釣瓶舟 ― 2006年11月16日 01:20
古井戸に宝船が湧き出たという事件はすでに近隣の村に知れ渡り、人々はこぞって宝船見物に押しかけた。
井戸の周りには人垣ができ、同心円状に膨張し、およそ一町離れた最後列の人も固唾を呑んで井戸の底を覗き込んでいる。
その井戸は深さ約百二十尺。底にほど近い水面に、確かに宝船が浮かんでいる。乗っているのはもちろん七福神だ。
「なかきよの〜、とをのねふりのみなめさめ〜、なみのりふねの〜おとのよきかな〜」
耳を澄ませば、そんなお囃子が幽かに聞こえてくる。宝船は大海を行く客船のように、ゆったりと凪いだ水上を漂っている。
「釣り上げろっ」
誰かが叫ぶ。
最前列の童子が、恐る恐る釣瓶を降ろし始める。が、いつまでも水に辿り着かないことに業を煮やし、持っていた縄をわざと手放した。釣瓶は秋の日よりも速く落下していく。
「………………………………………………………………ょん」
久遠の間を経て着水した釣瓶は、なんとか宝船の直撃を免れた。船は何事もなかったかのように航行を続けている。お囃子は相変わらず続いている。波紋が船を揺らしている。
釣瓶は清水を満々と湛え、水底にゆらめいている。人々は宝船の運航がその真上を通るときを待ちかまえていた。
「おしっ、いまだ」
まさに釣瓶の真上に宝船が通りかかったとき、最後列に近い男が叫んだ。
最前列の人々は縄をたぐり、後ろの人へと渡し、一町後ろの人が縄の先を引っ張った。
宝船はまんまと釣瓶の中に収まり、ずんずんと地上目がけて上昇してくる。井戸のぐるりを取り囲んでいた人々は残らずその綱引きに加わり、乾いた大地に一線の轍を描いた。
そして。
直径三尺の井戸から巨大な宝船が引き上げられた。七福神は動じることもなく彼の唄を詠じ、琵琶と三味の音を高らかに響かせた。
人々の最前列から感嘆の波が背後へと流れ、大きな唸りとなって押し返された。光り輝く黄金の宝船を拝み、人々は一人残らず手を合わせた。
その刹那、釣瓶は張力を失い、すわ、と井戸底に落下した。が、幸いにも宝船は井戸よりも大きかったため、井戸の上にどしんと鎮座ましました。
線は再び円に戻り、皆が七福神が舞い唄う船を取り囲んだ。
唖然と口を開けたままの人。
固く眼を閉じて見つめる人。
真言を唱え九字を切る人。
お囃子に合わせ踊る人。
用事を思い出して帰る人。
しかし。
満々と湛えられた宝物を奪うわけでもなく、弁財天をくどくわけでもなく、我もと船に乗り込むわけでもなく、この珍事を書写するわけでもなく————
結局、人々は眼前の光景を見つめるしかなかった。見つめることをし続けるしかなかった。見つめることをし続ける人を見倣うしかなかった。
どうしていいのか、誰もわからなかった。どう振る舞うのが正しいのか、誰も知らなかった。生ける七福神を積んだ宝船への対処法を、誰も教えてもらっていなかった。
やがてその場に、なにやら恥ずかしげな空気が充満してきた。
「つるかめ、つるかめ」
照れ隠しにそう唱え、人々は日常に帰っていった。
日が落ちる頃には、誰もがいつもの暮らしに戻っていた。
井戸上の饗宴は、果てるともなく続いている。
「長き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな」
千年、万年の変化も、明けては暮れる一日の営みの如し。
天変地異の大変化にも、人間はほどなく慣れ、昇降運動を繰り返していく。
そろそろ釣瓶は、水面に辿り着いた頃。
(完)
※日本文学館・超短編小説大賞佳作
井戸の周りには人垣ができ、同心円状に膨張し、およそ一町離れた最後列の人も固唾を呑んで井戸の底を覗き込んでいる。
その井戸は深さ約百二十尺。底にほど近い水面に、確かに宝船が浮かんでいる。乗っているのはもちろん七福神だ。
「なかきよの〜、とをのねふりのみなめさめ〜、なみのりふねの〜おとのよきかな〜」
耳を澄ませば、そんなお囃子が幽かに聞こえてくる。宝船は大海を行く客船のように、ゆったりと凪いだ水上を漂っている。
「釣り上げろっ」
誰かが叫ぶ。
最前列の童子が、恐る恐る釣瓶を降ろし始める。が、いつまでも水に辿り着かないことに業を煮やし、持っていた縄をわざと手放した。釣瓶は秋の日よりも速く落下していく。
「………………………………………………………………ょん」
久遠の間を経て着水した釣瓶は、なんとか宝船の直撃を免れた。船は何事もなかったかのように航行を続けている。お囃子は相変わらず続いている。波紋が船を揺らしている。
釣瓶は清水を満々と湛え、水底にゆらめいている。人々は宝船の運航がその真上を通るときを待ちかまえていた。
「おしっ、いまだ」
まさに釣瓶の真上に宝船が通りかかったとき、最後列に近い男が叫んだ。
最前列の人々は縄をたぐり、後ろの人へと渡し、一町後ろの人が縄の先を引っ張った。
宝船はまんまと釣瓶の中に収まり、ずんずんと地上目がけて上昇してくる。井戸のぐるりを取り囲んでいた人々は残らずその綱引きに加わり、乾いた大地に一線の轍を描いた。
そして。
直径三尺の井戸から巨大な宝船が引き上げられた。七福神は動じることもなく彼の唄を詠じ、琵琶と三味の音を高らかに響かせた。
人々の最前列から感嘆の波が背後へと流れ、大きな唸りとなって押し返された。光り輝く黄金の宝船を拝み、人々は一人残らず手を合わせた。
その刹那、釣瓶は張力を失い、すわ、と井戸底に落下した。が、幸いにも宝船は井戸よりも大きかったため、井戸の上にどしんと鎮座ましました。
線は再び円に戻り、皆が七福神が舞い唄う船を取り囲んだ。
唖然と口を開けたままの人。
固く眼を閉じて見つめる人。
真言を唱え九字を切る人。
お囃子に合わせ踊る人。
用事を思い出して帰る人。
しかし。
満々と湛えられた宝物を奪うわけでもなく、弁財天をくどくわけでもなく、我もと船に乗り込むわけでもなく、この珍事を書写するわけでもなく————
結局、人々は眼前の光景を見つめるしかなかった。見つめることをし続けるしかなかった。見つめることをし続ける人を見倣うしかなかった。
どうしていいのか、誰もわからなかった。どう振る舞うのが正しいのか、誰も知らなかった。生ける七福神を積んだ宝船への対処法を、誰も教えてもらっていなかった。
やがてその場に、なにやら恥ずかしげな空気が充満してきた。
「つるかめ、つるかめ」
照れ隠しにそう唱え、人々は日常に帰っていった。
日が落ちる頃には、誰もがいつもの暮らしに戻っていた。
井戸上の饗宴は、果てるともなく続いている。
「長き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな」
千年、万年の変化も、明けては暮れる一日の営みの如し。
天変地異の大変化にも、人間はほどなく慣れ、昇降運動を繰り返していく。
そろそろ釣瓶は、水面に辿り着いた頃。
(完)
※日本文学館・超短編小説大賞佳作
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