーブだった。季節はすでに初夏を迎えようとしていたが、収納する場所を失い、部屋の片隅に数年来しらっと放置してある。
彼はその電気ストーブをまじまじと眺め、そこに秘められた美しさを見出そうとした。
赤い電気ストーブ。一九九一年製。四角い体に二本の脚と取っ手が付いている。上部には二つの黒いスイッチ。正面には曲面を描いた鏡の部屋。それは鉄格子に封じ込められている。部屋の中には二本の白い円柱が二の字に並んでいる。コンセントを差し込み、スイッチを入れてみる。二本の円柱は濃い橙色の光を発し、やがて背面の鏡を焰色に染め上げる。鏡の部屋からは熱気が溢れ、鉄格子をもまた発熱体へと変えて、熱は自由な外の世界へと解放されていく。あたかも抑えきれない情熱が常識や倫理の檻を溶かし、不可視の真っ赤な魂となって野に放たれるようだ。そしてその危険なエネルギーの解放は続く。灼熱にとろける寸前の円柱。赤く発光する炎の棒。ああ、美しい——。
……いやいや、無理矢理、美しさに誘導してはいけない。醒めて眺めれば、やはりただの電気ストーブではないか。しかも、たまたま赤色の商品だっただけで、その赤に必然性があるわけではない。思考の流れも結局は性的欲望に行き着いてしまっている。まったく恋心から逃れる方法になっていない。なによりも顔が熱い。
しかし、思わず感じてしまうところだった。魂に触れようとする美しさを。燃える発熱体。赤く、人工的で、さほど注目されない存在でもある。これは美しさの一つにエントリーしてもいいのではないか。
彼はこのようにして、「美しいもの」を次々とコレクションしていった。コレクションと言っても実際にそれらを手元に置くのではなく、小さなノートと心の隅に言葉で描き留めていった。
鏡の部屋、鉄格子に囚われた発熱体。
ブラックにシアンとマゼンタ、イエローを混ぜたリッチブラックの印刷物。
真っ赤な蝋燭の芯でさざめく真っ赤に溶けた蝋。
旧式マウスに隠された黒い樹脂に覆われたボール。
暗い地下のバーで飲む濃厚なブラッディ・マリー。
滑らかな黒檀でつくられたバイオリンの指板。
打ち捨てられた神社に残る朽ちた鳥居の朱塗。
閉じられた蓋の下で会話し始めるピアノの黒鍵と赤い敷物。
相変わらず彼の選んだ美しいものは「妄想込み」であったが、それでも心は徐々に美しいものたちに満たされていった。誰も知らないこの美しさを掲げれば、崇高な思想に支えられながら強く生きていけそうな気がしてきた。そう、件の恋にもそろそろ打ち勝てるのではないか、とも。
ところが、彼の赤と黒の黄金郷は、ある日ある朝、崩壊の危機に曝された。
恋心を抱く女性が、黒いドレススーツと真っ赤な口紅を纏っていたのである。
黒いドレススーツ。真っ赤な口紅。それは第一と第二の定義を満たしてはいたが、第三の定義を満たすマイナー性には欠けていた。しかし、彼女という唯一の存在がそれを体の一部とした瞬間、もはや大衆が共有できるものではなくなり、この世にただ一つの絶対性を勝ち取る。いやいや、もうそんな理屈などではない。その全体が美しさそのものだったのである。
彼はかろうじて片足の落下に耐えながら、心のノートにこう付け加えた。
美しい女性が纏う黒の衣服と赤の口紅。
赤と黒の黄金郷は途端にピンク色に染まり始め、あらゆるコレクションを侵し始めた。太陽に照らされた赤と黒はもはや色褪せ、甘い果実こぼれる桃源郷へと変化した。
彼はいたたまれず、ノートを道端に投げ捨てる。美しさから逃れることは不可能なのだろうか。美の探求が思わぬ返り血を浴びることになった。真っ赤な返り血を。
しかし、彼は負けてしまうわけにはいかなかった。生きていくためには、現実を変容するための物語が必要なのだ。
彼は美しさの第一定義を棒線で掻き消すと、その横に新たな定義を書き込んだ。
一、緑色もしくは紫色であること。或いは、緑色もしくは紫色を感じさせること。
その後のコレクションが困難を極めたことは言うまでもない。
(完)
「美しいものを集めよう」
と。
そのきっかけは、たぶんあれだろう。
恋心。
美しい女性に出会い、不覚にも深く片足を恋に落としてしまったのだ。
しかし、もう一方の足をその穴に踏み入れることはできない。彼には美しい妻と美しい娘がいるからである。
仕方なく彼は、代替の美しさを求めることにした、という訳だ。
ところで、「美しいもの」とは何だろう。ただ見た目に美しさを感じるものだけを「美しい」としてしまうのは、やはり違うような気もする。それだけの定義では、薄っぺらなコレクションになってしまいそうだ。もっと深い美しさを定義し、その発見に心を震わせたい。誰とも違う、自分なりの美の感覚に陶酔したい。
とは言うものの、所詮根っこは、禁断の恋(この言葉を思い浮かべた瞬間、彼はその美しさに戦いた)から抜け出し、これからも落ちないようにするための回避法である。普遍的、超越的な美の探求などではない。だから、美学という学問を生半可にかじったりすることは端から考えていない。
とりあえず彼は、これから集める「美しいもの」に対して幾つかの基準をつくった。あくまでも彼独自の基準であり、できるだけ美しいものを発見しやすくしてある。
その基準は三つ。
一、赤色もしくは黒色であること。或いは、赤色もしくは黒色を感じさせること。
二、人工的であること。或いは、人が創造もしくは想像したものであること。
三、マイナー(多くの人に支持或いは認知されていない)であること。
思考の流れは、一、二、三の順番を追う。
まず、第一の思考。これは単純に赤色と黒色が好きだからである。好きなものの中から美しさを発見するのは効率的だろうし、目の付け所を限定したほうが目移りしなくて済む。
第二の思考は、自然や生物を排除するためのもの。自然に内包されたリアルな美は求めればキリがない。生物を外したのは、もちろん人間に対する想いを断ち切る——単純に言えば女性に目を向けないための逃げ道である。
第三の思考は、メジャーなものでは独占欲が満たされないから。独占することは最も魂をときめかせる感覚だろう。(ここで再び彼は、恋という言葉を思い出し、頭を振って振り払った)
独断の美しさを定義すると、彼は早速「美しいもの」探しを始めた。部屋を見回し、赤色もしくは黒色のものを探す。
最初に目に飛び込んできたのは、赤い電気ストーブだった。季節はすでに初夏を迎えようとしていたが、収納する場所を失い、部屋の片隅に数年来しらっと放置してある。
彼はその電気ストーブをまじまじと眺め、そこに秘められた美しさを見出そうとした。
赤い電気ストーブ。一九九一年製。四角い体に二本の脚と取っ手が付いている。上部には二つの黒いスイッチ。正面には曲面を描いた鏡の部屋。それは鉄格子に封じ込められている。部屋の中には二本の白い円柱が二の字に並んでいる。コンセントを差し込み、スイッチを入れてみる。二本の円柱は濃い橙色の光を発し、やがて背面の鏡を焰色に染め上げる。鏡の部屋からは熱気が溢れ、鉄格子をもまた発熱体へと変えて、熱は自由な外の世界へと解放されていく。あたかも抑えきれない情熱が常識や倫理の檻を溶かし、不可視の真っ赤な魂となって野に放たれるようだ。そしてその危険なエネルギーの解放は続く。灼熱にとろける寸前の円柱。赤く発光する炎の棒。ああ、美しい——。
……いやいや、無理矢理、美しさに誘導してはいけない。醒めて眺めれば、やはりただの電気ストーブではないか。しかも、たまたま赤色の商品だっただけで、その赤に必然性があるわけではない。思考の流れも結局は性的欲望に行き着いてしまっている。まったく恋心から逃れる方法になっていない。なによりも顔が熱い。
しかし、思わず感じてしまうところだった。魂に触れようとする美しさを。燃える発熱体。赤く、人工的で、さほど注目されない存在でもある。これは美しさの一つにエントリーしてもいいのではないか。
彼はこのようにして、「美しいもの」を次々とコレクションしていった。コレクションと言っても実際にそれらを手元に置くのではなく、小さなノートと心の隅に言葉で描き留めていった。
鏡の部屋、鉄格子に囚われた発熱体。
ブラックにシアンとマゼンタ、イエローを混ぜたリッチブラックの印刷物。
真っ赤な蝋燭の芯でさざめく真っ赤に溶けた蝋。
旧式マウスに隠された黒い樹脂に覆われたボール。
暗い地下のバーで飲む濃厚なブラッディ・マリー。
滑らかな黒檀でつくられたバイオリンの指板。
打ち捨てられた神社に残る朽ちた鳥居の朱塗。
閉じられた蓋の下で会話し始めるピアノの黒鍵と赤い敷物。
相変わらず彼の選んだ美しいものは「妄想込み」であったが、それでも心は徐々に美しいものたちに満たされていった。誰も知らないこの美しさを掲げれば、崇高な思想に支えられながら強く生きていけそうな気がしてきた。そう、件の恋にもそろそろ打ち勝てるのではないか、とも。
ところが、彼の赤と黒の黄金郷は、ある日ある朝、崩壊の危機に曝された。
恋心を抱く女性が、黒いドレススーツと真っ赤な口紅を纏っていたのである。
黒いドレススーツ。真っ赤な口紅。それは第一と第二の定義を満たしてはいたが、第三の定義を満たすマイナー性には欠けていた。しかし、彼女という唯一の存在がそれを体の一部とした瞬間、もはや大衆が共有できるものではなくなり、この世にただ一つの絶対性を勝ち取る。いやいや、もうそんな理屈などではない。その全体が美しさそのものだったのである。
彼はかろうじて片足の落下に耐えながら、心のノートにこう付け加えた。
美しい女性が纏う黒の衣服と赤の口紅。
赤と黒の黄金郷は途端にピンク色に染まり始め、あらゆるコレクションを侵し始めた。太陽に照らされた赤と黒はもはや色褪せ、甘い果実こぼれる桃源郷へと変化した。
彼はいたたまれず、ノートを道端に投げ捨てる。美しさから逃れることは不可能なのだろうか。美の探求が思わぬ返り血を浴びることになった。真っ赤な返り血を。
しかし、彼は負けてしまうわけにはいかなかった。生きていくためには、現実を変容するための物語が必要なのだ。
彼は美しさの第一定義を棒線で掻き消すと、その横に新たな定義を書き込んだ。
一、緑色もしくは紫色であること。或いは、緑色もしくは紫色を感じさせること。
その後のコレクションが困難を極めたことは言うまでもない。
(完)
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