綱を渡る人——帰還バージョン ― 2006年06月03日 02:57
朦朧とした意識の中に、ただ風の音だけがこだましていた。強く、弱く、繰り返し耳に届いてくる風の声。それは、何万年も前から聴き続けていた音楽のような気がする。波打ち際に密生する海洋性植物が、生まれる遙か以前から波の音を体内に響かせ、遺伝子に組み込まれた音楽が数億年に渡り絶えることなく流れてきたように、風の音は間断なく私の耳に打ち寄せてくる。それは、無意識の内に宿る体内時計のように、私の中を流れ続けていた。
そして、その風の声は子守歌にも似た安らぎを与えてくれる。この風の音が止んだ時、ふいに訪れる静寂という名の音楽は、むしろ私に死の不安を与えるだろう。静寂は私の存在をも消し去ってしまう——。落ち着きのない、気紛れな風の叫びを聴いている時にだけ、私は自らの存在、そして、自分は生きているのだという事実を認識するのだ。心のどこかに触れる幽かな冷気を感じながら。
ぼんやりとした意識の中、ただ風だけが私を包み込んでいた……。
その時、一際強い風が横殴りに私の傍らを走り抜けた。びゅるびゅると何かが風に震える音が聞こえる。そのうち、ゆっくりと意識が凝結しはじめた。ギシ、ギシ、と何かのきしむ音。気がつくと私は、長い天秤棒を手に持ち、バランスをとりながら綱の上を歩いている自分を見つけた。
遙か中空に張られた一本の綱の上を、サーカスの綱渡りよろしくゆっくりと歩いている私——。見下ろせば、そこにはただどんよりと濁った空があるだけ。地面らしきものはどこにも見えない。それは上を見ても同じことだった。綱は真っ直ぐに宙に張られ、その先は途方なき彼方の雲中に消え入っている。
——私は後ろを振り返らなかった。
なぜなら、そこには何もないことを知っていたからだ。そう、私はただ前に歩き続けるしかない綱渡り師なのだ。
私は思う。
(いつからこの綱を渡っているのだろう?)
記憶の海に繊細な糸を投げ込んで手繰ってみるが、そこには何もかからない。ぎっしりと詰まった同じ色の水滴。ただ綱を渡り続けている記憶が途切れなくあるだけだ。記憶? 果たしてそれを「記憶」と呼べるだろうか? 私には記憶と呼べる時の流れは存在しない。微塵たりとも波立たない海が存在しないように、そして、回転することしか知らない歯車が特定の時間の記憶を持たないように——。
また思う。
(私はどこへ行くのだろう?)
(この先には何があるのだろう?)
このような問いかけを、幾万となく繰り返してきたような気がする。いや、たった今、初めて頭に浮かんだのかもしれない。いずれにせよ、この思いもすぐに忘却の雲間へと紛れてしまうだろう。私はただどこまでも綱の上を歩いていくしかなかった。しかし、この旅の終焉を仄かに期待しながら。
ふと前方を見ると、綱の彼方に小さく蠢く影が見えた。私は幾分歩をゆるめ、目を凝らしてそれを見つめた。次の瞬間、心臓が一拍、大きな音をたてた。
「人だ!」
私は思わず声に出して叫んだ。その声は他人のもののように私の耳を通り抜けた。信じられない光景だった。微かに見える人影と天秤棒。あれは——
私の五感は麻痺し、ただ魂そのものが瞬時には判断しかねる感情に震えた。
——この綱の上に私以外の人間がいた!
綱の上で人に会うことは、おそらく初めてのことだろう(そう、もしかしたら以前に幾度となく人に出会っているかもしれないが、すでに記憶の外に排除されてしまっているかもしれない)。
人間。それは私にとって非常に「懐かしい」存在だった。私には綱の上を歩いている自分の記憶しかないが、「人間」という生物の認識はなぜか当たり前のように持っていた。遙か昔、地上で人の世の暮らしをしていたという記憶はもちろんない。しかし、私は自分が人間であること、その「人間」という言葉の響き、そして、人間の暮らしがどういうものであるかということさえ、当然のように理解していた。この綱渡りが、ただの夢として急速に薄れ、突然「人」としての何の変哲もない生活が始まったとしても、私は何ら臆することなくその生活に順応できるだろう。また逆に、地上での生活はすべて夢であり、目覚めれば綱の上を歩いていたとしても、私は別段驚きはしない。もはや、どちらが現実であるのかわからなくなっているのだ。現実? 私にとってはどちらが現実であろうと、それは大した問題ではない。ただ私は、与えられた世界を何の疑念もなく生きていくことに慣らされてしまっていた。
とりとめもない想いに耽っている間に、人影はこちらへ向かってどんどん近づいてきていた。私は知らず知らずのうちに歩を速めていた。人に対しての懐かしさもあったであろう。しかし、それだけではない。もう一つの想い、その人が来た方向、すなわち私が向かっている方向にはいったい何があるのかを知りたかったのだ。
(ゴールはもうすぐなのかもしれない)
私は注意深く、しかし、できる限りの速度で綱を渡っていった。その人影も私の姿を認めたのか、さっきよりも急いでこちらへと向かってくる。二人の距離は急速に縮まった。
それは男であることが見て取れた。年は三十代半ば。私と同年輩くらいであろうか。皺一つない濃紺のスーツ姿。ネクタイもきちんと結んでいる。その顔は妙に青白く光って見えた。
やがて二人は対峙した。男は若干息をはずませ、しばし無言で立ち尽くしていた。口元には微かに笑みをたたえている。それは私も同様であった。
私は人に出会えた喜びと懐かしさで、しばらくは口を開くことすらできなかった。そして思わず、
「こ、こんにちは」
ようやく開いた口からは、なんとも間の抜けた言葉しか出なかった。しかし、男は私の言葉など耳に入っていないかのように、ふいに話しかけてきた。
「どこから来たのです? 向こうには何があるのです?」
私はその問いかけに当惑してしまった。突然の質問に答えあぐねていると、男はなおも尋ねかけてきた。
「終着地はもうすぐなのですか? あとどのくらい?」
男の言葉には、大きな期待と願望が込められていた。私はその言葉を聞いて、すべてを了解した。恐ろしく落胆を孕んだその意味を。
私は答えた。
「……向こうには、何もないのですよ。終着地などないのです」
男の表情にさっと翳りが差した。
「嘘だ。そんなはずはない。それなら、あなたはどこから来たというのですか?」
「わからないのです。私がどこからやって来たのか。気がついたらこのとおり、綱の上を歩いていたのです。そういうあなたは、いったいどこから来たというのですか?」
「そ、それは……」
男は途端に口ごもった。気づいたのだ。しかし、その事実を認めたくないかのように強く頭を横に振ると、何かを探るような口調で喋りはじめた。
「この綱の上には、あなたと私以外に誰かいるのですか?」
「わかりません。私が出会った人間はあなたが初めてです。おそらく」
「おそらく、と言うと?」
「記憶が麻痺してしまっているのですよ。あなたもそうでしょう?」
男の額から汗が一筋流れ落ちた。それは綱をかすめ、緩やかに虚空へと滑り落ちていった。私は畳みかけるように尋ねた。
「あなたには過去の記憶がありますか? この綱を渡る以前の記憶が。ほんの少しでもあるならば、教えてください。あなたは何をしていたのか、どこからやって来たのか?」
男はもはや顔面蒼白で唇は色を失っていた。そして一度深く目を伏せた後、人が変わったかのように険悪な口振りで喋りはじめた。
「俺が何をしていたのか、どこからやって来たのか、それはもう忘れてしまった。しかし、はっきりと言えることは、俺はおまえよりもずっと長くこの綱の上を歩き続けているということだ。いくらおまえが長い道のりをたどってきたとしても、俺の歩いてきた距離に比べれば大した距離ではあるまい。とにかく、俺は前へ進むしかないのだ。きっとゴールはもうすぐのはずなのだ」
男は自分に言い聞かせるかのように強い口調で言い放った。私は諦観の念に囚われた。
「残念ですが、私もあなたと同じように感じているのです。きっと、まだまだゴールには到着できないのでしょう。しかし、私もまた前に進むしかないのです。もう後ろへ戻る気力はない」
気まずい沈黙がその場を包んだ。時折、男の顔には今にも泣き出しそうな表情が浮かぶ。長い(私でさえそう感じた)沈黙の後、私は思いきって口を開いた。
「こんなところで落ち込んでいてもはじまらない。とにかく、お互い前に進んでいくしかないのです。きっとゴールはあるでしょう。それを信じて歩き続けましょう」
男は無表情で答えた。
「確かにそうだ。今までのように前へ進んでいくしかない。俺も後ろへ戻る気などまったくないからな。しかし、この綱の上で、どうやって二人がすれ違うというのだ?」
言われてみればそうである。一本の細い綱の上、一人がこのまま前へ進むためには、もう一人が綱の上からいなくならなければならない。つまり、一人が落ちるということだ。
「どちらかが道を空けなければならないわけですね。これは困りました」
「困ることなどない。俺が通るから、おまえはどけ」
(なんて勝手な奴なんだ)
私は思い出した。人間は自分勝手な生き物だということを。が、その時、ある考えが浮かんだ。
「そうだ、こうしましょう。私がこの綱に手でぶら下がりますから、あなたはその上を通ってください。すれ違った後、私を引き上げるのにちょっと手を貸してくだされば結構です」
「よし、わかった。では早速やってみよう」
私は男に天秤棒を預けると、綱に手をかけて宙吊りになった。男が上から見下ろしている。両手で支えた自分の体は、予想外に重かった。
「さあ、早く渡ってください」
私はそう促した。が、男は微動だにしない。私の脳裏に嫌な予感が兆した。
「何をしているんです! 早く!」
男は私の声が耳に入っていないかのように、私を見つめ、凍りつくような笑みを口元にへばりつかせた。
男は私の天秤棒を虚空へと投げ放った。男が何を考えているのか、もはや確かめるまでもない。私は呆然と男を見上げた。
「向こうには何もないだって? よくもそんなでたらめを言ってくれたな。俺を騙そうなんてそうはいかない。俺を失望させようとした罰だ。おまえには落ちてもらう」
男はそう言うと、綱を掴んでいる私の手を固い靴底で踏みつけた。
「何をするんだ! やめろ!」
そんな声を男は聞くはずもなかった。執拗に私の指を踏みにじる。私は激痛に奥歯を噛みしめた。「痛み」という感覚は、不条理なほどあっさりと記憶からにじみ出る。私の目にはいつしか涙が溢れていた。そして、私の両手が綱から離れた。私は遙か下方に存在するであろう地面めがけて落下していった。
墜ちゆく過程は、恐怖よりもむしろ甘美でさえあった。今まで頑なに恐れていた落下(もしくは死)というものが、あまりにも唐突に、予想外のたやすさで受け入れられ、そしてそれは敬慕にも似た感情へと変化した。
解放。
すっかり忘れていた自由への欲望が、体のどこか奥深い部分で生まれ、膨れ、皮膚を突き破って爆発した。そして、私は今まで味わったことのない安らぎに包まれていった。
束の間であろうとも、新しい世界がそこには展開されていた。厚く濁った雲を突き抜けると、見たこともない美しく蒼い空が広がっていた。
——そう、どこまでも蒼い空。私の中に幸福感が芽生えた。この空の青が最期の光になるのなら、私はそれだけで幸せだと思った。
白い躯をした鳥の群れが目に入った。私も今、あの鳥たちと同じ景色を眺めている。私は鳥の自由を感じた。私は刹那の自由に身を委ね、ただ堕ち続けた。
と、その時。一羽の白い鳥が群れを離れ、私の傍らへと飛んできた。その鳥は私に寄り添い、話しかけてきた。
「何をしているんです?」
「ああ、堕ちているんだ」
「おもしろいですか?」
「まあ、おもしろくもないが、別段悲しくもない」
「ふーん。でも、このまま堕ち続けると、地面にぶつかって死んじゃいますよ」
「そうだろうね。でも、それはしかたのないことだから」
「何故しかたないんです? 飛べばいいじゃないですか」
「飛ぶ? ハハ、私は鳥じゃないからね。飛びたくても飛べないんだよ」
「鳥じゃなくても飛べますよ」
「人間は飛べないんだよ。君たちみたいに翼を持っていないからね」
「じゃあ、その背中についているのは何です?」
「背中?」
私は振り返った。そこには、黄金に輝く大きな翼が風に小さくなびいていた。背中に翼が、生えている。
——これは!?
私は背中に意識を集中してみた。すると、ばさりと大きな音をたて、翼は力強くはためいた。もう一度、今度は翼を動かしてみる。翼は大きく風をはらみ、私はゆっくりと中空に立ち止まった。
奇跡。
私は感動ともつかぬ賛嘆の声をあげた。白い鳥が楽しそうに話しかけてくる。
「ほらね、飛べるでしょ。どんな生き物にも翼はあるんですよ。ただ、気づかないだけなのさ。特に人間は。ああ、もったいない、もったいない」
そう呟きながら、白い鳥はひらりと翻り、もう群れの中へは戻らずに独り軽やかに飛び去った。
いつしか、蒼い空の中に星が瞬きはじめていた。
ふと我に返った私は、自分の翼をもう一度確かめてみた。夢ではない、現実の翼だ。
(どんな生き物にも翼はある……)
突然、私の中に生への活力が満ち溢れてきた。自分の翼で飛ぶことを知った私は、光輝く未来を見たのだ。
力一杯、羽ばたいてみる。私の体は光の速度で舞い上がった。そのまま私は、一際輝く星をめがけて一気に加速した。
翼はいつまでも力強く風を切った。光速で飛び交う雲間をすり抜け、めくるめく空のグラデーションに一直線の白線を引きながら、私は果てしなく飛び続けた。眼下には、薄く濃い真っ白な雲が、私の影を——十字架のような影を淡く映している。その白んだ地平の合間に時折垣間見られる景色は、空の色をことごとく記憶した海。そして、太陽の光を宿した小さな島々。耳に届いてくる音は、風の声だけだった。
私は、——私は一つの決意に胸をときめかせていた。
地上に、降りてみよう——。
人間の世界に戻るのだ。輪郭さえもあやふやな思い込みの世界。遙か記憶の彼方で創り出された虚飾の世界。しかし、鳥を「鳥」、空を「空」だと認める理性に裏打ちされた現実の世界。そう、私は人間であり、人間の世界に戻るべきなのだという理屈なき世界に、私は帰っていこうと思った。
太陽の閃光が睫をかすめたその時、私は翼の角度を変えた。薄く濃く真っ白な雲を突き抜け、ぐんぐんと急降下していく。
海のうねりは次第に忙しなく陽の光を反射し、懐かしい香りが鼻孔を刺激しはじめた。
潮の香り——。
脳裏に、恐るべき速度で記憶が甦ってきた。
私の名前。
私の故郷。
私の職業。
父。
母。
妹。
妻。
子どもたち。
確かに、私は人の世に生まれ、人間の暮らしをしていたのだ。それは、平凡なほどに幸福な、慎ましやかゆえに温かな、私にとっては離れがたい日々であった。だがしかし——
ある記憶が欠落していた。
何故、天空に張られた綱の上を歩くようなことになったのか。
わからない。きっかけさえも知れない。ある日曜日の昼下がり、突然、非現実の隙間にするりと紛れ込んでしまったのだろうか。そう、あの男もきっと。
しかし、私には帰るべき場所があった。帰りたい。あの家に。今はその想いだけが強く心を捉えていた。妻に、子どもたちに会いたい。父は、母は元気だろうか——。
その時、ある恐ろしい疑念が頭をかすめた。私はその答えを求めるべく、森の向こうに拓けた白い街をめがけて降下していった。
街の中央に聳える教会の尖塔に、私はふわりと舞い降りた。街は数多の往来に賑わっていた。おそらく今日は日曜日なのだろう。ほら、子どもたちが意味もなく戯れている。彼らは一様に緑色の瞳を地中海あたりの乾いた太陽に輝かせて笑っていた。
人間の国に、私は戻った。
私はその雑踏の中にゆっくりと落ちていった。人々は振り返り、歓声にも似たどよめきが足元から沸き上がった。
教会の鐘の音が、正午であろう刻を高らかに鳴り響かせた。そしてその鐘が鳴りやんだ時、私を真っ直ぐに指差して、一人の少年が少女のような声で叫んだ。
「ママ、おばけだ、鳥のおばけがいるよ!」
その異国の言葉に、私はにこやかな笑みで応え、ゆっくりと歩きはじめた。この街のどこかで目にするであろう、カレンダーを探して。
(完)
そして、その風の声は子守歌にも似た安らぎを与えてくれる。この風の音が止んだ時、ふいに訪れる静寂という名の音楽は、むしろ私に死の不安を与えるだろう。静寂は私の存在をも消し去ってしまう——。落ち着きのない、気紛れな風の叫びを聴いている時にだけ、私は自らの存在、そして、自分は生きているのだという事実を認識するのだ。心のどこかに触れる幽かな冷気を感じながら。
ぼんやりとした意識の中、ただ風だけが私を包み込んでいた……。
その時、一際強い風が横殴りに私の傍らを走り抜けた。びゅるびゅると何かが風に震える音が聞こえる。そのうち、ゆっくりと意識が凝結しはじめた。ギシ、ギシ、と何かのきしむ音。気がつくと私は、長い天秤棒を手に持ち、バランスをとりながら綱の上を歩いている自分を見つけた。
遙か中空に張られた一本の綱の上を、サーカスの綱渡りよろしくゆっくりと歩いている私——。見下ろせば、そこにはただどんよりと濁った空があるだけ。地面らしきものはどこにも見えない。それは上を見ても同じことだった。綱は真っ直ぐに宙に張られ、その先は途方なき彼方の雲中に消え入っている。
——私は後ろを振り返らなかった。
なぜなら、そこには何もないことを知っていたからだ。そう、私はただ前に歩き続けるしかない綱渡り師なのだ。
私は思う。
(いつからこの綱を渡っているのだろう?)
記憶の海に繊細な糸を投げ込んで手繰ってみるが、そこには何もかからない。ぎっしりと詰まった同じ色の水滴。ただ綱を渡り続けている記憶が途切れなくあるだけだ。記憶? 果たしてそれを「記憶」と呼べるだろうか? 私には記憶と呼べる時の流れは存在しない。微塵たりとも波立たない海が存在しないように、そして、回転することしか知らない歯車が特定の時間の記憶を持たないように——。
また思う。
(私はどこへ行くのだろう?)
(この先には何があるのだろう?)
このような問いかけを、幾万となく繰り返してきたような気がする。いや、たった今、初めて頭に浮かんだのかもしれない。いずれにせよ、この思いもすぐに忘却の雲間へと紛れてしまうだろう。私はただどこまでも綱の上を歩いていくしかなかった。しかし、この旅の終焉を仄かに期待しながら。
ふと前方を見ると、綱の彼方に小さく蠢く影が見えた。私は幾分歩をゆるめ、目を凝らしてそれを見つめた。次の瞬間、心臓が一拍、大きな音をたてた。
「人だ!」
私は思わず声に出して叫んだ。その声は他人のもののように私の耳を通り抜けた。信じられない光景だった。微かに見える人影と天秤棒。あれは——
私の五感は麻痺し、ただ魂そのものが瞬時には判断しかねる感情に震えた。
——この綱の上に私以外の人間がいた!
綱の上で人に会うことは、おそらく初めてのことだろう(そう、もしかしたら以前に幾度となく人に出会っているかもしれないが、すでに記憶の外に排除されてしまっているかもしれない)。
人間。それは私にとって非常に「懐かしい」存在だった。私には綱の上を歩いている自分の記憶しかないが、「人間」という生物の認識はなぜか当たり前のように持っていた。遙か昔、地上で人の世の暮らしをしていたという記憶はもちろんない。しかし、私は自分が人間であること、その「人間」という言葉の響き、そして、人間の暮らしがどういうものであるかということさえ、当然のように理解していた。この綱渡りが、ただの夢として急速に薄れ、突然「人」としての何の変哲もない生活が始まったとしても、私は何ら臆することなくその生活に順応できるだろう。また逆に、地上での生活はすべて夢であり、目覚めれば綱の上を歩いていたとしても、私は別段驚きはしない。もはや、どちらが現実であるのかわからなくなっているのだ。現実? 私にとってはどちらが現実であろうと、それは大した問題ではない。ただ私は、与えられた世界を何の疑念もなく生きていくことに慣らされてしまっていた。
とりとめもない想いに耽っている間に、人影はこちらへ向かってどんどん近づいてきていた。私は知らず知らずのうちに歩を速めていた。人に対しての懐かしさもあったであろう。しかし、それだけではない。もう一つの想い、その人が来た方向、すなわち私が向かっている方向にはいったい何があるのかを知りたかったのだ。
(ゴールはもうすぐなのかもしれない)
私は注意深く、しかし、できる限りの速度で綱を渡っていった。その人影も私の姿を認めたのか、さっきよりも急いでこちらへと向かってくる。二人の距離は急速に縮まった。
それは男であることが見て取れた。年は三十代半ば。私と同年輩くらいであろうか。皺一つない濃紺のスーツ姿。ネクタイもきちんと結んでいる。その顔は妙に青白く光って見えた。
やがて二人は対峙した。男は若干息をはずませ、しばし無言で立ち尽くしていた。口元には微かに笑みをたたえている。それは私も同様であった。
私は人に出会えた喜びと懐かしさで、しばらくは口を開くことすらできなかった。そして思わず、
「こ、こんにちは」
ようやく開いた口からは、なんとも間の抜けた言葉しか出なかった。しかし、男は私の言葉など耳に入っていないかのように、ふいに話しかけてきた。
「どこから来たのです? 向こうには何があるのです?」
私はその問いかけに当惑してしまった。突然の質問に答えあぐねていると、男はなおも尋ねかけてきた。
「終着地はもうすぐなのですか? あとどのくらい?」
男の言葉には、大きな期待と願望が込められていた。私はその言葉を聞いて、すべてを了解した。恐ろしく落胆を孕んだその意味を。
私は答えた。
「……向こうには、何もないのですよ。終着地などないのです」
男の表情にさっと翳りが差した。
「嘘だ。そんなはずはない。それなら、あなたはどこから来たというのですか?」
「わからないのです。私がどこからやって来たのか。気がついたらこのとおり、綱の上を歩いていたのです。そういうあなたは、いったいどこから来たというのですか?」
「そ、それは……」
男は途端に口ごもった。気づいたのだ。しかし、その事実を認めたくないかのように強く頭を横に振ると、何かを探るような口調で喋りはじめた。
「この綱の上には、あなたと私以外に誰かいるのですか?」
「わかりません。私が出会った人間はあなたが初めてです。おそらく」
「おそらく、と言うと?」
「記憶が麻痺してしまっているのですよ。あなたもそうでしょう?」
男の額から汗が一筋流れ落ちた。それは綱をかすめ、緩やかに虚空へと滑り落ちていった。私は畳みかけるように尋ねた。
「あなたには過去の記憶がありますか? この綱を渡る以前の記憶が。ほんの少しでもあるならば、教えてください。あなたは何をしていたのか、どこからやって来たのか?」
男はもはや顔面蒼白で唇は色を失っていた。そして一度深く目を伏せた後、人が変わったかのように険悪な口振りで喋りはじめた。
「俺が何をしていたのか、どこからやって来たのか、それはもう忘れてしまった。しかし、はっきりと言えることは、俺はおまえよりもずっと長くこの綱の上を歩き続けているということだ。いくらおまえが長い道のりをたどってきたとしても、俺の歩いてきた距離に比べれば大した距離ではあるまい。とにかく、俺は前へ進むしかないのだ。きっとゴールはもうすぐのはずなのだ」
男は自分に言い聞かせるかのように強い口調で言い放った。私は諦観の念に囚われた。
「残念ですが、私もあなたと同じように感じているのです。きっと、まだまだゴールには到着できないのでしょう。しかし、私もまた前に進むしかないのです。もう後ろへ戻る気力はない」
気まずい沈黙がその場を包んだ。時折、男の顔には今にも泣き出しそうな表情が浮かぶ。長い(私でさえそう感じた)沈黙の後、私は思いきって口を開いた。
「こんなところで落ち込んでいてもはじまらない。とにかく、お互い前に進んでいくしかないのです。きっとゴールはあるでしょう。それを信じて歩き続けましょう」
男は無表情で答えた。
「確かにそうだ。今までのように前へ進んでいくしかない。俺も後ろへ戻る気などまったくないからな。しかし、この綱の上で、どうやって二人がすれ違うというのだ?」
言われてみればそうである。一本の細い綱の上、一人がこのまま前へ進むためには、もう一人が綱の上からいなくならなければならない。つまり、一人が落ちるということだ。
「どちらかが道を空けなければならないわけですね。これは困りました」
「困ることなどない。俺が通るから、おまえはどけ」
(なんて勝手な奴なんだ)
私は思い出した。人間は自分勝手な生き物だということを。が、その時、ある考えが浮かんだ。
「そうだ、こうしましょう。私がこの綱に手でぶら下がりますから、あなたはその上を通ってください。すれ違った後、私を引き上げるのにちょっと手を貸してくだされば結構です」
「よし、わかった。では早速やってみよう」
私は男に天秤棒を預けると、綱に手をかけて宙吊りになった。男が上から見下ろしている。両手で支えた自分の体は、予想外に重かった。
「さあ、早く渡ってください」
私はそう促した。が、男は微動だにしない。私の脳裏に嫌な予感が兆した。
「何をしているんです! 早く!」
男は私の声が耳に入っていないかのように、私を見つめ、凍りつくような笑みを口元にへばりつかせた。
男は私の天秤棒を虚空へと投げ放った。男が何を考えているのか、もはや確かめるまでもない。私は呆然と男を見上げた。
「向こうには何もないだって? よくもそんなでたらめを言ってくれたな。俺を騙そうなんてそうはいかない。俺を失望させようとした罰だ。おまえには落ちてもらう」
男はそう言うと、綱を掴んでいる私の手を固い靴底で踏みつけた。
「何をするんだ! やめろ!」
そんな声を男は聞くはずもなかった。執拗に私の指を踏みにじる。私は激痛に奥歯を噛みしめた。「痛み」という感覚は、不条理なほどあっさりと記憶からにじみ出る。私の目にはいつしか涙が溢れていた。そして、私の両手が綱から離れた。私は遙か下方に存在するであろう地面めがけて落下していった。
墜ちゆく過程は、恐怖よりもむしろ甘美でさえあった。今まで頑なに恐れていた落下(もしくは死)というものが、あまりにも唐突に、予想外のたやすさで受け入れられ、そしてそれは敬慕にも似た感情へと変化した。
解放。
すっかり忘れていた自由への欲望が、体のどこか奥深い部分で生まれ、膨れ、皮膚を突き破って爆発した。そして、私は今まで味わったことのない安らぎに包まれていった。
束の間であろうとも、新しい世界がそこには展開されていた。厚く濁った雲を突き抜けると、見たこともない美しく蒼い空が広がっていた。
——そう、どこまでも蒼い空。私の中に幸福感が芽生えた。この空の青が最期の光になるのなら、私はそれだけで幸せだと思った。
白い躯をした鳥の群れが目に入った。私も今、あの鳥たちと同じ景色を眺めている。私は鳥の自由を感じた。私は刹那の自由に身を委ね、ただ堕ち続けた。
と、その時。一羽の白い鳥が群れを離れ、私の傍らへと飛んできた。その鳥は私に寄り添い、話しかけてきた。
「何をしているんです?」
「ああ、堕ちているんだ」
「おもしろいですか?」
「まあ、おもしろくもないが、別段悲しくもない」
「ふーん。でも、このまま堕ち続けると、地面にぶつかって死んじゃいますよ」
「そうだろうね。でも、それはしかたのないことだから」
「何故しかたないんです? 飛べばいいじゃないですか」
「飛ぶ? ハハ、私は鳥じゃないからね。飛びたくても飛べないんだよ」
「鳥じゃなくても飛べますよ」
「人間は飛べないんだよ。君たちみたいに翼を持っていないからね」
「じゃあ、その背中についているのは何です?」
「背中?」
私は振り返った。そこには、黄金に輝く大きな翼が風に小さくなびいていた。背中に翼が、生えている。
——これは!?
私は背中に意識を集中してみた。すると、ばさりと大きな音をたて、翼は力強くはためいた。もう一度、今度は翼を動かしてみる。翼は大きく風をはらみ、私はゆっくりと中空に立ち止まった。
奇跡。
私は感動ともつかぬ賛嘆の声をあげた。白い鳥が楽しそうに話しかけてくる。
「ほらね、飛べるでしょ。どんな生き物にも翼はあるんですよ。ただ、気づかないだけなのさ。特に人間は。ああ、もったいない、もったいない」
そう呟きながら、白い鳥はひらりと翻り、もう群れの中へは戻らずに独り軽やかに飛び去った。
いつしか、蒼い空の中に星が瞬きはじめていた。
ふと我に返った私は、自分の翼をもう一度確かめてみた。夢ではない、現実の翼だ。
(どんな生き物にも翼はある……)
突然、私の中に生への活力が満ち溢れてきた。自分の翼で飛ぶことを知った私は、光輝く未来を見たのだ。
力一杯、羽ばたいてみる。私の体は光の速度で舞い上がった。そのまま私は、一際輝く星をめがけて一気に加速した。
翼はいつまでも力強く風を切った。光速で飛び交う雲間をすり抜け、めくるめく空のグラデーションに一直線の白線を引きながら、私は果てしなく飛び続けた。眼下には、薄く濃い真っ白な雲が、私の影を——十字架のような影を淡く映している。その白んだ地平の合間に時折垣間見られる景色は、空の色をことごとく記憶した海。そして、太陽の光を宿した小さな島々。耳に届いてくる音は、風の声だけだった。
私は、——私は一つの決意に胸をときめかせていた。
地上に、降りてみよう——。
人間の世界に戻るのだ。輪郭さえもあやふやな思い込みの世界。遙か記憶の彼方で創り出された虚飾の世界。しかし、鳥を「鳥」、空を「空」だと認める理性に裏打ちされた現実の世界。そう、私は人間であり、人間の世界に戻るべきなのだという理屈なき世界に、私は帰っていこうと思った。
太陽の閃光が睫をかすめたその時、私は翼の角度を変えた。薄く濃く真っ白な雲を突き抜け、ぐんぐんと急降下していく。
海のうねりは次第に忙しなく陽の光を反射し、懐かしい香りが鼻孔を刺激しはじめた。
潮の香り——。
脳裏に、恐るべき速度で記憶が甦ってきた。
私の名前。
私の故郷。
私の職業。
父。
母。
妹。
妻。
子どもたち。
確かに、私は人の世に生まれ、人間の暮らしをしていたのだ。それは、平凡なほどに幸福な、慎ましやかゆえに温かな、私にとっては離れがたい日々であった。だがしかし——
ある記憶が欠落していた。
何故、天空に張られた綱の上を歩くようなことになったのか。
わからない。きっかけさえも知れない。ある日曜日の昼下がり、突然、非現実の隙間にするりと紛れ込んでしまったのだろうか。そう、あの男もきっと。
しかし、私には帰るべき場所があった。帰りたい。あの家に。今はその想いだけが強く心を捉えていた。妻に、子どもたちに会いたい。父は、母は元気だろうか——。
その時、ある恐ろしい疑念が頭をかすめた。私はその答えを求めるべく、森の向こうに拓けた白い街をめがけて降下していった。
街の中央に聳える教会の尖塔に、私はふわりと舞い降りた。街は数多の往来に賑わっていた。おそらく今日は日曜日なのだろう。ほら、子どもたちが意味もなく戯れている。彼らは一様に緑色の瞳を地中海あたりの乾いた太陽に輝かせて笑っていた。
人間の国に、私は戻った。
私はその雑踏の中にゆっくりと落ちていった。人々は振り返り、歓声にも似たどよめきが足元から沸き上がった。
教会の鐘の音が、正午であろう刻を高らかに鳴り響かせた。そしてその鐘が鳴りやんだ時、私を真っ直ぐに指差して、一人の少年が少女のような声で叫んだ。
「ママ、おばけだ、鳥のおばけがいるよ!」
その異国の言葉に、私はにこやかな笑みで応え、ゆっくりと歩きはじめた。この街のどこかで目にするであろう、カレンダーを探して。
(完)
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