夢幻 ― 2006年10月22日 16:21
午前0時就寝。
気がつくと、僕は無数の蛙にとり囲まれていた。何千、いや、何万匹という蛙の
群れである。その蛙たちは、恐ろしい顔で僕をにらみつけていた。
「ゲロゲロ ゲロゲロ」
次第に僕との間合いが小さくなってゆく。
「ゲロゲロ ゲロゲロ」
蛙の顔が目の前までせまってきた。
「ゲロゲロ ゲロゲロ」
(もはやこれまで、、、)と、その時、・・・目が覚めた。
「くっそ〜っ、ええとこやったのに・・・」
空腹を感じた僕は、朝食をとるため、ニョロニョロと薮の中へ入っていった・・・。
午前1時3分。
夢の中に神様が現われた。
「ワシは神じゃ。日頃の精進を汲んで、おまえにいいことを教えてやろう。庭に
大きな栗の木があるじゃろ。その根っこを掘ってみるがよい。大判小判がザク
ザク出てくるはずじゃ。では、これからも精進せいよ」
翌朝、目覚めてみると・・・ 夢のことなどすっかり忘れていた、、。
あなたも経験ありませんか? 一日中、何か忘れているような気分の時って。
午前2時10分。
朝、目を覚ますと、田んぼの真ん中に一本足で立っていた。
「なんやコレ? 案山子やんけ。けったいな夢やなぁ。よし、もっぺん眠って、
夢見なおそ」
夢の中で案山子になった僕は、もう一度眠るため目を閉じようとした。が、目は
閉じられなかった。「の」の字の目をカッと見開いた僕は、まばたき一つ出来な
くなっていた。
だから、今でもこうして夢の中で案山子になっているのです。 へ へ
の の
午前2時52分。 も
へ
(あ、これは夢だな・・・)
僕はすぐにわかった。だって、目の前でピンクの象がランバダ踊ってるんだもん。
午前3時7分。
夢の中に神様が現われた。
「ワシは神じゃ。心優しいおまえに、いいことを教えてやろう。明日、おまえが
買おうと思っている宝くじの当選番号じゃ。一度しか言わんからよく聞けよ。
その番号は、33組の、1、0、4、」ジリリリリリリリリリリリ!!!!!
目覚ましに起こされた、、。
その日以来、僕は目覚ましをかけないことにしている。
これが遅刻の理由です。
午前4時25分。
夢の中で、僕は蝶になって飛びまわっていた。飛び疲れて菜の花で眠った僕は、
猫になった夢を見た。春の陽射しが心地よくて、塀の上で眠った僕は、金魚にな
った夢を見た。温みかかった池の底、僕は人間になった夢を見た。
目覚めると、僕は蝶になった飛びまわっていた。
午前5時46分。
ワシが92歳の時のことじゃ。
公園のベンチで一人ウトウトしていると、見知らぬ男が声をかけてきた。
「これこれ、いつまで寝てるんです? そろそろ起きなさいよ」
ワシは驚いて目を覚ました。
「な、なんじゃ? あんたは」
ワシの声が聞こえてないのか、男はなおも私を起こそうとしている。
「起きなさい。時間ですよ」
「ワシはちゃんと起きとるじゃないか、、」
「いいえ。あなたはまだ眠っています。でも、そろそろ起きなきゃいけません。
もう時間です。では、私が起こしてあげましょう」
男はそう言うと、いきなり私の頭をゲンコツで殴った。と、その瞬間、
「オギャ〜〜〜〜っっ」
ボクは産声をあげたんだ。
午前6時31分。
夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢・・・・・・・・・・・・・・
午前7時起床。
(あ、これは夢だな・・・)
僕は再び目覚めるべく、また眠りに入ることにした。無数の足を蠢かせながら。
(了)
気がつくと、僕は無数の蛙にとり囲まれていた。何千、いや、何万匹という蛙の
群れである。その蛙たちは、恐ろしい顔で僕をにらみつけていた。
「ゲロゲロ ゲロゲロ」
次第に僕との間合いが小さくなってゆく。
「ゲロゲロ ゲロゲロ」
蛙の顔が目の前までせまってきた。
「ゲロゲロ ゲロゲロ」
(もはやこれまで、、、)と、その時、・・・目が覚めた。
「くっそ〜っ、ええとこやったのに・・・」
空腹を感じた僕は、朝食をとるため、ニョロニョロと薮の中へ入っていった・・・。
午前1時3分。
夢の中に神様が現われた。
「ワシは神じゃ。日頃の精進を汲んで、おまえにいいことを教えてやろう。庭に
大きな栗の木があるじゃろ。その根っこを掘ってみるがよい。大判小判がザク
ザク出てくるはずじゃ。では、これからも精進せいよ」
翌朝、目覚めてみると・・・ 夢のことなどすっかり忘れていた、、。
あなたも経験ありませんか? 一日中、何か忘れているような気分の時って。
午前2時10分。
朝、目を覚ますと、田んぼの真ん中に一本足で立っていた。
「なんやコレ? 案山子やんけ。けったいな夢やなぁ。よし、もっぺん眠って、
夢見なおそ」
夢の中で案山子になった僕は、もう一度眠るため目を閉じようとした。が、目は
閉じられなかった。「の」の字の目をカッと見開いた僕は、まばたき一つ出来な
くなっていた。
だから、今でもこうして夢の中で案山子になっているのです。 へ へ
の の
午前2時52分。 も
へ
(あ、これは夢だな・・・)
僕はすぐにわかった。だって、目の前でピンクの象がランバダ踊ってるんだもん。
午前3時7分。
夢の中に神様が現われた。
「ワシは神じゃ。心優しいおまえに、いいことを教えてやろう。明日、おまえが
買おうと思っている宝くじの当選番号じゃ。一度しか言わんからよく聞けよ。
その番号は、33組の、1、0、4、」ジリリリリリリリリリリリ!!!!!
目覚ましに起こされた、、。
その日以来、僕は目覚ましをかけないことにしている。
これが遅刻の理由です。
午前4時25分。
夢の中で、僕は蝶になって飛びまわっていた。飛び疲れて菜の花で眠った僕は、
猫になった夢を見た。春の陽射しが心地よくて、塀の上で眠った僕は、金魚にな
った夢を見た。温みかかった池の底、僕は人間になった夢を見た。
目覚めると、僕は蝶になった飛びまわっていた。
午前5時46分。
ワシが92歳の時のことじゃ。
公園のベンチで一人ウトウトしていると、見知らぬ男が声をかけてきた。
「これこれ、いつまで寝てるんです? そろそろ起きなさいよ」
ワシは驚いて目を覚ました。
「な、なんじゃ? あんたは」
ワシの声が聞こえてないのか、男はなおも私を起こそうとしている。
「起きなさい。時間ですよ」
「ワシはちゃんと起きとるじゃないか、、」
「いいえ。あなたはまだ眠っています。でも、そろそろ起きなきゃいけません。
もう時間です。では、私が起こしてあげましょう」
男はそう言うと、いきなり私の頭をゲンコツで殴った。と、その瞬間、
「オギャ〜〜〜〜っっ」
ボクは産声をあげたんだ。
午前6時31分。
夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢・・・・・・・・・・・・・・
午前7時起床。
(あ、これは夢だな・・・)
僕は再び目覚めるべく、また眠りに入ることにした。無数の足を蠢かせながら。
(了)
学習 ― 2006年10月22日 16:16
まず、地面に垂直方向に向かう線分aa'をひく。長さは任意で構わないが、心
持ち短めにしておいたほうが後々都合が良いだろう。なお、ここに示す線分の筆記
方法は、上→下、左→右、前者→後者を基本的に優位な方向として説明していく。
次に、線分aa'に垂直(地面に対して平行)でa'点を中点として持つ線分bb'
をひく。長さはaa'をAとした場合、bb'は1.8Aとなるように。
そして次であるが、まず、b'点から、線分bb'に対して上方27度の角を成し、
5.7Aの長さを持つ線分b'oを考え(筆記しないこと)、o点を確定する。そして、
oを中心とし、b'oを弦(直径)とする円弧を、時計回りに中心角25度分ひく。こ
の円弧をb'b''とし、線分aa'の延長との交点をa''とする。
次に、a''を起点にb'を通る直線を考え、その延長線上でa''からの長さが5.7
Aとなる点o'を確定する。そしてo'を中心とし、a''o'を弦(直径)とする円弧
を、反時計回りに中心角12.5度分ひく。この円弧をa''cとする。この時、架空線
a''o'とb'oがb'点で垂直に交わっていることを確認するように。
次。a''点を起点として線分aa'の延長線を下方に2.5A分ひき下ろす。その線
分をa''a'''とする。
さて、次に、a点を起点に右方向へ2.5A分伸びる線分aa'との垂直線adを考
え、d点を確定する。そしてd点から直線adに対して垂直に、線分aa'''と同
じ長さの線分deをひき下ろす。さらに、d点から0.9A、1.9A、3.0Aの距離と
なる線分de上の点を、それぞれd'、d''、d'''とする。
そして、このd'、d''、d'''をそれぞれ中点とし、線分deと垂直(地面と平
行)で2.0Aの長さを持つ線分ff'、gg'、hh'を一気にひく。
最後に、fとh、f'とh'を結ぶ線分をゆっくり、力強くひく。
これで形は出来上がりである。今日はここまで。次の国語の時間には、この文字
の「書き順」をお勉強するので、よく復習しておくように。
(了)
持ち短めにしておいたほうが後々都合が良いだろう。なお、ここに示す線分の筆記
方法は、上→下、左→右、前者→後者を基本的に優位な方向として説明していく。
次に、線分aa'に垂直(地面に対して平行)でa'点を中点として持つ線分bb'
をひく。長さはaa'をAとした場合、bb'は1.8Aとなるように。
そして次であるが、まず、b'点から、線分bb'に対して上方27度の角を成し、
5.7Aの長さを持つ線分b'oを考え(筆記しないこと)、o点を確定する。そして、
oを中心とし、b'oを弦(直径)とする円弧を、時計回りに中心角25度分ひく。こ
の円弧をb'b''とし、線分aa'の延長との交点をa''とする。
次に、a''を起点にb'を通る直線を考え、その延長線上でa''からの長さが5.7
Aとなる点o'を確定する。そしてo'を中心とし、a''o'を弦(直径)とする円弧
を、反時計回りに中心角12.5度分ひく。この円弧をa''cとする。この時、架空線
a''o'とb'oがb'点で垂直に交わっていることを確認するように。
次。a''点を起点として線分aa'の延長線を下方に2.5A分ひき下ろす。その線
分をa''a'''とする。
さて、次に、a点を起点に右方向へ2.5A分伸びる線分aa'との垂直線adを考
え、d点を確定する。そしてd点から直線adに対して垂直に、線分aa'''と同
じ長さの線分deをひき下ろす。さらに、d点から0.9A、1.9A、3.0Aの距離と
なる線分de上の点を、それぞれd'、d''、d'''とする。
そして、このd'、d''、d'''をそれぞれ中点とし、線分deと垂直(地面と平
行)で2.0Aの長さを持つ線分ff'、gg'、hh'を一気にひく。
最後に、fとh、f'とh'を結ぶ線分をゆっくり、力強くひく。
これで形は出来上がりである。今日はここまで。次の国語の時間には、この文字
の「書き順」をお勉強するので、よく復習しておくように。
(了)
星降る夜の物語 ― 2006年09月23日 01:51
8月一週目の土日、法事を兼ねて一泊旅行に出掛けてきました。
兵庫県豊岡市にて法事を済ませた総勢12名の旅の一行は、車3台を連ねて宿泊地である天橋立(京都府宮津市)へ。海水浴場まで車で15分ほどの場所にある宿舎へと向かいました。
海水浴場まで車で15分。そう聞くとなんだか「ほんのりと潮の香り漂う静かな海辺の宿」をイメージしますが、現実の宿は山の中にありました。しかも山頂付近。車一台がギリギリ通れなさそうな幅の山道をぐりぐりと登り詰めて辿り着いたその宿は、まさに林間学校に利用されそうな「施設」でした。(実際、林間学校生が泊まっていました)
当初は「民宿」だと聞いていたので、そのイメージとのギャップに戸惑いました。僕の予定は「ひなびた宿で風呂上がりに浴衣をはおり、降るような星空を肴に地酒をあおる」というものだったのですが、その建物風情を見ただけで、その夢は儚くも砕けてしまいました。「人の夢」と書いて「儚い」と読む、「手」で「出す」と書いて「拙い」と読む。
気を取り直して施設内に入り、12名が寝泊まりする二部屋続きの間の襖を開けました。
すると、……何かが飛んでいました。飛び交っていました。飛びまくっていました。
「うわ! 虻や!」
虻でした。危険な黒い弾丸、それは虻。
部屋中に子供達(計6名/1歳児含む)の絶叫が響き渡りました。都会の子供は虫が苦手なのです。
その喧噪を鎮めるべく、大人達はキンチョールと蝿叩きを手に頑張りました。田舎の虫は殺虫剤が苦手なようで、吹き付けるとコロリと床に落っこちました。(その落っこちた虻を“吹いて”窓外に追い出していたのはウチの嫁さんです)
しかし、開け放たれた襖からは止めどなく新たな虻が入り込み、人と虫との闘いは延々と続きました。
こりゃ埒があかんとゆーことで、とりあえず襖と窓を閉め切ることにしまそしたらもう暑いのなんのって。部屋には扇風機があるだけで、クーラーは設置されていなかったのです。
じきに日が落ちて涼しくなるだろうとの判断で、結局襖は閉ざされたままになりましいやほんと暑いのよここ山なのになんで!?
やがて夏の陽は静かに山の端へと沈み行き、この暑苦しい山の宿にも夜のとばりが下りました。
ふと見上げれば、そこは満天の星空。懐中電灯の光はどこまでも高く真っ直ぐに夜空を突き抜け、流れ星がその光をかすめては消えていきます。
と書きたいところですが、実は曇ってて一滴の星も望めませんでした。昼間はあれだけピーカンだったのに。山の天気は変わりやすいのです。
星空を肴にするというアテは外れましたが、缶ビールはなんとか自販機でゲット。風呂上がり、襖の外の縁側みたいなところで、大人組の静かな宴会が始まりました。
と思ったら、なにやらバタバタと羽ばたく生物が外の闇から施設の中へ飛び込んできました。
……蛾、でした。その蛾のデカいことデカいこと。羽渡り30cmはあろうかとゆーそのモスラ成虫は、羽音もケバケバしく、遠近不明なあの飛び方で施設内を一巡した後、天井の太い梁にとまりました。
巨大蛾への刺激を恐れた大人達は早々に宴席を退き、午後10時半とゆー宵の口にして就寝となりました。
そして午前4時。寝苦しさに目覚めました。暑い。暑いのです。全身にじっとりと汗の膜ができています。「山の夜、寒いほどの冷え込み」のイメージはどこへ行ってしまったのでしょう? おまけにビールを飲んですぐに床に入ったので、おしっこに行きたくなってきました。でも部屋の外にはあの蛾が、そして虻が、いや、ゴキブリやらゲジゲジやら巨大蜘蛛、足が8本もあるコオロギ、双頭のヘビなんかが暗躍闊歩、百虫夜行しているに違いありません。僕は襖を開く勇気もなく、冷や汗ともつかぬ粘っこい汗にまみれながら、まんじりと夜を過ごしたのでした。
海辺の町。木々に囲まれた静かな宿。澄んだ空気。降るような星空。肌寒いほどの山の夜……。なにごとも最初はイメージによって認識され、その現実との比較によって判断されます。私たちが生業としている「コピー」なんてものもイメージの造形に一役買っているわけですが、できれば現実との齟齬がないようなものが書きたいですね。
と、無理矢理にコピーの話題を挿入したところで、ようやく長い夜が明けました。よし、今日は気分一新、日本海で海水浴だ! はやる気持ちでカーテンの隙間から外を見ると、……雨が降っていました。
現実には現実の齟齬があるようです。
その後、朝方の雨がウソのように晴れ上がり、照りつける日差しの下で海水浴。日焼けどめをしっかりと塗りたくったにもかかわらず、気がつけば体は真っ赤っか。帰路は渋滞に巻き込まれ、5時間の長時間運転の末、ようやく帰宅。心身ともにぐったりとしている僕につきつけられたのは、「明日からまた会社」という現実。
まさに「泣きっ面に虻」な夏の旅でしたとさ。
01/08/09
兵庫県豊岡市にて法事を済ませた総勢12名の旅の一行は、車3台を連ねて宿泊地である天橋立(京都府宮津市)へ。海水浴場まで車で15分ほどの場所にある宿舎へと向かいました。
海水浴場まで車で15分。そう聞くとなんだか「ほんのりと潮の香り漂う静かな海辺の宿」をイメージしますが、現実の宿は山の中にありました。しかも山頂付近。車一台がギリギリ通れなさそうな幅の山道をぐりぐりと登り詰めて辿り着いたその宿は、まさに林間学校に利用されそうな「施設」でした。(実際、林間学校生が泊まっていました)
当初は「民宿」だと聞いていたので、そのイメージとのギャップに戸惑いました。僕の予定は「ひなびた宿で風呂上がりに浴衣をはおり、降るような星空を肴に地酒をあおる」というものだったのですが、その建物風情を見ただけで、その夢は儚くも砕けてしまいました。「人の夢」と書いて「儚い」と読む、「手」で「出す」と書いて「拙い」と読む。
気を取り直して施設内に入り、12名が寝泊まりする二部屋続きの間の襖を開けました。
すると、……何かが飛んでいました。飛び交っていました。飛びまくっていました。
「うわ! 虻や!」
虻でした。危険な黒い弾丸、それは虻。
部屋中に子供達(計6名/1歳児含む)の絶叫が響き渡りました。都会の子供は虫が苦手なのです。
その喧噪を鎮めるべく、大人達はキンチョールと蝿叩きを手に頑張りました。田舎の虫は殺虫剤が苦手なようで、吹き付けるとコロリと床に落っこちました。(その落っこちた虻を“吹いて”窓外に追い出していたのはウチの嫁さんです)
しかし、開け放たれた襖からは止めどなく新たな虻が入り込み、人と虫との闘いは延々と続きました。
こりゃ埒があかんとゆーことで、とりあえず襖と窓を閉め切ることにしまそしたらもう暑いのなんのって。部屋には扇風機があるだけで、クーラーは設置されていなかったのです。
じきに日が落ちて涼しくなるだろうとの判断で、結局襖は閉ざされたままになりましいやほんと暑いのよここ山なのになんで!?
やがて夏の陽は静かに山の端へと沈み行き、この暑苦しい山の宿にも夜のとばりが下りました。
ふと見上げれば、そこは満天の星空。懐中電灯の光はどこまでも高く真っ直ぐに夜空を突き抜け、流れ星がその光をかすめては消えていきます。
と書きたいところですが、実は曇ってて一滴の星も望めませんでした。昼間はあれだけピーカンだったのに。山の天気は変わりやすいのです。
星空を肴にするというアテは外れましたが、缶ビールはなんとか自販機でゲット。風呂上がり、襖の外の縁側みたいなところで、大人組の静かな宴会が始まりました。
と思ったら、なにやらバタバタと羽ばたく生物が外の闇から施設の中へ飛び込んできました。
……蛾、でした。その蛾のデカいことデカいこと。羽渡り30cmはあろうかとゆーそのモスラ成虫は、羽音もケバケバしく、遠近不明なあの飛び方で施設内を一巡した後、天井の太い梁にとまりました。
巨大蛾への刺激を恐れた大人達は早々に宴席を退き、午後10時半とゆー宵の口にして就寝となりました。
そして午前4時。寝苦しさに目覚めました。暑い。暑いのです。全身にじっとりと汗の膜ができています。「山の夜、寒いほどの冷え込み」のイメージはどこへ行ってしまったのでしょう? おまけにビールを飲んですぐに床に入ったので、おしっこに行きたくなってきました。でも部屋の外にはあの蛾が、そして虻が、いや、ゴキブリやらゲジゲジやら巨大蜘蛛、足が8本もあるコオロギ、双頭のヘビなんかが暗躍闊歩、百虫夜行しているに違いありません。僕は襖を開く勇気もなく、冷や汗ともつかぬ粘っこい汗にまみれながら、まんじりと夜を過ごしたのでした。
海辺の町。木々に囲まれた静かな宿。澄んだ空気。降るような星空。肌寒いほどの山の夜……。なにごとも最初はイメージによって認識され、その現実との比較によって判断されます。私たちが生業としている「コピー」なんてものもイメージの造形に一役買っているわけですが、できれば現実との齟齬がないようなものが書きたいですね。
と、無理矢理にコピーの話題を挿入したところで、ようやく長い夜が明けました。よし、今日は気分一新、日本海で海水浴だ! はやる気持ちでカーテンの隙間から外を見ると、……雨が降っていました。
現実には現実の齟齬があるようです。
その後、朝方の雨がウソのように晴れ上がり、照りつける日差しの下で海水浴。日焼けどめをしっかりと塗りたくったにもかかわらず、気がつけば体は真っ赤っか。帰路は渋滞に巻き込まれ、5時間の長時間運転の末、ようやく帰宅。心身ともにぐったりとしている僕につきつけられたのは、「明日からまた会社」という現実。
まさに「泣きっ面に虻」な夏の旅でしたとさ。
01/08/09
THE TOMITA PLANETS ― 2006年09月23日 01:49
今、僕の両耳はVictor製のヘッドフォンに覆われている。流れているのは、ホルスト作曲の組曲「惑星」。いや、正確には「THE TOMITA PLANETS」——そう、シンセサイザー奏者・富田勲氏の「惑星」(1976作品)である。
今やオーケストラによる「惑星」よりも、この富田氏によるシンセ版「惑星」を耳にしたことのある方のほうが多いのではないだろうか。25年前の作品にもかかわらず、現在でもCMやテレビ番組のSEによく使われている、ということもある。僕自身、「惑星」という組曲を知ったのは、中学の音楽の授業の時、富田勲氏のそれであった。(ちなみにその時、あまりの斬新さに感動してLPを買いました)
逆に、オーケストラ演奏の「惑星」を僕は聴いたことがない。遠い昔にFMラジオで耳にしたような気もするのだが、そのイメージはすでに忘れ去られている。つまり、僕の中では、惑星=富田勲なのである。
1934年に世を去った作曲家ホルストは、その遺言で、この曲の一切の編曲を死後100年にわたって禁止したそうだ。オケバージョンを聴いたことのない僕にとって、それがどのような意味を持つのかは判断しかねる。が、確かなことは、ホルストが「惑星」という楽曲のコンセプトを完璧に具現化し、そのコンセプトをカタチとして伝えようとしたことである。
しかし、ホルストが完璧に現前させたコンセプトは、新たなアプローチによってまったく新しい「別物」に生まれ変わった。唯一絶対の表現法は、同じ名前を持つ別人によって切り崩されたのである。
時代性、ということもあろう。シンセサイザーという「技術」が、ホルストの描こうとしていた世界をより忠実に再現できた、とも言える。映画「スターウォーズ」が最新CGを用いてリメイクされたように、映画「親指スターウォーズ」が最新指技術によって完成されたようにいやこれは違うぞ。
だが、技術は単なる手段の提供に過ぎない。富田勲の楽曲が優れているのは、単にシンセサイザーという新しい技術を用いた点ではなく、そのコンセプトから紡ぎ出されるイメージを音へと落とし込んだ「アイデア」という部分にある。
ホルストが思い描いたコンセプトに、斬新なアイデアと革新的な技術でアプローチしたもの——それが「THE TOMITA PLANETS」である。ちなみに、グリコが思い描いたコンセプトに、5種類の野菜のスパイシーブレンドでアプローチしたもの——それが「THE TOMATO PRETZ」である。
さて、今回は「組曲『惑星』に学ぶコピーアプローチ」という演題で話を進めてい(ないない)るわけであるが、あまり時間もないので結論から申し上げよう。
結論:そのコンセプトは、多様なコピーで表現できる。
大切なのは、コンセプトをカタチにするためのアイデアである。
世の中には「名コピー」と呼ばれるものがたくさんあるが、僕たちはその言葉尻に囚われてはいけない。学ぶべき部分は、言葉という表層ではなく、その核たるコンセプトとマントルの如きアイデアである。「好きなコピーはなんですか?」と尋ねられた時、僕たちは単に表層として現れた言葉を口にするのではなく、「このコンセプトをこんなアイデアでこのようなコピーに落とし込んだこと」まで答えなければならない。(超理想論)
とは言うものの、なーんにも考えずにただ耳に受け入れているTHE TOMITA PLANETSは心地よい。血が熱く騒いだり、鳥肌が立ったり、涙腺が弛みそうになることもある。理屈ではなく、感じるままが素晴らしい。これぞまさしく「名コピー」なのである。
01/07/29
今やオーケストラによる「惑星」よりも、この富田氏によるシンセ版「惑星」を耳にしたことのある方のほうが多いのではないだろうか。25年前の作品にもかかわらず、現在でもCMやテレビ番組のSEによく使われている、ということもある。僕自身、「惑星」という組曲を知ったのは、中学の音楽の授業の時、富田勲氏のそれであった。(ちなみにその時、あまりの斬新さに感動してLPを買いました)
逆に、オーケストラ演奏の「惑星」を僕は聴いたことがない。遠い昔にFMラジオで耳にしたような気もするのだが、そのイメージはすでに忘れ去られている。つまり、僕の中では、惑星=富田勲なのである。
1934年に世を去った作曲家ホルストは、その遺言で、この曲の一切の編曲を死後100年にわたって禁止したそうだ。オケバージョンを聴いたことのない僕にとって、それがどのような意味を持つのかは判断しかねる。が、確かなことは、ホルストが「惑星」という楽曲のコンセプトを完璧に具現化し、そのコンセプトをカタチとして伝えようとしたことである。
しかし、ホルストが完璧に現前させたコンセプトは、新たなアプローチによってまったく新しい「別物」に生まれ変わった。唯一絶対の表現法は、同じ名前を持つ別人によって切り崩されたのである。
時代性、ということもあろう。シンセサイザーという「技術」が、ホルストの描こうとしていた世界をより忠実に再現できた、とも言える。映画「スターウォーズ」が最新CGを用いてリメイクされたように、映画「親指スターウォーズ」が最新指技術によって完成されたようにいやこれは違うぞ。
だが、技術は単なる手段の提供に過ぎない。富田勲の楽曲が優れているのは、単にシンセサイザーという新しい技術を用いた点ではなく、そのコンセプトから紡ぎ出されるイメージを音へと落とし込んだ「アイデア」という部分にある。
ホルストが思い描いたコンセプトに、斬新なアイデアと革新的な技術でアプローチしたもの——それが「THE TOMITA PLANETS」である。ちなみに、グリコが思い描いたコンセプトに、5種類の野菜のスパイシーブレンドでアプローチしたもの——それが「THE TOMATO PRETZ」である。
さて、今回は「組曲『惑星』に学ぶコピーアプローチ」という演題で話を進めてい(ないない)るわけであるが、あまり時間もないので結論から申し上げよう。
結論:そのコンセプトは、多様なコピーで表現できる。
大切なのは、コンセプトをカタチにするためのアイデアである。
世の中には「名コピー」と呼ばれるものがたくさんあるが、僕たちはその言葉尻に囚われてはいけない。学ぶべき部分は、言葉という表層ではなく、その核たるコンセプトとマントルの如きアイデアである。「好きなコピーはなんですか?」と尋ねられた時、僕たちは単に表層として現れた言葉を口にするのではなく、「このコンセプトをこんなアイデアでこのようなコピーに落とし込んだこと」まで答えなければならない。(超理想論)
とは言うものの、なーんにも考えずにただ耳に受け入れているTHE TOMITA PLANETSは心地よい。血が熱く騒いだり、鳥肌が立ったり、涙腺が弛みそうになることもある。理屈ではなく、感じるままが素晴らしい。これぞまさしく「名コピー」なのである。
01/07/29
胃話感 ― 2006年09月23日 01:46
その朝の目覚ましは「胃痛」だった。午前4時半。江戸時代なら寅正刻、時そば風なら五つ刻、ニューヨークは前日の15時半である。ちなみに人類最古の時計は日時計で、紀元前5000年頃のエジプトではすでに日時計が使用されていたらしい……とかなんとか関係ないことを考えて胃から気を逸らせてみるのだが、まったく効き目なし。居間のソファにへたり込み、冷や汗を流しながら、思わず救急車を呼んじゃいそうな痛みに耐えるしかなかった。
胃の夏バテ。それが医者の診断である。毎年、夏場に胃が弱る時期があるのだが、こんなにひどいのは初めてだ。初めてだから痛かった。そんな感じなのね。
こわれて初めてその大切さを知る。よくあることだ。失敗の積み重ねが歴史をつくる。忘れがちだが確かにそう。働けど働けど我が暮らし楽にならざり。じっと手を見ている場合ではない。とにかく世の中、「結果を見て初めてわかる」という要素で充ち満ちている。
大切なのは、完全にこわれる前に、取り返しのつかぬ失敗を招く前に、結果を予想し、予防することである……てなことはよく言われる。が、結果を予想する、というのはなかなかにむずかしいことでもある。なぜなら人は、それぞれの経験を下敷きとした「思い込み」で生きているからだ。
例えば今回の僕の場合、「夏場に胃が弱る」ことは知っていたが、それが激しい胃痛を伴うほどひどくなるとは知らなかった。つまり、これまでの経験値をMAXのものとして認識していたのである。しかし、上には上があったのだ。
上には上がある。それもイメージでは理解できるだろう。が、「わかっちゃいるけど、わからない」のが現実である。地球環境の破壊が、人類の滅亡を導く。わかりやすい例である。
こんな物言いをすると「おまえは経験論者か」と言われそうだが、そうではない。経験は「思い込み」でしかない、と数行前に断言しちゃってることからも、僕が経験論者でないことはわかっていただけるだろう。確かに、初体験の話なんかは嫌いじゃないし、ラウラ・アントネッリに憧れた時期もあったし、「ひと夏の」なんて言葉を聞くと今でもちょっとドキドキしてしまったりもするのだが、それを経験論者と呼ぶのはどうだろう?(もうええっちゅうに)
経験は大切だ。それは否定しないし、むしろ経験しないよりしたほうがいいに決まってるとも思っている(経験論者やん)。いや、そうじゃなくて、経験は大切だがそれだけじゃもの足りない、って言ってるんだ(初めて言うたゆーねん)。
では、経験に何をプラスすればもの足りるのか? それはご想像のとおり「想像力」である。経験+想像力。おや? となると、数行前に言った「結果を予想するのはむずかしい」という表現と矛盾してこないか?
ここで言う「想像力」とは、ナニも最終結果のみを想像(予想)することではない。あくまでも現実の少し先を見据える、という意味の想像である。「モアモア理論」というものをご存じだろうか? 今僕が勝手に考えたものだから、ご存じない方が多いかもしれない。これはすなわち、「ちょっと先(more)を考えることが、より良き(more)明日を拓く」という理論である。ポイントはmore——つまり現実をほんの少し補強する、もしくは裏切ってやるような想像力なのだ。
さて、なんの話だったか? そうそう、夏場は胃腸の調子を崩しやすいって話をして、それから……
どうやら僕の場合、少し先を見据える前に、少し前を忘れない努力をする必要がありそうである。
なんだか胃がモヤモヤしてきたので、無理矢理にしめてみましたっ、と。
01/07/08
胃の夏バテ。それが医者の診断である。毎年、夏場に胃が弱る時期があるのだが、こんなにひどいのは初めてだ。初めてだから痛かった。そんな感じなのね。
こわれて初めてその大切さを知る。よくあることだ。失敗の積み重ねが歴史をつくる。忘れがちだが確かにそう。働けど働けど我が暮らし楽にならざり。じっと手を見ている場合ではない。とにかく世の中、「結果を見て初めてわかる」という要素で充ち満ちている。
大切なのは、完全にこわれる前に、取り返しのつかぬ失敗を招く前に、結果を予想し、予防することである……てなことはよく言われる。が、結果を予想する、というのはなかなかにむずかしいことでもある。なぜなら人は、それぞれの経験を下敷きとした「思い込み」で生きているからだ。
例えば今回の僕の場合、「夏場に胃が弱る」ことは知っていたが、それが激しい胃痛を伴うほどひどくなるとは知らなかった。つまり、これまでの経験値をMAXのものとして認識していたのである。しかし、上には上があったのだ。
上には上がある。それもイメージでは理解できるだろう。が、「わかっちゃいるけど、わからない」のが現実である。地球環境の破壊が、人類の滅亡を導く。わかりやすい例である。
こんな物言いをすると「おまえは経験論者か」と言われそうだが、そうではない。経験は「思い込み」でしかない、と数行前に断言しちゃってることからも、僕が経験論者でないことはわかっていただけるだろう。確かに、初体験の話なんかは嫌いじゃないし、ラウラ・アントネッリに憧れた時期もあったし、「ひと夏の」なんて言葉を聞くと今でもちょっとドキドキしてしまったりもするのだが、それを経験論者と呼ぶのはどうだろう?(もうええっちゅうに)
経験は大切だ。それは否定しないし、むしろ経験しないよりしたほうがいいに決まってるとも思っている(経験論者やん)。いや、そうじゃなくて、経験は大切だがそれだけじゃもの足りない、って言ってるんだ(初めて言うたゆーねん)。
では、経験に何をプラスすればもの足りるのか? それはご想像のとおり「想像力」である。経験+想像力。おや? となると、数行前に言った「結果を予想するのはむずかしい」という表現と矛盾してこないか?
ここで言う「想像力」とは、ナニも最終結果のみを想像(予想)することではない。あくまでも現実の少し先を見据える、という意味の想像である。「モアモア理論」というものをご存じだろうか? 今僕が勝手に考えたものだから、ご存じない方が多いかもしれない。これはすなわち、「ちょっと先(more)を考えることが、より良き(more)明日を拓く」という理論である。ポイントはmore——つまり現実をほんの少し補強する、もしくは裏切ってやるような想像力なのだ。
さて、なんの話だったか? そうそう、夏場は胃腸の調子を崩しやすいって話をして、それから……
どうやら僕の場合、少し先を見据える前に、少し前を忘れない努力をする必要がありそうである。
なんだか胃がモヤモヤしてきたので、無理矢理にしめてみましたっ、と。
01/07/08
だいじょうぶマイ・ブーム ― 2006年09月23日 01:44
タイトルで思い出したが、映画『だいじょうぶマイ・フレンド』は全然だいじょうぶじゃなかったぞ。ピーター・フォンダもだいじょうぶじゃなかったし、ピーター・フォンダにあんなことをさせてしまう日本映画もだいじょうぶじゃなかった。しかし、誰もが「だいじょうぶかいな」と危ぶんでいるにもかかわらず、それを出所の知れぬ自信でもって「だいじょうぶ」と言い切られてしまうと、こちらもなんとなく「だいじょうぶ……よね」と思い直してしまったりする。ここで「だいじょうぶの幅」が拡がったわけだ。
出足から横道に逸れてしまった。細川たかし「北酒場」を「♪西の〜」と唄い出してしまったようなものである(なんてもっちゃりした喩えなんだ、、)。再び進行方向を変える前に、とりあえずスタート地点に戻ろう。
最近、僕の中で流行っていること。それは「耳コピ」である。
耳コピ。ご存じない方のために説明しよう。耳コピとは、「耳で聴いてコピーする」の略で、楽曲の構成音を耳で拾う作業を意味する。具体的には、手には楽器、耳にはヘッドフォンという体勢で、曲の一部分を繰り返し繰り返し聴きながら、その音を手にした楽器で探していく、というものだ。
僕の場合、「ある曲のベースラインを拾う」ということをしているわけだが、これがなかなか骨の折れる作業なのである。
ベースは他の楽器に比べてコード(和音)を使用することが少なく、ほぼ「単音」を探っていけばいい。しかし、曲のボトムを支えるベース音はバリバリと前面に出ることも少なく、数多の音に押しやられがちなその音を拾い上げるには、深く耳を澄ます必要がある。
ヘッドフォンをつけ、巨大なヴォリュームで曲の一部分——ほんの数小節を幾度となく繰り返し(そして集中しながら)聴いていると、そのうちトランスしてくる。♪ンベベムボボンベと聞こえていた音が、そのうち♪ボボンビブババベと聞こえだし、さらには♪バロンビルビブランベルボと音数まで変わりだす。耳を澄まし集中すればするほど、脳は聞こえてもいない音まで拾おうとする。耳は北へ向かう音を北北西の音にすり替える。
こうなってくると、果てしなく疑惑的な音の森から抜け出ることはできない。その蠱惑に満ちた世界を後にするには、無理矢理にでも目覚める他はない。つまり、「開き直る」のである。
もそもそ……あ、ごめん……そもそも、「完璧にコピーする」こと自体が、僕の耳と腕前と音楽知識からして無理なのである。正確なポジション(弦楽器の場合、違う弦にも同じ音がある)なんて演奏者本人にしかわからないし、どの弦の音かまで追求していたらキリがない。「こんな感じに聞こえる」ぐらいまで拾えれば十分なのである。大切なのは、「とりあえず一曲通してコピーする」ことなのだ。一部分にこだわって前に進めなければ、音楽は楽しめない。もそもそ…… あ、ごめん……そもそも、なぜその曲を耳コピしようと思ったのか? それは「その曲を弾いてみたい」という気持ちからはじまったはずである。曲を曲として楽しみ、そのパートとして参加したい——そんな想い。いわばコンセプト。細部にこだわり過ぎると、どんどんコンセプトから逸れていってしまう。逆に、その曲が呼吸しているコンセプトを拾い上げられれば、それで十分、成功しているのであり、それでこそ曲全体が楽しめるのである。もっと単刀直入、ショッキングに言い切ってしまおう。細部にこだわったあなたのフレーズなど、ほとんどのオーディエンスは「聴いちゃいない」のである。
さて、ここで無理矢理なコピーつながりで、広告コピーの話に結びつけることにする。
広告コピー。それも結局は、全体の中のいちパートに過ぎない。いかに細部にこだわり、ギミック/レトリックに凝ったとて、それが広告/販促コンセプトから逸脱していては無意味な文字の羅列でしかない。大切なのは、全体としてそのコピーがマッチングし、全体としてその広告(販促物)が「楽しんでもらえる」か、である。オーディエンスにコンセプトを伝えるためには、「全体」をいかに伝えるかを考える必要があり、全体を伝えるためには自らが全体を「楽しむ」必要がある。そしてそれは、「こだわり」と「開き直り」を根底に抱えているものであること。
はてさて、「耳コピ」から「広告コピー」の話へと突き進んだ今回の不定記であるが、実は内容が横道に逸れっぱなしであることをほとんどの人は気づいていないだろう。そう、今回のタイトルは「だいじょうぶマイ・ブーム」。にもかかわらず、ほとんどマイ・ブームについて語ってはいない。これは全然「だいじょうぶじゃない」のである。
が、やはり僕たちは開き直ってしまおう。伝えるべきことは伝えられたはずだから。そう、今回のコンセプトは「マイ・ブーム」などではない。オーディエンスに対して「だいじょうぷ」ということさえ伝えられれば、この不定記は成功なのである。「ならタイトル変えろよ」という声もあるだろうが、だいじょうぶ、僕だけでなく誰もそんなことは気にしてませんから。
01/06/28
出足から横道に逸れてしまった。細川たかし「北酒場」を「♪西の〜」と唄い出してしまったようなものである(なんてもっちゃりした喩えなんだ、、)。再び進行方向を変える前に、とりあえずスタート地点に戻ろう。
最近、僕の中で流行っていること。それは「耳コピ」である。
耳コピ。ご存じない方のために説明しよう。耳コピとは、「耳で聴いてコピーする」の略で、楽曲の構成音を耳で拾う作業を意味する。具体的には、手には楽器、耳にはヘッドフォンという体勢で、曲の一部分を繰り返し繰り返し聴きながら、その音を手にした楽器で探していく、というものだ。
僕の場合、「ある曲のベースラインを拾う」ということをしているわけだが、これがなかなか骨の折れる作業なのである。
ベースは他の楽器に比べてコード(和音)を使用することが少なく、ほぼ「単音」を探っていけばいい。しかし、曲のボトムを支えるベース音はバリバリと前面に出ることも少なく、数多の音に押しやられがちなその音を拾い上げるには、深く耳を澄ます必要がある。
ヘッドフォンをつけ、巨大なヴォリュームで曲の一部分——ほんの数小節を幾度となく繰り返し(そして集中しながら)聴いていると、そのうちトランスしてくる。♪ンベベムボボンベと聞こえていた音が、そのうち♪ボボンビブババベと聞こえだし、さらには♪バロンビルビブランベルボと音数まで変わりだす。耳を澄まし集中すればするほど、脳は聞こえてもいない音まで拾おうとする。耳は北へ向かう音を北北西の音にすり替える。
こうなってくると、果てしなく疑惑的な音の森から抜け出ることはできない。その蠱惑に満ちた世界を後にするには、無理矢理にでも目覚める他はない。つまり、「開き直る」のである。
もそもそ……あ、ごめん……そもそも、「完璧にコピーする」こと自体が、僕の耳と腕前と音楽知識からして無理なのである。正確なポジション(弦楽器の場合、違う弦にも同じ音がある)なんて演奏者本人にしかわからないし、どの弦の音かまで追求していたらキリがない。「こんな感じに聞こえる」ぐらいまで拾えれば十分なのである。大切なのは、「とりあえず一曲通してコピーする」ことなのだ。一部分にこだわって前に進めなければ、音楽は楽しめない。もそもそ…… あ、ごめん……そもそも、なぜその曲を耳コピしようと思ったのか? それは「その曲を弾いてみたい」という気持ちからはじまったはずである。曲を曲として楽しみ、そのパートとして参加したい——そんな想い。いわばコンセプト。細部にこだわり過ぎると、どんどんコンセプトから逸れていってしまう。逆に、その曲が呼吸しているコンセプトを拾い上げられれば、それで十分、成功しているのであり、それでこそ曲全体が楽しめるのである。もっと単刀直入、ショッキングに言い切ってしまおう。細部にこだわったあなたのフレーズなど、ほとんどのオーディエンスは「聴いちゃいない」のである。
さて、ここで無理矢理なコピーつながりで、広告コピーの話に結びつけることにする。
広告コピー。それも結局は、全体の中のいちパートに過ぎない。いかに細部にこだわり、ギミック/レトリックに凝ったとて、それが広告/販促コンセプトから逸脱していては無意味な文字の羅列でしかない。大切なのは、全体としてそのコピーがマッチングし、全体としてその広告(販促物)が「楽しんでもらえる」か、である。オーディエンスにコンセプトを伝えるためには、「全体」をいかに伝えるかを考える必要があり、全体を伝えるためには自らが全体を「楽しむ」必要がある。そしてそれは、「こだわり」と「開き直り」を根底に抱えているものであること。
はてさて、「耳コピ」から「広告コピー」の話へと突き進んだ今回の不定記であるが、実は内容が横道に逸れっぱなしであることをほとんどの人は気づいていないだろう。そう、今回のタイトルは「だいじょうぶマイ・ブーム」。にもかかわらず、ほとんどマイ・ブームについて語ってはいない。これは全然「だいじょうぶじゃない」のである。
が、やはり僕たちは開き直ってしまおう。伝えるべきことは伝えられたはずだから。そう、今回のコンセプトは「マイ・ブーム」などではない。オーディエンスに対して「だいじょうぷ」ということさえ伝えられれば、この不定記は成功なのである。「ならタイトル変えろよ」という声もあるだろうが、だいじょうぶ、僕だけでなく誰もそんなことは気にしてませんから。
01/06/28
コイは控えめに ― 2006年09月23日 01:42
さて。会社に置いてある飲み物の自販機には、クリーム・砂糖の増減調節ボタン以外に、「薄い・濃い(写真左から)」というボタンが付いている。これはコーヒーにのみ適用されるのであるが、僕はいつも「濃い」ボタンを押すことにしている。もちろん濃いめのコーヒーが好きだからであって、決して「濃いほうがお得な感じがする」などというプチせこい考え方からそうしているわけではない。
この「濃い」設定にすると、当然のことだがコーヒーが「濃い」ぃ感じになる。「お、なんかコーヒー豆ちょっと多めって感じで得したような気分」と思わず本音を漏らしてしまったりもするのだが、いや、ちょっとまてよ? この「濃い」味はなにかに似ているぞ? 苦み走ったこの味は……そう! これはまさしく「砂糖減量」の味……
濃い=砂糖減量。(実際はどうだかわかんないけど) この考え方は面白い。「マイナス」によって「プラス」イメージを生み出す。例えば、こんな具合に応用できはしないか?
Kくん(仮名:当時24歳)の悩み事はもっぱら「容姿」に関わるものであった。とりわけ「狭い額」は、「細い目」に匹敵するくらい大きな悩みの種だった。額が狭いと、なんだか原始の民っぽく見えちゃうし、前頭葉も進化不足な感じがするし、なによりも「べかこちっく」(注:関西弁)な風貌になってしまう。
この「狭い額」を解消するにはどうすればいいか? Kくんはさんざん悩んだ末、シンプルにして効果的な方法を発見するに至った。すばり、「額の髪の生え際を剃る」のである。つまり、「頭部をマイナス」することにより「額部をプラス」するのだ。
Kくんは、安全剃刀と毛抜きを用い、この作戦を実行した。見事、額部は生え際型に切り抜かれた。かくしてKくんの額は望みどおり「広く」なったのである——。
世の中の事象は、通常「安定」している状態にある。その安定を構成している要素の一つを、ほんの少しだけ減量してやる。すると、その減量分を他の要素が補って、再び安定化しようとする。マイナスがプラスに転化するというのは、つまりこういうことだ。
しかし、無理矢理にマイナスして得たプラス状態は、いわば仮の安定であって、内実は不安定きわまりない。不安定は「不自然」と言い換えてもいいだろう。これはKくんのその後を見ても明らかである。
望みどおり額が広くなったKくん。これで「風にゆれる前髪」も「インテリっぽく苦悩する顔」も思いのままだ。モテモテ人生まっしぐらである。
ところが。
翌日、ルナシー気分を抑え気味に会社に出社したKくんは、同僚の信じられない言葉を耳にする。
「お、なんかちょっと感じ変わったんちゃう?」
「そう?」
「なんか、こう、顔でか見えるよ」
「!……」
Kくんの顔部拡張話については後日談もあるのだが、それはまた別の機会にゆずるとしよう。
ともかく、この物語は私たちに一つの教訓を与えてくれる。それはこういうことだ。
「プラスとマイナスを逆にしないよう注意しましょう」。
01/06/17
この「濃い」設定にすると、当然のことだがコーヒーが「濃い」ぃ感じになる。「お、なんかコーヒー豆ちょっと多めって感じで得したような気分」と思わず本音を漏らしてしまったりもするのだが、いや、ちょっとまてよ? この「濃い」味はなにかに似ているぞ? 苦み走ったこの味は……そう! これはまさしく「砂糖減量」の味……
濃い=砂糖減量。(実際はどうだかわかんないけど) この考え方は面白い。「マイナス」によって「プラス」イメージを生み出す。例えば、こんな具合に応用できはしないか?
Kくん(仮名:当時24歳)の悩み事はもっぱら「容姿」に関わるものであった。とりわけ「狭い額」は、「細い目」に匹敵するくらい大きな悩みの種だった。額が狭いと、なんだか原始の民っぽく見えちゃうし、前頭葉も進化不足な感じがするし、なによりも「べかこちっく」(注:関西弁)な風貌になってしまう。
この「狭い額」を解消するにはどうすればいいか? Kくんはさんざん悩んだ末、シンプルにして効果的な方法を発見するに至った。すばり、「額の髪の生え際を剃る」のである。つまり、「頭部をマイナス」することにより「額部をプラス」するのだ。
Kくんは、安全剃刀と毛抜きを用い、この作戦を実行した。見事、額部は生え際型に切り抜かれた。かくしてKくんの額は望みどおり「広く」なったのである——。
世の中の事象は、通常「安定」している状態にある。その安定を構成している要素の一つを、ほんの少しだけ減量してやる。すると、その減量分を他の要素が補って、再び安定化しようとする。マイナスがプラスに転化するというのは、つまりこういうことだ。
しかし、無理矢理にマイナスして得たプラス状態は、いわば仮の安定であって、内実は不安定きわまりない。不安定は「不自然」と言い換えてもいいだろう。これはKくんのその後を見ても明らかである。
望みどおり額が広くなったKくん。これで「風にゆれる前髪」も「インテリっぽく苦悩する顔」も思いのままだ。モテモテ人生まっしぐらである。
ところが。
翌日、ルナシー気分を抑え気味に会社に出社したKくんは、同僚の信じられない言葉を耳にする。
「お、なんかちょっと感じ変わったんちゃう?」
「そう?」
「なんか、こう、顔でか見えるよ」
「!……」
Kくんの顔部拡張話については後日談もあるのだが、それはまた別の機会にゆずるとしよう。
ともかく、この物語は私たちに一つの教訓を与えてくれる。それはこういうことだ。
「プラスとマイナスを逆にしないよう注意しましょう」。
01/06/17
幼顔 ― 2006年09月23日 01:40
短髪した。これは「散髪した」と「その結果、短髪になった」という、いわゆる“因果関係”を簡略化したものである。いや、そんな説明はDOでもEとして、とにかく髪の毛がとっても短くなった。当たった美容師さんが可愛い女の子だったせいでもあろう。なすがままに切られてしまった。アタリとハズレは髪一重である。
しかもその短髪がたくさんおかしい。そう、この文章のように、前後のつながりに違和感があるのである。上下のつながりと言ったほうが正確か。マッチ棒を思い浮かべてみるがいい。それが僕だ。
基本的に僕は散髪をするとおかしな顔になる。もちろん僕の意志でこれを基本としているわけではなく、生まれながらの顔立ちに問題があるのだ。簡単に言ってしまえば「幼顔」なのである。ちなみにこれは「おさながお」と読む。「ようがん」と発音しちゃったら、なんだか「顔の幼虫」的な、そのうち脱皮しそうな、もしくは熱くどろどろしてそうな、あるいは「ようがんへんげ」みたいなニュアンスになってしまう。音のイメージというのは奥深い。
それはともかくとして、「顔つきが幼い」ことに、そろそろ僕は焦りと不安を感じている。元来、僕は非常にクールで無口でめったに笑うこともなく、村上春樹の小説に時折片唇を傾けるくらいの性格なのであるが、この幼顔のせいで、キャピキャピしたおしゃべり好きの、ほぼ二十四時間ふくよかに微笑んでいるような人間だと思われてしまう。思われて? いや、そうではない。思われるのではなく、「思わせて」いるのである。つまりこの幼顔が、僕に幼顔たるべき性格を「演じさせて」いるのだ。
水は方円の器に従う。これは環境による感化作用について述べた諺であるが、人は誰しも自分の外見という環境に性質を合わそうとする傾向がある。世の中のイメージに自分の役割を当てはめようとする。見てくれと中身のギャップを埋めようとする。なぜか? そのギャップを人に見られたくないからである。そのギャップを見られると恥ずかしいからである。そのギャップこそが、その人の素っ裸の部分だからである。イメージという隠れ蓑からポロリとはみ出してしまった——
元来、僕は非常にクールで無口でめったに笑うこともなく、村上龍とドラえもんの相関関係に時折片唇を歪めるくらいの性格なので、やはり素っ裸をさらけ出すわけにはいかない。が、年々そのギャップは大きくなる一方で、落差を埋めるのも一苦労である。とりわけ、このマッチ棒状態の今は、普段よりもさらに可愛らしくふるまうことを余儀なくされる。昭和四十一年生まれ、大阪万博の記憶を持つ、にもかかわらず、だ。
そんな心境の折り、そう、昨夜のことだ。テレビでとあるCMを観て、さらに不安になった。ご覧になられた方も多いであろう。ミスターチルドレンのCM。白木みのる氏、出演。
「さすがにそこまでは……」とも思うのだが、遠からじの感もある。そう、マッチ棒もライターもさほど大差はないのである。
01/06/06
しかもその短髪がたくさんおかしい。そう、この文章のように、前後のつながりに違和感があるのである。上下のつながりと言ったほうが正確か。マッチ棒を思い浮かべてみるがいい。それが僕だ。
基本的に僕は散髪をするとおかしな顔になる。もちろん僕の意志でこれを基本としているわけではなく、生まれながらの顔立ちに問題があるのだ。簡単に言ってしまえば「幼顔」なのである。ちなみにこれは「おさながお」と読む。「ようがん」と発音しちゃったら、なんだか「顔の幼虫」的な、そのうち脱皮しそうな、もしくは熱くどろどろしてそうな、あるいは「ようがんへんげ」みたいなニュアンスになってしまう。音のイメージというのは奥深い。
それはともかくとして、「顔つきが幼い」ことに、そろそろ僕は焦りと不安を感じている。元来、僕は非常にクールで無口でめったに笑うこともなく、村上春樹の小説に時折片唇を傾けるくらいの性格なのであるが、この幼顔のせいで、キャピキャピしたおしゃべり好きの、ほぼ二十四時間ふくよかに微笑んでいるような人間だと思われてしまう。思われて? いや、そうではない。思われるのではなく、「思わせて」いるのである。つまりこの幼顔が、僕に幼顔たるべき性格を「演じさせて」いるのだ。
水は方円の器に従う。これは環境による感化作用について述べた諺であるが、人は誰しも自分の外見という環境に性質を合わそうとする傾向がある。世の中のイメージに自分の役割を当てはめようとする。見てくれと中身のギャップを埋めようとする。なぜか? そのギャップを人に見られたくないからである。そのギャップを見られると恥ずかしいからである。そのギャップこそが、その人の素っ裸の部分だからである。イメージという隠れ蓑からポロリとはみ出してしまった——
元来、僕は非常にクールで無口でめったに笑うこともなく、村上龍とドラえもんの相関関係に時折片唇を歪めるくらいの性格なので、やはり素っ裸をさらけ出すわけにはいかない。が、年々そのギャップは大きくなる一方で、落差を埋めるのも一苦労である。とりわけ、このマッチ棒状態の今は、普段よりもさらに可愛らしくふるまうことを余儀なくされる。昭和四十一年生まれ、大阪万博の記憶を持つ、にもかかわらず、だ。
そんな心境の折り、そう、昨夜のことだ。テレビでとあるCMを観て、さらに不安になった。ご覧になられた方も多いであろう。ミスターチルドレンのCM。白木みのる氏、出演。
「さすがにそこまでは……」とも思うのだが、遠からじの感もある。そう、マッチ棒もライターもさほど大差はないのである。
01/06/06
ドレミファソラシド ― 2006年09月23日 01:38
簡単に言えば「辛抱弱い性格」である。我慢できないのである。自制心が足りないのである。自分の欲望を抑えられない白い獣なのである。
こんな性格なので、欲しいものはお金を払ってまで手に入れる、やりたいことは有給とってまで実行する、食べたいものは昼休みを待ってまで食べる、飲みたいものは栓を抜いてまで飲む……と、まさに好き放題の食べ放題である。
これもすべて、「ふと」にその元凶を見ることができる。「ふと」がやって来たら、もうおしまいである。「ふと」は前触れもなく、出会い頭に現れる。「ふと」はある意味、衝突事故である。
先日も、突然「ふと」が現れて僕にこう耳打ちした。
「音楽理論て、ええんちゃうん」
何が「ええ」のかわからない曖昧さも、「ふと」に共通して見られる悪質である。
しかし、こう囁かれてしまった以上、僕はすでに囚われの身となる。
「音楽理論て、ええよなあ……」
と、「ふと」の声に思わず呼応してしまう。もちろんこの段階では、何が「ええ」のかわかっていない。
が、悪賢い「ふと」は疑念の隙を与えることなく、僕の脳味噌に「理屈」を注ぎはじめる。
「やっぱ理論を知っているのと知らないのとでは、えらい差があるんちゃうん」
何の「差」なのかもどこが「えらい」のかもよくわからない「理屈」である。こんなのは「理屈」ではなく「屈」である。そう言えば、「屈」という字と「屁」という字はそっくりだ。もしかして、こういうのを「屁理屈」と言うのではないかしらん?
しかし、「理屈」の頭に「屁」がくっついていることなど、その時の僕には思い至るはずもない。
しかして僕の頭は、まんまと「ふと」の制御下に置かれてしまうのである。
さて、話は変わりますが(おいおいっ!)、いや、実は変わらないんだけど(どないやねん)、音楽理論に興味があります。音楽理論と言っても、小学校で習ったかもしれないような基礎的な部分から、って感じなのですが。僕はあのドレミファソラシドが正しいドレミファソラシドだと思い込んでいたのですが、実はドレミファソラシドってのはこんなドレミファソラシドもあったりと、いろいろとあるんですねぇ。と、そんなことから学んでみようかなー、とふと思ったりする今日この頃であります。
01/05/29
こんな性格なので、欲しいものはお金を払ってまで手に入れる、やりたいことは有給とってまで実行する、食べたいものは昼休みを待ってまで食べる、飲みたいものは栓を抜いてまで飲む……と、まさに好き放題の食べ放題である。
これもすべて、「ふと」にその元凶を見ることができる。「ふと」がやって来たら、もうおしまいである。「ふと」は前触れもなく、出会い頭に現れる。「ふと」はある意味、衝突事故である。
先日も、突然「ふと」が現れて僕にこう耳打ちした。
「音楽理論て、ええんちゃうん」
何が「ええ」のかわからない曖昧さも、「ふと」に共通して見られる悪質である。
しかし、こう囁かれてしまった以上、僕はすでに囚われの身となる。
「音楽理論て、ええよなあ……」
と、「ふと」の声に思わず呼応してしまう。もちろんこの段階では、何が「ええ」のかわかっていない。
が、悪賢い「ふと」は疑念の隙を与えることなく、僕の脳味噌に「理屈」を注ぎはじめる。
「やっぱ理論を知っているのと知らないのとでは、えらい差があるんちゃうん」
何の「差」なのかもどこが「えらい」のかもよくわからない「理屈」である。こんなのは「理屈」ではなく「屈」である。そう言えば、「屈」という字と「屁」という字はそっくりだ。もしかして、こういうのを「屁理屈」と言うのではないかしらん?
しかし、「理屈」の頭に「屁」がくっついていることなど、その時の僕には思い至るはずもない。
しかして僕の頭は、まんまと「ふと」の制御下に置かれてしまうのである。
さて、話は変わりますが(おいおいっ!)、いや、実は変わらないんだけど(どないやねん)、音楽理論に興味があります。音楽理論と言っても、小学校で習ったかもしれないような基礎的な部分から、って感じなのですが。僕はあのドレミファソラシドが正しいドレミファソラシドだと思い込んでいたのですが、実はドレミファソラシドってのはこんなドレミファソラシドもあったりと、いろいろとあるんですねぇ。と、そんなことから学んでみようかなー、とふと思ったりする今日この頃であります。
01/05/29
insutile ― 2006年09月23日 01:35
台所の流しの下には、「嫁さんのCHIVAS REGAL」なるものが入っている。これは嫁さんが実家からパチっ……いや、もらってきたものなのだが、もともとそれほど飲まない人なので、なかなか減ることはない。たまに僕も失敬……いや、恵んでもらう(この表現もどうだろ?)のだが、怒られる……いや遠慮が立つのでたいして飲め……いや飲まない。複雑な話を大胆に単純化してしまうと、こういうことだ。「嫁さんのCHIVAS REGALはなかなか減らない」のである。
今宵、誕生日を理由に恵んで(やはり)もらった時のこと。僕が冗談で「僕が飲まないと減らないねえ」(それって冗談やなくて事実やん)と言うと、嫁さん曰く、
「お酒って、そーゆーもんやん」
なるへそ。確かにそうかもしれない。
僕の記憶には、「リビングに飾ってあるウイスキーボトルの風景」がある。これは親父のウイスキーなのだが、まさに“飾って”あり、一つの“風景”であった。ナイトキャップとしてたしなむ程度、確かにそういう飲み方をしていた。風景の構成物はころころ変わったりはしなかった。
ところが僕ときたら、ある酒ある酒一気に飲んじゃって、逆に「アルコールのない家」みたいになっちゃうのである。この語感から「朝日のあたる家」という名曲を思い出す方がおられるかもしれないが、それとは関係ない。ビールではなく、ウイスキーの話だ。
酔うために飲む。それが僕のインシュタイル(insutile)——つまり飲酒スタイルである。僕の中では「酔うために酒を飲む意識」がほぼ100%を占めている。
しかし、この思想は片手落ちであり、逆に損をしていることにふと気づいた。酒は酔うためにあるのではなく、“楽しむ”ためにあるのだ。アルコールによって酔う、というのは、その楽しみの一部でしかない。
味わう——それが酒を楽しむ基本であろう。味を、雰囲気を、肴を、ロマンを、マロンを。究極的には、別に「酒」でなくてもいいのである。そう、つまり酒は、味わうための「手段」であり、「目的」ではないのだ。
さて、ここで「酒」を他の言葉に置き換えてみよう。「コピー」でもいいし「複写」でもいい。例えば「コピー」という言葉に置き換えれば、こうなる。
・「おコピーって、そーゆーもんやん」
……いやいやそれは飛ばして、このように置き換えるのである。
・酔うためにコピーを書く、のではない。コピーは“楽しむ”ためにあるのだ。
・味わう——それがコピーを楽しむ基本である。つまりコピーは、味わうための「手段」であり、「目的」ではないのだ。
話の成り行きで酒をコピーに置き換えてみたのだが、別に対した示唆は含まれていないようである。強いて言うならば、「しっかりと構成・計算してから書こう!>K」というくらいか。
やはりこういうものは、今のように酔っぱらって書いていてはいけないようである。
01/05/13
今宵、誕生日を理由に恵んで(やはり)もらった時のこと。僕が冗談で「僕が飲まないと減らないねえ」(それって冗談やなくて事実やん)と言うと、嫁さん曰く、
「お酒って、そーゆーもんやん」
なるへそ。確かにそうかもしれない。
僕の記憶には、「リビングに飾ってあるウイスキーボトルの風景」がある。これは親父のウイスキーなのだが、まさに“飾って”あり、一つの“風景”であった。ナイトキャップとしてたしなむ程度、確かにそういう飲み方をしていた。風景の構成物はころころ変わったりはしなかった。
ところが僕ときたら、ある酒ある酒一気に飲んじゃって、逆に「アルコールのない家」みたいになっちゃうのである。この語感から「朝日のあたる家」という名曲を思い出す方がおられるかもしれないが、それとは関係ない。ビールではなく、ウイスキーの話だ。
酔うために飲む。それが僕のインシュタイル(insutile)——つまり飲酒スタイルである。僕の中では「酔うために酒を飲む意識」がほぼ100%を占めている。
しかし、この思想は片手落ちであり、逆に損をしていることにふと気づいた。酒は酔うためにあるのではなく、“楽しむ”ためにあるのだ。アルコールによって酔う、というのは、その楽しみの一部でしかない。
味わう——それが酒を楽しむ基本であろう。味を、雰囲気を、肴を、ロマンを、マロンを。究極的には、別に「酒」でなくてもいいのである。そう、つまり酒は、味わうための「手段」であり、「目的」ではないのだ。
さて、ここで「酒」を他の言葉に置き換えてみよう。「コピー」でもいいし「複写」でもいい。例えば「コピー」という言葉に置き換えれば、こうなる。
・「おコピーって、そーゆーもんやん」
……いやいやそれは飛ばして、このように置き換えるのである。
・酔うためにコピーを書く、のではない。コピーは“楽しむ”ためにあるのだ。
・味わう——それがコピーを楽しむ基本である。つまりコピーは、味わうための「手段」であり、「目的」ではないのだ。
話の成り行きで酒をコピーに置き換えてみたのだが、別に対した示唆は含まれていないようである。強いて言うならば、「しっかりと構成・計算してから書こう!>K」というくらいか。
やはりこういうものは、今のように酔っぱらって書いていてはいけないようである。
01/05/13
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