一日世界2005年11月26日 22:15

 東の地平線から伸びた白い光が、石灰質の球体を次々と照らし出す。急激な気温の上昇
にその表面は汗ばみ、見る間に乾いていく。
 太陽の頂が見え始めた頃には、球体の表面に無数の亀裂が生じ、はや次の瞬間、内側か
ら蹴られ、あるいは手押されて、その殻は粉々に瓦解する。
 そこには、砕けた卵殻を纏った嬰児が横たわっていた。
 まさぐるように手足を動かし、苦悶の顔で小さな産声を上げる。その声は幾つもの殻の
割れる音にかき消され、また、幾重もの声に反響した。まるで軋み喘ぎながら、大地が太
陽を産み落としているかのように。
 ほどなく嬰児はうつ伏せに寝返り、草地に向かって匍匐し始める。すでに脱ぎ捨てた殻
は微塵に砕け、土に還ろうとしている。
 見よ! 地面に掌と膝を着き、顔を上げて這い進む子どもたちを。
 目を離した隙に、彼らは黒髪がなびくほどに成長してしまった。
 背丈を越す草の海を二本足で泳ぐ。葉に結ばれた朝露を吸い、その裏で太りゆく青虫を
食む。歩行は確かなものになりつつあったが、濡れた下生えに足元をすくわれ、転倒する
者が続出した。出遭い頭に仲間とぶつかる者もいた。草畑の其所此処で、甲高い笑い声が
湧き上がった。
 次第に草から頭を出し、緑野を眼下に眺める頃、裸の子どもたちは聳え立つ巨大な塔を
臨む。それは左に回転する螺旋を成し、空に向かっている。人工の建造物とも自然の堆積
物とも見えるその塔は、すべてが白い石と漆喰で固められていた。
 蜻蛉の塔。かつて世界の中心だった場所。朝に生まれ夕べに死す——そんな束の間の生
を全うしていた人々が暮らした小さな世界。遙か遠い昔の物語である。

                   *

 塔の中腹、穿たれた窓に腰掛け、東の空を行く朝陽を眺める少年と少女の姿があった。
 少年の名はパダム。淡い小麦色の肌に濃い緑の瞳。刻々と厚みを増す胸板は、青年の逞
しさを帯びていく。
 少女の名はマナ。栗色の長い髪に白い肢体。その表情からあどけなさは去り、振り返れ
ば大人の女へと変化している。
「あの光はどこへ行くのだろうね」
 パダムの言葉にマナは少し微笑み、彼の右手に左手を重ねる。塔の中へ駆け込んでくる
風が、二人の髪を絶えず通り抜ける。
「きっと巣に帰っていくのよ。あの黒くて大きな巣に」
 マナは北の彼方を指差した。果てしなく続く森の向こう、なだらかに連なる山脈の辺り
から、真っ黒な雲の波が急激に膨れ上がっていた。

 雨は間もなく降り始めた。太陽は巣の奥深くに潜み、代わりに轟音を引き連れた雷光が
一面を照らし出す。闇を飲んだ雲は水溶する墨のように溢れ出し、空に満ちる。雨に包ま
れた塔は鈍色に変色し、打ち落とされる紫電に震えていた。
 いや、震動の原因は落雷だけではなかった。
 塔の中は、今まさに発情の時を迎えていたのである。
 蟻の巣の如き小部屋が並ぶ回廊を、男女が手を取り合って走り抜けていく。その頬は紅
潮し、男は屹立した陰茎を隠すこともなく、女は股間に湿った音を響かせながら。
 パダムはマナを導き、空いた部屋へ飛び込むと閂を下ろした。そこは白い闇が溜まった
四角い空洞だった。小さく切り取られた灯り取りの窓から雨が吹き込んでいる。
 二人は砂状になった床に寝ころび、抱き合った。本能が声を上げ、肉が解放された。そ
して雄が頂に達した瞬間、部屋は真っ蒼な光に包まれ、激しい地響きが鳴り渡った。
 はじかれるようにマナから離れたパダムは、窓の外を覗き、叫んだ。
「あの光だ!」

 草地に立つ大きな木が、落雷に貫かれて燃えていた。雨に打たれているにも関わらず、
まるで蜜蝋に触れた燐の如く。燃え盛る炎は嵐を煙らせ、佇立する塔を揺らめかせた。
 パダムは塔を飛び出し、燃える木の傍らに駆け寄った。熱せられた蒸気が肌に触れ、瞬
時にはじける。
 陶然と炎に魅入られていた彼の足元に、突然火の塊が転げ落ちた。火の粉の中に見たの
は、足ほどもある枝であった。パダムは未だ烈火を放ち続けるその枝の燃えていない部分
を両手で掴み、空に高々と突き上げた。遠巻きに見ていた人々の間から、地を覆うような
歓声が沸き上がった。

 塔の一階、大きな広間の中央に、火勢衰えぬ木の柱が打ち立てられた。薄暗かった空間
が蒲色に浮かび上がる。成熟した男女がその周りを囲み、静かに言葉を交わす。刻々と揺
れ動く火焔をじっと見つめ、不思議な変化に驚きながら。
 そんな時間が暫く続いた。そのうち男の皮膚に染みが浮き、女の胸が下がり始めた頃、
女たちはいそいそと塔の外へと抜け出す。嵐は収まり、中天を過ぎようとしている太陽が
雲の向こうに見える。塔を出た女たちは、濡れた草むらを抜け、元居た白い砂地に至る。
そして、いくつかの小さな卵を産み、再び塔へと戻っていく。

 午後の時間、人々は思い思いの作業に精を出していた。男たちの半分は、数の足りてい
ない部屋を増設するための工事に励んでいる。残りの半分は、草地を流れる河や森に出か
け、狩りをした。女たちは野で草を摘み、あるいは塔の中、部屋を造る男たちの手伝いを
している。
 マナは塔を離れ、今なお樹上に余炎を抱くあの木のところに来ていた。そして、木の周
りに焼け落ちた枝を拾い集め、塔へと持ち帰った。
 灯火に照らされた広間で、マナは枝をいくつもの細い木片に折り、引き裂いた。その一
つひとつに灯火の炎を分け、小さな灯明を作る。集まってきていた女たちは、その灯りを
それぞれの部屋に運び、片隅の床に突き刺して廻った。
 やがてすべての部屋に灯りが行き渡り、塔は窓々から橙色の光を発し始めた。太陽はす
でに地平線に沈もうとしていた。

 人々の顔には皺が刻まれ、白髪が目立つようになった。外は上弦の朧月に淡く照らされ
た闇だった。その闇が深々と濃くなっていく。老いた人々は広間に集い、ある者は我が住
処へ籠もり、またある者は歩ごと弱りゆく足で塔の周りを散策しながら、番いで語らって
いた。この短い人生を振り返り、小さな思い出に微笑み。
 夜が更ける頃、塔から話し声は消え、火のはぜる音だけが静かに壁に響いていた。時折、
燃え尽きた枝が床に落ちる音と、窓から吹き込む風の声、そしてその風に煽られ、骨が崩
れる音が幽かに舞い、また消えていく。
 世界は一日を閉じた。人々はこの世での生を終え、大地へ、風の中へと還っていった。

 翌朝、塔の扉を開けた少年は、地面の近くで揺れている炎を見て驚いた。その驚きは、
神にでも出くわしたような崇高な衝撃であった。なぜならば、彼が目の当たりにした炎こ
そ、「昨日」というものの存在、そしてそこに生きていた人の存在を直感させたからであ
る。
 生命が受け継がれることを知らず、一日を限りに生から死へと向かうのみのこの世界で、
昨日を知る者は誰一人いなかった。そこに誰かがいた、という生々しい気配は、世界の在
り方を大きく揺さぶった。
 しかし——彼は思った——この感覚は、なんと温かなのだろう、と。優しく、甘く痺れ
るような感触が、胸の奥にしくしくと湧き起こった。それは、見知らぬ世界を夢見る浪漫
ではなく、人から人へと伝わる肌摺れの心地よさであった。
 彼は火の傍らに転がっていた数本の枝を手に取ると、炎の中へ投げ込んだ。炎は少年の
問いかけに答えるように、一際高い火柱を巻き上げた。

 その日、人々は新しい松明の製作に多くの時間を費やした。鋭利な石で木の枝を切断し、
太い枝と細く割いた樹皮を重ね、虫の巣から取り出した蜜を上から注いだ。
 すでに枝一本の勢いになっていた火種を松明に移す。瞬間、炎は屋蓋にまで吹き上がり、
人々の目を眩ませた。火は広間を隅々まで照らし、空気を暖め、活気づかせた。人々は火
を囲み、歌い、踊り、いつしか骨と化して崩れ去った。

 翌日、塔に辿り着いた少女は、煌々と輝く炎を見て知った。ついさっきまで、ここに大
勢の人たちがいたことを。そして暖かな空気に触れ、そこで過ごした人々の息づかいを肌
で感じた。
 少女は思った。先人が残したこの火を受け継ぎたい、と。
 そのとき、人は初めて「明日」の存在を想った。昨日を生きた人が私たちに残してくれ
たものを、私たちは明日を生きる人に残そう、と。
 人々は削った木を蜜蝋に浸して、小さな蝋燭をいくつも作った。それをすべての部屋に
設置し、まだ火を灯さずに広間へと戻った。

 夕闇が世界を覆う頃、塔の広間では賑やかな宴が始まっていた。人々は燃え盛る松明の
周りに集まり、明日という時間、明日という場所、明日を生きる人たちのことを話した。
「明日の人は、私たちよりも体が大きく、力も強くなっているんじゃないか」
「いや、きっと頭が良くなって、いろんな技術を生み出しているはずだ」
「空を飛ぶ方法を手に入れるかもしれない」
「医療や科学が発達し、寿命はもっと永くなっているに違いない」
 誰かが呟く。
「明日の人は、どうやってこの世界に生まれてくるのだろう」
(その日から女たちは、この塔の部屋で卵を産み落とすようになった)
 いつまでも尽きぬ明日の話も、そろそろ終幕の頃合いを迎えた。人々はしずしずと部屋
へと戻っていく。月明かりに淡く照らされた部屋で、蝋燭に火を点す。そして再び明日を
想いながら、静かな風に吹き浚われていく。

 こうして夜毎、灯りの数は増えていった。塔内のみならず、塔の周囲にも松明が据え付
けられた。それはやがて草地へ、その先の森や砂地へも広がっていった。
 世界は日増しに明るさを増していった。無数の光が夜の闇を照らし、暖められた大気は
上昇気流を巻き起こした。その風は草木の種を撒き散らし、異国へと運び去った。
 いつしか灯りは海を越え、火を抱く不思議な木と共に裏側の世界にまで至った。そこで
もやがて炎が瞬き、点々と蝋燭の火が戦ぎ始めた。
 百年。二百年。三百年。
 火はあらゆる世界を覆い尽くし、想いは太い気流となってこの星を駆け巡った。
 千年。二千年。三千年。
 燃焼によって発生した二酸化炭素は、植物を育て、光合成を促進した。大気中の酸素は
次第に濃くなり、徐々に生物の寿命を延ばしていった。
 一万年。
 真夜中の嵐が星を吹き飛ばす瞬間を目撃する者がいた。
 十万年。
 薄れゆく意識の中、夜明けを告げる鳥の声を聴いた者がいた。
 百万年。
 予感めいた東の空を見つめ、卵を抱いたまま朽ちていく者がいた。
 そして黎明。
 透き通った光が、卵に幾筋もの影を刻んだ。その一つが大きくひび割れ、小さな手が差
し出される。その手にひび割れた指が触れる。生まれたばかりの指先は戸惑いながらもそ
の指を握り返す。やっと会えた。やっと会えた。明日の人。我が子に。
 子どもが殻から這い出したときには、白い灰が蜻蛉の如く舞い落ちるばかりだった。

 親子の刹那の邂逅は温かな潮のように人々を包み、そして永遠の別れは熱い涙の河となっ
て大地に刻まれた。体を離れた霊魂は久しくその場に留まり、天界からの光に名残惜しく
吸い込まれていった。
 しかし、人々は灯りを点し続けた。悲しみを懼れず、胸の奥に点った暖かい炎を信じて。
累々たる昨日の屍の上に、連綿と、訥々と、その想いを重ねながら。

「ママ」
「パパ」

 やがて世界のあちらこちらから、母を、父を呼ぶ声が上がり始めた。それはかつてこの
世界に光をもたらした二人の名に違いなかった。パダムとマナの子孫はその子を腕に抱き、
太陽を点したあの枝の温もりを思い出すのだった。そして子どもは安心して眠りにつく。
おやすみ。もう慌てて大人にならなくていいんだよ……

                   *

 午前二時。街の煌めきが夜空を明々と照らしている。鉄とコンクリートのビルディング
に点る色とりどりのネオンサイン。それは蜻蛉の塔と蝋燭の行く末であろうか。
 二四時間消えることのない光は、もはや昨日と今日の境界線を消してしまった。明日は
今日と地続きになり、また明日へと滑らかに繋がっていく。人々は明日を想う気持ちを忘
れ、その先の子どもたちに伝えるべき灯りを見失ってしまった。明日は遙か遠い未来の出
来事となり、そこに生きる人々を想像することさえできなくなった。
 しかし、火はまだ絶えてはいない。
 月の清かな夜、窓を開け、空の向こうを透かしてみるがいい。淡い雲に映えるいくつも
の火影に気づくだろう。
 嵐の朝、風の隙間に耳を澄ましてみるがいい。塔の壁に反響する松明の音が聞こえてく
るはずだ。
 思いがけず触れたやさしさの中に、無邪気に微笑んだ目の奥に、私たちはあの日の炎を
見つけられる。固く繋いだ手と手の間に、再び出会えた歓びの時間に、受け継がれてきた
温もりを感じることができる。
 そう、火は私たちの内側にある。

 目を上げれば、黎明の光が塔を白く照らしている。澄んだ風が街を吹き渡る。人々はま
だ眠りの中。人知れず、一日が始まる。

(完)

(第1回Yahoo!Japan文学賞/ボツ)

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