まや師の横笛 ― 2006年11月18日 14:42
「さあ、今日もこのわしに、世にも奇妙な話を聞かせてくれ」
王様はそう言うと、金の木材と金の布と金の綿でできた深紅の椅子に深々と沈み込んだ。
——かしこまりました。
男は膝を折り、優雅にお辞儀をすると、漆黒に彩られた嵐の窓外を振り返り、雨音より静かな声で話し始めた。
——それは、ある笛吹きの話でございます。
その笛吹きは、退屈な船旅を慰める洋上の音楽家であった。当時、暇と金を持て余していた貴族たちの間で、広大な王国の領土を船で巡る小旅行が流行していた。贅沢な巨大帆船での旅は華やかなものであったが、波音に慣れた静かな夜には、賑やかな大陸の音楽がなによりの退屈しのぎとなった。船にはいつもバイオリン奏者とセロ弾き、そして横笛を奏でるこの男が乗り込んでいた。
彼ら三人は、宮廷の絢爛な音楽をこともなく弾きこなした。とりわけ横笛の音は虹の如く色を変え、船上の人々を多彩な情景に遊ばせた。ときには不死鳥を呼ぶ声のように。あるいは世古を偲ぶ島唄の如く。
笛吹きは海の上で名声を高め、その音はやがて国王の耳に届くこととなった。
「さあ、このわしにも、その魔法の横笛を聞かせてくれ」
王宮に招かれた笛吹きは、王の前であることにも動じず、静かに笛を構えた。
笛に穿たれた穴から、どこの国のものとも知れぬ旋律が流れ始める。
永久の移民が唄い継ぐ故郷の伝説。栄枯の歴史を劇的に描き出す抑揚。笛の音は緩やかに激しさを増し、戦火の熱さえ感じさせる狂乱めいた音楽で王室を満たした。
その魔的な音に魅せられていた王様の感嘆は、徐々に得体の知れぬ不安、そして畏怖へと変わっていった。ふと瞼を開いた王様は、不敵に微笑む笛吹きを眼前に見た。
その刹那、笛の音がぴたりと止んだ。笛吹きは、雨音よりも静かな声で王様に問うた。
「王様、彼の世の楽に触れてみますか?」
王様は心を支配された者のようにこくりと肯いた。笛吹は微笑んだままゆっくりと横笛に口づけし——
「————————————————————————————————————————————」
笛から放たれた一閃の音。それは王様の鼓膜を破り、無音の音は頭の中に直接響き渡った。
彼の世の楽。王様は恍惚の表情を浮かべ、ゆるりと椅子から立ち上がると、一人軽やかに踊り始めた。眼をしっかりと見開いたまま。
「ははは、これは愉快だ。なんて楽しい音楽じゃ」
笛吹きの吹く無音の音は、遠い彼の地まで一直線に走った。その音は出征の合図となり、幾億の騎馬が鬨の声を上げ、蹄の音を嵐の世に轟かせた。しかし、王様の鼓膜のない耳には聞こえない。近づきつつある地鳴りも、城壁を上り来る劫火も、戦士が地に伏せる音も。
——これがその横笛でございます。
ふいに男は懐から一本の古びた笛を取り出した。それは火に焼かれたように煤けてはいたが、木肌は黒々とした光沢を放っていた。
王様はその美しさに目を奪われながらも、不吉な予感となにかしらの期待が入り混じった落ち着かない気持ちになっていた。鼓膜を貫き、この世のものではない魅惑的な音楽を奏でるというその笛。しかしそれは、いまや王敵の笛としての伝説を身に纏っている。もしそれが真実であるならば……
——では一曲、ご献上。
男は王様の承諾も得ぬまま横笛を構えた。王様は思わず身を乗り出し制しようとしたが、すでに男は大きく息を吸い込み、まさにその笛に命を吹き込もうとしていた。そして——
「ぷすぅ〜〜〜………」
笛からは空気と間の抜けた音だけが漏れ出た。
男曰く。
——失礼。私、横笛と法螺だけは、このかた一度も吹いたことがございませんで……
(完)
【横笛】(ようじょう)
歴史的仮名遣いは「やうでう」とも。「横笛」の字音「おうてき」が「王敵」に通じるのを忌んで読みかえたものという。
よこぶえ。おうてき。
【まや師】
「まや」は、まやかしの意。詐欺やいかさまを常習とする者。ペテン師。
王様はそう言うと、金の木材と金の布と金の綿でできた深紅の椅子に深々と沈み込んだ。
——かしこまりました。
男は膝を折り、優雅にお辞儀をすると、漆黒に彩られた嵐の窓外を振り返り、雨音より静かな声で話し始めた。
——それは、ある笛吹きの話でございます。
その笛吹きは、退屈な船旅を慰める洋上の音楽家であった。当時、暇と金を持て余していた貴族たちの間で、広大な王国の領土を船で巡る小旅行が流行していた。贅沢な巨大帆船での旅は華やかなものであったが、波音に慣れた静かな夜には、賑やかな大陸の音楽がなによりの退屈しのぎとなった。船にはいつもバイオリン奏者とセロ弾き、そして横笛を奏でるこの男が乗り込んでいた。
彼ら三人は、宮廷の絢爛な音楽をこともなく弾きこなした。とりわけ横笛の音は虹の如く色を変え、船上の人々を多彩な情景に遊ばせた。ときには不死鳥を呼ぶ声のように。あるいは世古を偲ぶ島唄の如く。
笛吹きは海の上で名声を高め、その音はやがて国王の耳に届くこととなった。
「さあ、このわしにも、その魔法の横笛を聞かせてくれ」
王宮に招かれた笛吹きは、王の前であることにも動じず、静かに笛を構えた。
笛に穿たれた穴から、どこの国のものとも知れぬ旋律が流れ始める。
永久の移民が唄い継ぐ故郷の伝説。栄枯の歴史を劇的に描き出す抑揚。笛の音は緩やかに激しさを増し、戦火の熱さえ感じさせる狂乱めいた音楽で王室を満たした。
その魔的な音に魅せられていた王様の感嘆は、徐々に得体の知れぬ不安、そして畏怖へと変わっていった。ふと瞼を開いた王様は、不敵に微笑む笛吹きを眼前に見た。
その刹那、笛の音がぴたりと止んだ。笛吹きは、雨音よりも静かな声で王様に問うた。
「王様、彼の世の楽に触れてみますか?」
王様は心を支配された者のようにこくりと肯いた。笛吹は微笑んだままゆっくりと横笛に口づけし——
「————————————————————————————————————————————」
笛から放たれた一閃の音。それは王様の鼓膜を破り、無音の音は頭の中に直接響き渡った。
彼の世の楽。王様は恍惚の表情を浮かべ、ゆるりと椅子から立ち上がると、一人軽やかに踊り始めた。眼をしっかりと見開いたまま。
「ははは、これは愉快だ。なんて楽しい音楽じゃ」
笛吹きの吹く無音の音は、遠い彼の地まで一直線に走った。その音は出征の合図となり、幾億の騎馬が鬨の声を上げ、蹄の音を嵐の世に轟かせた。しかし、王様の鼓膜のない耳には聞こえない。近づきつつある地鳴りも、城壁を上り来る劫火も、戦士が地に伏せる音も。
——これがその横笛でございます。
ふいに男は懐から一本の古びた笛を取り出した。それは火に焼かれたように煤けてはいたが、木肌は黒々とした光沢を放っていた。
王様はその美しさに目を奪われながらも、不吉な予感となにかしらの期待が入り混じった落ち着かない気持ちになっていた。鼓膜を貫き、この世のものではない魅惑的な音楽を奏でるというその笛。しかしそれは、いまや王敵の笛としての伝説を身に纏っている。もしそれが真実であるならば……
——では一曲、ご献上。
男は王様の承諾も得ぬまま横笛を構えた。王様は思わず身を乗り出し制しようとしたが、すでに男は大きく息を吸い込み、まさにその笛に命を吹き込もうとしていた。そして——
「ぷすぅ〜〜〜………」
笛からは空気と間の抜けた音だけが漏れ出た。
男曰く。
——失礼。私、横笛と法螺だけは、このかた一度も吹いたことがございませんで……
(完)
【横笛】(ようじょう)
歴史的仮名遣いは「やうでう」とも。「横笛」の字音「おうてき」が「王敵」に通じるのを忌んで読みかえたものという。
よこぶえ。おうてき。
【まや師】
「まや」は、まやかしの意。詐欺やいかさまを常習とする者。ペテン師。
最近のコメント