二兎を追う。 ― 2007年04月25日 00:17
二羽の兎が暗夜を疾走している。
オリーブドラブ色の軍服を纏い、腰には軍刀が揺れている。が、闇に浮かぶのはただ真っ赤な眼の残光だけである。
脱柵した彼らは、一息で裏山深くの谷まで駆け、小川を越え、黒い荊の森に跳び込んだ。そこで彼らは縺れるように倒れ込み、傍らの大木に背を預け、長い間咳混じりの荒い呼吸を繰り返した。梢を抜けて差し込む月光が、疵だらけの軍服に赤い滲みをつくり出す。
息の音が蟲々の囀りに烟ってきた頃。
「……大丈夫かい」
茶色の兎が焦茶色の兎に小声で話しかけた。
「……なんとか」
焦茶色は包帯の巻かれた足首を押さえながら答える。
無傷な者など一羽もいない。戦地の前線には累々たる屍。軍営は瀕死の兎たちで溢れている。狐との戦争はもはや敗色の色が鮮やかであった。しかし、兎とは元来頑固な生き物である。撤退の囁きに耳を塞ぎ、餅のような粘り強さだけで死線に跳ね出していく。
しかし、彼らは違った。負け戦で犬死にするのは馬鹿げている。意地だけの諍いに意味はない。死の感覚が麻痺した集団は、もはや狂気に支配された凶器である。兎はもっと愛らしくなくては。
「ところで——」
茶は焦茶を横目で見据えながら、こう尋いた。
「君、だれ?」
彼らは知り合いではなかった。脱走した茶が鉄条網の天辺に尻尾を引っかけ、もはやこれまで、と思ったところを、後ろからドンと突き飛ばしてくれたのが焦茶であった。そのまま二兎は無我夢中で走り、ここに至った。
「俺はマイト・グラスポッパー。みんなからはマーティって呼ばれてる」
マーティと名乗る兎は自分の足首を見つめたまま答えた。包帯にはひどく血が滲んでいる。
「僕はビート。さっきは助かったよ。ありがとう」
そう言いながら、ピートは尻尾の毛を指先で確認した。真夜中の森の中。無数の蟲の声が叢に響き、時折空から鳥獣の雄叫びが聞こえている。長い耳を澄ましても、まだ脱走者を追うサイレンは聞こえてこない。
「君はこれからどうするつもりなんだい?」
マーティが尋ねる。
「とりあえず南の国境を越えて、この戦争が終わるまでヲエズ谷に身を隠すつもりだよ。あそこなら安全だし、遠い親戚も住んでるんだ。もうここは狐に占領されちゃうだろうし。君は?」
ビートの問い掛けに、マーティは下を向いたまま答えない。何かを言い躊躇っているようだ。
「もしよかったら、一緒にヲエズ谷に行かないか? まずはその傷を癒して、その後は君の行きたいところへいけばいい」
ビートの提案にマーティは首を横に振った。そして顔を伏せたままこう言った。
「俺はまた戦地に戻るつもりさ」
予想外の言葉にビートは腰を抜かした。あの負け戦に戻る? では何のための脱走なのか?
「じゃあ君は、なぜここまで逃げてきたんだ? 脱走なんて危険なことまでして」
「逃げてきたんじゃない。おまえを追ってきたのさ」
ピートはその刹那、迫り上がる恐怖をバネに跳ね上がり、腰の刀に手を掛けた。
「どうして? 助けてくれたじゃないか、あの時」
「あれは尻尾を掴もうとしただけだ。でもこんな手だから、つい押しちゃったわけで」
マーティは背を大木に預けたまま、短い手の短い指をじっと見つめた。
「で、僕を連れ戻すのか。あの死を待つだけの場所へ」
すると、マーティは意外そうな顔でビートを振り向いた。
「連れ戻す? どうして?」
「どうして、って、脱走兵の監視役なんだろう」
マーティはビートに顔を向けたまま、前歯を剥きだして笑った。
「はは。俺はそんなんじゃないよ。どいつが脱走しようが俺の知ったこっちゃない」
ビートは混乱した。監視役でもないのに、なぜ自分を追ってきたのか。戦地に戻るとはどういうことなのか。その思考の隙間にマーティの声が忍び込む。
「ついでに、俺、兎じゃないし」
マーティは、よっこらせ、と言いながらおもむろに立ち上がった。
ビートは後ずさった。見上げるような格好で。
目の前には、狐が立っていた。狐軍の軍服を着た。
「おのれ貴様、化けてやがったのか」
狐は細い目を嬉しそうに細めて、返事の代わりにベロリと舌を出した。
「残念だが、今頃おまえたちの兵舎は狐の巣になっているだろう。おまえはただ一羽の、幸運な生き残りだ。だがそれもあと数秒」
狐は包帯を巻いた右足を少し引き摺りながらにじり寄ってくる。ビートは軍刀の切っ先を狐の眉間に向けたまま、同じ速度で後退する。何が起きても真っ暗な森。弱肉強食が掟の闇。と、その静寂に——
「ぎゃっ、ぎゃっ、ぎゃっ」
森の彼方から猛スピードで獣の群れが近づいてくる声が聞こえた。
「おっと、いけない。ありゃ狐だ」
マーティはそう言うやいなや、ポンッと宙返りしたかと思うと、狸の姿となり、声とは反対の方向へ脱兎の如く駆けだした。
「ちっ、あと少しのところを」
ビートは刀を構えたまま呟いた。次の瞬間、刀の先から赤く細い舌がペロリと覗き、見る間に兎の姿は刀ごと蟒蛇に変化した。そして叢深く消えていった。
「くそ、取り逃がしたか」
二兎を追ってきた狐たちは地団駄を踏んで悔しがった。
その足痕は、六本指だったという。
(完)
オリーブドラブ色の軍服を纏い、腰には軍刀が揺れている。が、闇に浮かぶのはただ真っ赤な眼の残光だけである。
脱柵した彼らは、一息で裏山深くの谷まで駆け、小川を越え、黒い荊の森に跳び込んだ。そこで彼らは縺れるように倒れ込み、傍らの大木に背を預け、長い間咳混じりの荒い呼吸を繰り返した。梢を抜けて差し込む月光が、疵だらけの軍服に赤い滲みをつくり出す。
息の音が蟲々の囀りに烟ってきた頃。
「……大丈夫かい」
茶色の兎が焦茶色の兎に小声で話しかけた。
「……なんとか」
焦茶色は包帯の巻かれた足首を押さえながら答える。
無傷な者など一羽もいない。戦地の前線には累々たる屍。軍営は瀕死の兎たちで溢れている。狐との戦争はもはや敗色の色が鮮やかであった。しかし、兎とは元来頑固な生き物である。撤退の囁きに耳を塞ぎ、餅のような粘り強さだけで死線に跳ね出していく。
しかし、彼らは違った。負け戦で犬死にするのは馬鹿げている。意地だけの諍いに意味はない。死の感覚が麻痺した集団は、もはや狂気に支配された凶器である。兎はもっと愛らしくなくては。
「ところで——」
茶は焦茶を横目で見据えながら、こう尋いた。
「君、だれ?」
彼らは知り合いではなかった。脱走した茶が鉄条網の天辺に尻尾を引っかけ、もはやこれまで、と思ったところを、後ろからドンと突き飛ばしてくれたのが焦茶であった。そのまま二兎は無我夢中で走り、ここに至った。
「俺はマイト・グラスポッパー。みんなからはマーティって呼ばれてる」
マーティと名乗る兎は自分の足首を見つめたまま答えた。包帯にはひどく血が滲んでいる。
「僕はビート。さっきは助かったよ。ありがとう」
そう言いながら、ピートは尻尾の毛を指先で確認した。真夜中の森の中。無数の蟲の声が叢に響き、時折空から鳥獣の雄叫びが聞こえている。長い耳を澄ましても、まだ脱走者を追うサイレンは聞こえてこない。
「君はこれからどうするつもりなんだい?」
マーティが尋ねる。
「とりあえず南の国境を越えて、この戦争が終わるまでヲエズ谷に身を隠すつもりだよ。あそこなら安全だし、遠い親戚も住んでるんだ。もうここは狐に占領されちゃうだろうし。君は?」
ビートの問い掛けに、マーティは下を向いたまま答えない。何かを言い躊躇っているようだ。
「もしよかったら、一緒にヲエズ谷に行かないか? まずはその傷を癒して、その後は君の行きたいところへいけばいい」
ビートの提案にマーティは首を横に振った。そして顔を伏せたままこう言った。
「俺はまた戦地に戻るつもりさ」
予想外の言葉にビートは腰を抜かした。あの負け戦に戻る? では何のための脱走なのか?
「じゃあ君は、なぜここまで逃げてきたんだ? 脱走なんて危険なことまでして」
「逃げてきたんじゃない。おまえを追ってきたのさ」
ピートはその刹那、迫り上がる恐怖をバネに跳ね上がり、腰の刀に手を掛けた。
「どうして? 助けてくれたじゃないか、あの時」
「あれは尻尾を掴もうとしただけだ。でもこんな手だから、つい押しちゃったわけで」
マーティは背を大木に預けたまま、短い手の短い指をじっと見つめた。
「で、僕を連れ戻すのか。あの死を待つだけの場所へ」
すると、マーティは意外そうな顔でビートを振り向いた。
「連れ戻す? どうして?」
「どうして、って、脱走兵の監視役なんだろう」
マーティはビートに顔を向けたまま、前歯を剥きだして笑った。
「はは。俺はそんなんじゃないよ。どいつが脱走しようが俺の知ったこっちゃない」
ビートは混乱した。監視役でもないのに、なぜ自分を追ってきたのか。戦地に戻るとはどういうことなのか。その思考の隙間にマーティの声が忍び込む。
「ついでに、俺、兎じゃないし」
マーティは、よっこらせ、と言いながらおもむろに立ち上がった。
ビートは後ずさった。見上げるような格好で。
目の前には、狐が立っていた。狐軍の軍服を着た。
「おのれ貴様、化けてやがったのか」
狐は細い目を嬉しそうに細めて、返事の代わりにベロリと舌を出した。
「残念だが、今頃おまえたちの兵舎は狐の巣になっているだろう。おまえはただ一羽の、幸運な生き残りだ。だがそれもあと数秒」
狐は包帯を巻いた右足を少し引き摺りながらにじり寄ってくる。ビートは軍刀の切っ先を狐の眉間に向けたまま、同じ速度で後退する。何が起きても真っ暗な森。弱肉強食が掟の闇。と、その静寂に——
「ぎゃっ、ぎゃっ、ぎゃっ」
森の彼方から猛スピードで獣の群れが近づいてくる声が聞こえた。
「おっと、いけない。ありゃ狐だ」
マーティはそう言うやいなや、ポンッと宙返りしたかと思うと、狸の姿となり、声とは反対の方向へ脱兎の如く駆けだした。
「ちっ、あと少しのところを」
ビートは刀を構えたまま呟いた。次の瞬間、刀の先から赤く細い舌がペロリと覗き、見る間に兎の姿は刀ごと蟒蛇に変化した。そして叢深く消えていった。
「くそ、取り逃がしたか」
二兎を追ってきた狐たちは地団駄を踏んで悔しがった。
その足痕は、六本指だったという。
(完)
神のチカラ。 ― 2007年04月22日 01:39
ある日突然、何の前触れもきっかけもなく、神のチカラを授かった。
思ったことはすべて現実になる。花壇のパンジーを花開かせることも宇宙の果てを卵の殻に変えることも同じエネルギーでなんなくできる。六畳一間のワンルーム。とりあえずは眼前にカップ麺を出現させた。
さて。このチカラをどのように使おう? やはり神のチカラであるからには、平和と正義のために使うべきか。
まずは悪の駆逐。体内悪レベルが七十パーセントを超える生物は、さっきこしらえた新地獄に落とそう。
その瞬間、人類の十パーセントが消滅した。
しかし、新聞に載る事件はさほど減りはしなかった。
——ちょっと基準が甘かったかな。
今度は体内悪レベルが六十パーセント程度の生物も地獄行きにした。
すると、残った人類の三十パーセントが消滅した。地獄の鬼たちは大喜びだ。
調子に乗って、体内悪レベルが五十パーセントの生物も制裁することにした。神のチカラで世界を造り替えるのだ。多少ドラスチックであったほうがいい。
次の瞬間、さらに残りの人類の四十パーセントが消えた。
神のチカラを手に入れた者も。
(完)
思ったことはすべて現実になる。花壇のパンジーを花開かせることも宇宙の果てを卵の殻に変えることも同じエネルギーでなんなくできる。六畳一間のワンルーム。とりあえずは眼前にカップ麺を出現させた。
さて。このチカラをどのように使おう? やはり神のチカラであるからには、平和と正義のために使うべきか。
まずは悪の駆逐。体内悪レベルが七十パーセントを超える生物は、さっきこしらえた新地獄に落とそう。
その瞬間、人類の十パーセントが消滅した。
しかし、新聞に載る事件はさほど減りはしなかった。
——ちょっと基準が甘かったかな。
今度は体内悪レベルが六十パーセント程度の生物も地獄行きにした。
すると、残った人類の三十パーセントが消滅した。地獄の鬼たちは大喜びだ。
調子に乗って、体内悪レベルが五十パーセントの生物も制裁することにした。神のチカラで世界を造り替えるのだ。多少ドラスチックであったほうがいい。
次の瞬間、さらに残りの人類の四十パーセントが消えた。
神のチカラを手に入れた者も。
(完)
ないまぜエルドラド ― 2007年04月16日 00:07
男は四十一歳を目前に、突然思い立った。
「美しいものを集めよう」
と。
そのきっかけは、たぶんあれだろう。
恋心。
美しい女性に出会い、不覚にも深く片足を恋に落としてしまったのだ。
しかし、もう一方の足をその穴に踏み入れることはできない。彼には美しい妻と美しい娘がいるからである。
仕方なく彼は、代替の美しさを求めることにした、という訳だ。
ところで、「美しいもの」とは何だろう。ただ見た目に美しさを感じるものだけを「美しい」としてしまうのは、やはり違うような気もする。それだけの定義では、薄っぺらなコレクションになってしまいそうだ。もっと深い美しさを定義し、その発見に心を震わせたい。誰とも違う、自分なりの美の感覚に陶酔したい。
とは言うものの、所詮根っこは、禁断の恋(この言葉を思い浮かべた瞬間、彼はその美しさに戦いた)から抜け出し、これからも落ちないようにするための回避法である。普遍的、超越的な美の探求などではない。だから、美学という学問を生半可にかじったりすることは端から考えていない。
とりあえず彼は、これから集める「美しいもの」に対して幾つかの基準をつくった。あくまでも彼独自の基準であり、できるだけ美しいものを発見しやすくしてある。
その基準は三つ。
一、赤色もしくは黒色であること。或いは、赤色もしくは黒色を感じさせること。
二、人工的であること。或いは、人が創造もしくは想像したものであること。
三、マイナー(多くの人に支持或いは認知されていない)であること。
思考の流れは、一、二、三の順番を追う。
まず、第一の思考。これは単純に赤色と黒色が好きだからである。好きなものの中から美しさを発見するのは効率的だろうし、目の付け所を限定したほうが目移りしなくて済む。
第二の思考は、自然や生物を排除するためのもの。自然に内包されたリアルな美は求めればキリがない。生物を外したのは、もちろん人間に対する想いを断ち切る——単純に言えば女性に目を向けないための逃げ道である。
第三の思考は、メジャーなものでは独占欲が満たされないから。独占することは最も魂をときめかせる感覚だろう。(ここで再び彼は、恋という言葉を思い出し、頭を振って振り払った)
独断の美しさを定義すると、彼は早速「美しいもの」探しを始めた。部屋を見回し、赤色もしくは黒色のものを探す。
最初に目に飛び込んできたのは、赤い電気ストーブだった。季節はすでに初夏を迎えようとしていたが、収納する場所を失い、部屋の片隅に数年来しらっと放置してある。
彼はその電気ストーブをまじまじと眺め、そこに秘められた美しさを見出そうとした。
赤い電気ストーブ。一九九一年製。四角い体に二本の脚と取っ手が付いている。上部には二つの黒いスイッチ。正面には曲面を描いた鏡の部屋。それは鉄格子に封じ込められている。部屋の中には二本の白い円柱が二の字に並んでいる。コンセントを差し込み、スイッチを入れてみる。二本の円柱は濃い橙色の光を発し、やがて背面の鏡を焰色に染め上げる。鏡の部屋からは熱気が溢れ、鉄格子をもまた発熱体へと変えて、熱は自由な外の世界へと解放されていく。あたかも抑えきれない情熱が常識や倫理の檻を溶かし、不可視の真っ赤な魂となって野に放たれるようだ。そしてその危険なエネルギーの解放は続く。灼熱にとろける寸前の円柱。赤く発光する炎の棒。ああ、美しい——。
……いやいや、無理矢理、美しさに誘導してはいけない。醒めて眺めれば、やはりただの電気ストーブではないか。しかも、たまたま赤色の商品だっただけで、その赤に必然性があるわけではない。思考の流れも結局は性的欲望に行き着いてしまっている。まったく恋心から逃れる方法になっていない。なによりも顔が熱い。
しかし、思わず感じてしまうところだった。魂に触れようとする美しさを。燃える発熱体。赤く、人工的で、さほど注目されない存在でもある。これは美しさの一つにエントリーしてもいいのではないか。
彼はこのようにして、「美しいもの」を次々とコレクションしていった。コレクションと言っても実際にそれらを手元に置くのではなく、小さなノートと心の隅に言葉で描き留めていった。
鏡の部屋、鉄格子に囚われた発熱体。
ブラックにシアンとマゼンタ、イエローを混ぜたリッチブラックの印刷物。
真っ赤な蝋燭の芯でさざめく真っ赤に溶けた蝋。
旧式マウスに隠された黒い樹脂に覆われたボール。
暗い地下のバーで飲む濃厚なブラッディ・マリー。
滑らかな黒檀でつくられたバイオリンの指板。
打ち捨てられた神社に残る朽ちた鳥居の朱塗。
閉じられた蓋の下で会話し始めるピアノの黒鍵と赤い敷物。
相変わらず彼の選んだ美しいものは「妄想込み」であったが、それでも心は徐々に美しいものたちに満たされていった。誰も知らないこの美しさを掲げれば、崇高な思想に支えられながら強く生きていけそうな気がしてきた。そう、件の恋にもそろそろ打ち勝てるのではないか、とも。
ところが、彼の赤と黒の黄金郷は、ある日ある朝、崩壊の危機に曝された。
恋心を抱く女性が、黒いドレススーツと真っ赤な口紅を纏っていたのである。
黒いドレススーツ。真っ赤な口紅。それは第一と第二の定義を満たしてはいたが、第三の定義を満たすマイナー性には欠けていた。しかし、彼女という唯一の存在がそれを体の一部とした瞬間、もはや大衆が共有できるものではなくなり、この世にただ一つの絶対性を勝ち取る。いやいや、もうそんな理屈などではない。その全体が美しさそのものだったのである。
彼はかろうじて片足の落下に耐えながら、心のノートにこう付け加えた。
美しい女性が纏う黒の衣服と赤の口紅。
赤と黒の黄金郷は途端にピンク色に染まり始め、あらゆるコレクションを侵し始めた。太陽に照らされた赤と黒はもはや色褪せ、甘い果実こぼれる桃源郷へと変化した。
彼はいたたまれず、ノートを道端に投げ捨てる。美しさから逃れることは不可能なのだろうか。美の探求が思わぬ返り血を浴びることになった。真っ赤な返り血を。
しかし、彼は負けてしまうわけにはいかなかった。生きていくためには、現実を変容するための物語が必要なのだ。
彼は美しさの第一定義を棒線で掻き消すと、その横に新たな定義を書き込んだ。
一、緑色もしくは紫色であること。或いは、緑色もしくは紫色を感じさせること。
その後のコレクションが困難を極めたことは言うまでもない。
(完)
「美しいものを集めよう」
と。
そのきっかけは、たぶんあれだろう。
恋心。
美しい女性に出会い、不覚にも深く片足を恋に落としてしまったのだ。
しかし、もう一方の足をその穴に踏み入れることはできない。彼には美しい妻と美しい娘がいるからである。
仕方なく彼は、代替の美しさを求めることにした、という訳だ。
ところで、「美しいもの」とは何だろう。ただ見た目に美しさを感じるものだけを「美しい」としてしまうのは、やはり違うような気もする。それだけの定義では、薄っぺらなコレクションになってしまいそうだ。もっと深い美しさを定義し、その発見に心を震わせたい。誰とも違う、自分なりの美の感覚に陶酔したい。
とは言うものの、所詮根っこは、禁断の恋(この言葉を思い浮かべた瞬間、彼はその美しさに戦いた)から抜け出し、これからも落ちないようにするための回避法である。普遍的、超越的な美の探求などではない。だから、美学という学問を生半可にかじったりすることは端から考えていない。
とりあえず彼は、これから集める「美しいもの」に対して幾つかの基準をつくった。あくまでも彼独自の基準であり、できるだけ美しいものを発見しやすくしてある。
その基準は三つ。
一、赤色もしくは黒色であること。或いは、赤色もしくは黒色を感じさせること。
二、人工的であること。或いは、人が創造もしくは想像したものであること。
三、マイナー(多くの人に支持或いは認知されていない)であること。
思考の流れは、一、二、三の順番を追う。
まず、第一の思考。これは単純に赤色と黒色が好きだからである。好きなものの中から美しさを発見するのは効率的だろうし、目の付け所を限定したほうが目移りしなくて済む。
第二の思考は、自然や生物を排除するためのもの。自然に内包されたリアルな美は求めればキリがない。生物を外したのは、もちろん人間に対する想いを断ち切る——単純に言えば女性に目を向けないための逃げ道である。
第三の思考は、メジャーなものでは独占欲が満たされないから。独占することは最も魂をときめかせる感覚だろう。(ここで再び彼は、恋という言葉を思い出し、頭を振って振り払った)
独断の美しさを定義すると、彼は早速「美しいもの」探しを始めた。部屋を見回し、赤色もしくは黒色のものを探す。
最初に目に飛び込んできたのは、赤い電気ストーブだった。季節はすでに初夏を迎えようとしていたが、収納する場所を失い、部屋の片隅に数年来しらっと放置してある。
彼はその電気ストーブをまじまじと眺め、そこに秘められた美しさを見出そうとした。
赤い電気ストーブ。一九九一年製。四角い体に二本の脚と取っ手が付いている。上部には二つの黒いスイッチ。正面には曲面を描いた鏡の部屋。それは鉄格子に封じ込められている。部屋の中には二本の白い円柱が二の字に並んでいる。コンセントを差し込み、スイッチを入れてみる。二本の円柱は濃い橙色の光を発し、やがて背面の鏡を焰色に染め上げる。鏡の部屋からは熱気が溢れ、鉄格子をもまた発熱体へと変えて、熱は自由な外の世界へと解放されていく。あたかも抑えきれない情熱が常識や倫理の檻を溶かし、不可視の真っ赤な魂となって野に放たれるようだ。そしてその危険なエネルギーの解放は続く。灼熱にとろける寸前の円柱。赤く発光する炎の棒。ああ、美しい——。
……いやいや、無理矢理、美しさに誘導してはいけない。醒めて眺めれば、やはりただの電気ストーブではないか。しかも、たまたま赤色の商品だっただけで、その赤に必然性があるわけではない。思考の流れも結局は性的欲望に行き着いてしまっている。まったく恋心から逃れる方法になっていない。なによりも顔が熱い。
しかし、思わず感じてしまうところだった。魂に触れようとする美しさを。燃える発熱体。赤く、人工的で、さほど注目されない存在でもある。これは美しさの一つにエントリーしてもいいのではないか。
彼はこのようにして、「美しいもの」を次々とコレクションしていった。コレクションと言っても実際にそれらを手元に置くのではなく、小さなノートと心の隅に言葉で描き留めていった。
鏡の部屋、鉄格子に囚われた発熱体。
ブラックにシアンとマゼンタ、イエローを混ぜたリッチブラックの印刷物。
真っ赤な蝋燭の芯でさざめく真っ赤に溶けた蝋。
旧式マウスに隠された黒い樹脂に覆われたボール。
暗い地下のバーで飲む濃厚なブラッディ・マリー。
滑らかな黒檀でつくられたバイオリンの指板。
打ち捨てられた神社に残る朽ちた鳥居の朱塗。
閉じられた蓋の下で会話し始めるピアノの黒鍵と赤い敷物。
相変わらず彼の選んだ美しいものは「妄想込み」であったが、それでも心は徐々に美しいものたちに満たされていった。誰も知らないこの美しさを掲げれば、崇高な思想に支えられながら強く生きていけそうな気がしてきた。そう、件の恋にもそろそろ打ち勝てるのではないか、とも。
ところが、彼の赤と黒の黄金郷は、ある日ある朝、崩壊の危機に曝された。
恋心を抱く女性が、黒いドレススーツと真っ赤な口紅を纏っていたのである。
黒いドレススーツ。真っ赤な口紅。それは第一と第二の定義を満たしてはいたが、第三の定義を満たすマイナー性には欠けていた。しかし、彼女という唯一の存在がそれを体の一部とした瞬間、もはや大衆が共有できるものではなくなり、この世にただ一つの絶対性を勝ち取る。いやいや、もうそんな理屈などではない。その全体が美しさそのものだったのである。
彼はかろうじて片足の落下に耐えながら、心のノートにこう付け加えた。
美しい女性が纏う黒の衣服と赤の口紅。
赤と黒の黄金郷は途端にピンク色に染まり始め、あらゆるコレクションを侵し始めた。太陽に照らされた赤と黒はもはや色褪せ、甘い果実こぼれる桃源郷へと変化した。
彼はいたたまれず、ノートを道端に投げ捨てる。美しさから逃れることは不可能なのだろうか。美の探求が思わぬ返り血を浴びることになった。真っ赤な返り血を。
しかし、彼は負けてしまうわけにはいかなかった。生きていくためには、現実を変容するための物語が必要なのだ。
彼は美しさの第一定義を棒線で掻き消すと、その横に新たな定義を書き込んだ。
一、緑色もしくは紫色であること。或いは、緑色もしくは紫色を感じさせること。
その後のコレクションが困難を極めたことは言うまでもない。
(完)
翼の森 ― 2007年04月07日 02:45
漁師は赤黒く灼けた手で櫂を握り、黎明から逃れるように岸を目指していた。未だ碧闇に沈んだ海面は、胸騒ぎを鎮めるが如く凪いでいる。額の皺に汗を溜めながら、彼は潮を深く挿し、重い小舟を進める。舟の中は、足元まで巨大な魚で埋め尽くされていた。ターポンと呼ばれる大口の古代魚である。顔つきはアロワナに似ている。コスタリカでは決して珍しい魚ではない。しかし、二百ポンドに迫る巨大なターポンが網一杯に暴れていたことは——それよりも、異様なのはその色だった。闇の中で虹色に輝く魚体。いや、虹色というのとは違う。赤、橙、黄、緑、青、菫。それぞれの一色で体を染めたターポンが十数匹、舟床を彩っているのである。転がったターポンは時折ぺちぺちと互いを尾びれで叩き、無表情に邪悪な口を開閉している。
夢ではない。網の重みで掻き切られた掌には血が滲み、痛みが鼓動を打っている。ついに頭がいかれたか、とも思う。が、彼は傷ついた手を櫂に食い込ませ、彼方の岸へと無心に舟を駆る。頭のことは、まあいい。とにかくこの胸に去来する異変を知らせねば。
突然、背後に真っ白な熱を浴び、漁師は顔を上げて振り返った。水平線から頭を覗かせた太陽。その見慣れた光景に視覚が辿り着く前に、彼は目の端に見慣れぬ物体を捉え、視線を戻した。そして無人の海の上、彼は生まれて初めて腹の奥底から——
絶叫した女の声は紡錘形の山々に木魂した。桂林の山村である。金木犀の香りは四散し、夜闇に溶けようとしていた山水画は輪郭を露わにした。
彼女は街で観光ガイドの仕事をしていた。奇峰奇岩連なる桂林には、世界各地から物好きな観光客がやってくる。毎日同じ台詞を唱え、同じ笑顔を繰り返す単調な日々。しかし、彼女はそれを肯とし、刺激的な異国の伝聞に惹かれることはなかった。それは郷土愛とも違った。営々と累々と積み重ねられた歴史という魯鈍。ここでは染み込んだ日常が正しく美しい。都会で流行っているmade in Japanのフリースを制服の下に着込み、彼女は淡々たる日々を過ごす。
そんな日常は突如予告もなく崩壊した。仕事からの帰り道、街から乗り継いだバスを降り、家路を辿っていた時のことだ。右手に聳え立つ一本山に、いつもと違う佇まいを彼女は感じた。地元では神が潜むと信じられているその山は、天を刺すが如く鋭利な頂を構え、夜には後光すら放っていた。が、いまは光も背負わず、どこかしら萎縮して見える。彼女は山の異変をちらちらと気にかけながら、家への道を急いだ。そこで思いがけず雷音が轟き、一本山が閃光に浮かび上がった。彼女は見た。今まで見えていなかった巨大なものを。そして彼女は——
息を呑み、ただ奇跡を凝視した。瞼の向こうにくっきりと像を結ぶ姿。ベネツィアの路地裏で昼時の残飯を漁っていた目盲いた男は、突然目の奥に差し込んだ光に、掴み出した食べ残しのパニーノを落とした。嗅覚も聴覚も異常を察知することができず、二十数年前に失った視覚にそれは突然映し出された。
男は方位の感覚に乏しかったが、見上げていたのは北西の空だった。刹那、街全体にどよめきが広がるのを男は感じた。誰もが北西の空を見上げていた。どよめきは瞬時にして叫び唸り呻き絶句となって男の両耳を埋め尽くした。この街、隣町、国境の向こう、眼色の違う民、その国の犬や猫、海を越える鳥、眼下に見える孤島、あらゆる場所とその裏側で、同じ瞬間に異なる言語で同じ言葉が叫ばれた。
「神だ」
それは確かに「神」であった。北西約五百メートル先に、巨大な神が突っ立っている。身長は三百メートルもあろうか。直立不動。無表情。体は南を向いていて、左斜めからの姿がはっきりと見える。空間に投影された静止映像のようにも見えるが、纏った衣服は微かに風に揺れ、陽の光あるいは月明かりの造り出す陰影が、一箇の物体であることを証明していた。一箇の物体? それは間違った表現かもしれない。なぜなら神は、世界中の誰の目からも、同じ方向、同じ距離に見えていたからである。ただ一つ同じで無かったのは、目に映っている神の姿が人によってまったく異なる、ということだ。
ある者にはギリシャ神のゼウスに見えた。またある者はバッカスに見えた。ヨーロッパの神々だけではない。エジプトではホルスやオシリス、ラーにカー。インドでは人それぞれが信じる有象無象の神が現れ、キリスト教徒はキリストやマリアを臨み(サタンを見た人々は本来の自分に目覚めた)、日本においては、神官や大仏、天照大御神、千手観音、風神、雷神、七福神、さらには大映の大魔神、陰陽師の安倍晴明(映画と漫画の要素が反映されている)、スタジオジブリのキャラクターまでが、それぞれの神のイメージとして立ち現れた。
しかし、どのような姿形であれ、それはその人にとって神と直観できるものであった。故にそれは、神に違いなかった。
人々はまず呆然とした。想定内の超常現象なら、パニックに陥るという常套手段もあったろう。が、あまりにも巨大な神の出現は、人々の最適な反応を麻痺させ、世界は一瞬仰天の叫びをあげた後、奇妙に冷静な観察眼を持ち、目前の状況を確かめ合った。
「神様ですよねぇ」
「ああ、神様ですね」
大衆への些細な影響にも過敏な国側の人々も、この状況に対する的確な対処法をすぐには思いつかなかった。ある国の大統領は、視界からはみ出そうな現象を夜のニュースだけで片づけようかとも思った。ニュースのアナウンサーは言う。
「次のニュースです。本日午前八時二十分頃、北西約五百メートルに巨大な神が出現し、人々を驚かせています——」
しかし、その沈着も束の間。あれはいったい何なのだ、という謎が口の端と光回線の中に溢れはじめ、数時間後には世界中のネットワークと騒音計が容量の限界を迎えた。
「私にはこんな神様が見える」
「あれは誰の悪戯だ」
「ああ、世界の終末がやって来た」
恐怖と期待、歓喜と不安、笑い、ひきつり、合掌と興奮の中、人々は神の姿をその場所で、あるいは移動しながら眺め続けた。神は依然としてそこに在り続けた。
この異常事態にも関わらず、意外にも人々の営みは日常のままであった。北西に首を曲げたまま、勤め人は会社に赴き、業務に勤しんだ。スーパーのレジ打ちは、ビルの向こうに僅かに覗く神の頭を時折気にしつつも、指先は正確にキーを叩いた。北西に向かう飛行機のパイロットは、時速九三〇キロメートルで追走する神の天頂を雲の下に感じながら目的地を目指し、地下鉄に乗る人々は神を見ることなく中吊り広告のゴシップ見出しを眺めていた。人々はパンで生きているため、経済活動をストップさせることはできない。
しかし、翌日になって事態は一変した。信頼篤き偉大な霊能力者であり天文学者であるムハンマド・アリスラが、自身のブログを通じて世界にこんなメッセージを送ったのである。
「信じられない。全宇宙の過去、現在、未来が記されたアカシックレコードが書き換えられようとしている。地球は今、並行宇宙の一つと重なってしまった。別次元の世界と、だ。これから奇妙な出来事が起こりはじめるだろう。地上の至る所で。それがどういうものであるか。残念ながら私にもわからない」
並行宇宙。パラレルワールド。高次あるいは低次に存在している別の世界が、冗談めいた偶然でこの次元に出現してしまったらしい。人々はその意味を今一つ理解できなかったが、そのメッセージが信頼できることだけはわかった。なぜなら預言はすでに的中していたからだ。
イラクでは西の昼空が真っ赤に染まり、無数の飛行機の飛ぶ音だけが聞こえてきた。ペルーでは地上絵の蜘蛛が一夜のうちに巨大な巣を張った。オランダでは運河に巨大な魚のうごめく影が映り、人々の目前で忽然と蒸発した。これらはニュースに取り上げられたものであり、ニュースにものぼらない事件は今もどこかで起きている。例えば、重慶市に住むヤン・スーは、鏡に映った自分に舌を出された。カリフォルニアでサーフィンを楽しんでいたエリック・カレンは、沖へと押し寄せるビッグウェーブに乗ってまだ帰ってきていない。日本の鈴木酒店では、カップ酒を盗む河童が防犯カメラに記録された。珍事、怪異、超常現象は時を追って増加し、びっくり箱が仕掛けられた日常に人々は戦々兢々としながらも、なんとか普段の生活を続けようとしていた。日常と非日常のあわいがだんだんと溶け始めていた。
こうして〈なんでもありの現実〉という舞台が、我々の眼前に用意されたのである。
*
ある夜。ふいに目を覚ましたエレナは、隣のベッドで眠っている息子に顔を向けた。カーテン越しの月明かりに浮かび上がった六歳の息子は、夜目にもうっすらと透けて見えた。
「ボブ! ボブ! 起きなさい!」
ベッドから跳ね起きた彼女は、子どもを揺り起こした。が、なかなか目を覚まさない。その間にも、子どもはゆっくりと透けていく。
「……う、ん、ぼく眠いよ、ママ」
ぼんやりと目覚めた子どもは、顔をしかめて母親を見る。
「大丈夫? 苦しくない? 何か欲しいものある?」
彼女は子どもの額を撫でながら、震える声で話しかける。
「……お水飲みたい。冷たいの」
彼女は子どもを抱きかかえると、部屋を出て冷蔵庫へと向かった。抱き上げた子どもの思いもよらぬ軽さに、彼女の目から涙が溢れ出る。
子どもを抱いたまま冷蔵庫の扉を開け、冷えたポットの水をグラスに注ぐ。子どもはどんどん軽く、薄くなっていく。
コップを口に持って行くと、子どもはそれを両手で持ち、コクコクと飲み始めた。そして、子どもはゆっくりと消えていった。
床に転がり落ちたグラス。水に濡れた青いパジャマ。母親は息子のパジャマを抱きながら、繰り返し名前を呼んだ。まだ、ここにいるような気がする。見えないだけで、ずっと一緒にいるような気がする。しかし、濡れたパジャマには息子の重みも体温もすでに感じられない。
「どこに、どこに行ったの……」
パジャマの背中には、細長い楕円形の穴が二つ空いていた。母親が切り抜いたのである。それは、息子の背中に生えた小さな翼を通すための穴だった——。
ある日突然、子どもの背中から翼が生えてくる。翼の生えた子どもは、やがて忽然と姿を消す。それはあの日以来、耳目を惹くような怪事に隠れ、こっそりと世界中で起こり始めていた。人々はそれを「天使になって天に召される」と言った。神の出現と併せて考えれば、至極理解しやすい道理である。
が、いざ自分の子どもを失った人々にとっては、道理も条理もあったものではない。あるのは我が子を突然喪失したという事実のみ。現実が奇妙にずれてしまった今も、親が子を想う気持ちは古来変わるところはない。子を失った親は叫ぶ。
「この世に神などあるものか」
神隠しを端に、次第に世を綾なすような現象が増え始めた。牛ほどもある毛むくじゃらの赤蜘蛛に追われた男性。朝の来ない街路に迷い込んだ女性。公園で掘り起こした鬼に投げ飛ばされた老人。邪魅がぬるりと空間から現れ、人々にちょっかいを出すようになってきた。地球と重なった異次元の存在が、こちら側の存在に気づき、本来の悪意を振りかざしてきた。
何が起こるかわからない。それは人々にとって最大の恐怖となった。巨大地震を待ち受ける気分よりも、さらに自分事としての恐怖。それは自室におとなしく閉じこもっていても何の安全も保障されない。むしろ人と関わり、日常生活を保っていたほうが安心できた。道々には警官が配備され、角々には子どもを守る保護者の姿があったが、何とか日々の営みは継続していた。今まで通りの日常を存続させることは、神経の拠り所であり、かつての現実との絶ち難い接点であった。
しかし、異界はそんな人々の想いとはまったく別の原理で動いていた。異界は世界を呑み込もうとしているのか。それとも共存しようとしているのか。それは誰にもわからなかった。とにかく、現象として立ち現れてくることを、世界はただ呆然と眺めているしかなかった。
気がつけば、どの街にも「あちら側」が築かれていた。
*
午後十時半。マサエは火にかけたビーフシチューをかき混ぜながら、夫の帰宅を待っていた。カウンターキッチン越しにリビングのテレビをちらちらと眺め、過ぎゆく今日を思い、快い疲れに身を委ねる。子どもたちを寝かせつけたら、ひとまず母親としての一日が終わる。結婚して十二年。専業主婦歴は十年を迎えた。世間並みで平凡で慌ただしい暮らし。しかし、そこそこの幸せは感じている。子ども中心に回る毎日。それは人生で考えればとても短いもので、今しか——
「ああああああーーーーー」
突然耳に飛び込んできた声に欠伸を飲み込む。子ども部屋からだ。慌てて駆けつけ扉を開ける。五畳半の部屋に敷き詰められた布団。廊下から入り込む明かりが、眠ったまま眩しげに眉間を寄せる娘を照らす。その隣の暗がりに、布団の上にちょこんと正座している息子がいた。
どうやら寝ぼけているらしい。目を閉じ、健やかな寝息を立てている。
マサエはこの五歳の息子をとりわけ愛しく感じていた。想いの根は出産時のエピソードにあるのかもしれない。息子はこの家で生まれたのである。自宅出産を準備していたわけではない。病院に間に合わなかったのだ。トイレで産み落とし、血まみれの赤ん坊を胸に抱き、漸くか細い産声を聞いた時、彼女は彼の生に心から感謝した。彼自身の生きる力に。諦めることなく生まれ出てくれた魂に。そしてこの親子を守ってくれた何者かに。
正座したまま眠っている息子を抱きかかえ、布団に寝かそうとしたときである。息子の背中を支えた左手に違和感を感じた。マサエはそっと息子を俯せにすると、パジャマの上着をゆっくりと捲り上げた。
翼が生えようとしていた。
肩胛骨の盛り上がった部分に、小さな白い翼がくっついている。ほんの三センチくらいの突起であったが、それは明らかに生まれたばかりの翼に違いなかった。翼は僅かに羽毛を生じ、呼吸に合わせて上下している。その反動で今にも巨大な翼が飛び出してきそうだった。
マサエは頭の中が真っ白になり、気を失いそうになった。布団の上にへたり込み、右手は忌まわしい翼を撫でさすっていた。その時、ふいに息子が口を開いた。
「おかあさん、ぼく、いなくなってしまうん?」
その意外な言葉を理解する前に、マサエの眼からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。背中越しに息子を抱きしめ、子どもの耳元でやさしく囁く。
「そんなことあらへんよ。どこにも行くわけないやんか。あんたまだ幼稚園やろ。明日も幼稚園あるやろ。早よ寝なあかんやん」
必死で涙を押し殺したが、声は震えた鼻声になっていた。おかあさん、ぼく、いなくなってしまうん?——その言葉が頭の中で何度も繰り返される。ぼく、いなくなってしまうん……
気づけば胸の下、息子は再び眠りに落ちていた。マサエは体を起こし、しばらく呆然と、俯せにしたままの息子の横顔を眺めていた。
「おい、どないしたんや」
いつの間にか、夫のトモユキが帰ってきていた。振り返ったマサエの表情に、トモユキの顔が険しく曇る。
「ユウキになんかあったんか」
マサエは何も言わず、またゆっくりと、息子の上着をめくり上げていった。
夫婦は一睡もせずに朝を迎えた。しかし、この状況をいっそ夢にしてしまう方法は見つからなかった。トモユキは慌ただしく会社に出掛ける仕度をした。子どもたちはまだ眠っている。
「とりあえず、ユウキには誰にも翼のことを話さないように言うといて。フミエにもな。俺は仕事の合間をみて情報を探してみるわ」
マサエは腫れた目でトモユキを見送った。なんとかしなければ、という想いと、どうにもならない、という諦めが、交互に頭と胸を行き来した。マサエは玄関のドアを閉めると、冷たい水で顔を洗い、キッチンで子どもの朝食の準備をし、午前七時五分、子ども部屋の扉を開けた。
「朝やでー。起きやー。今日も小学校と幼稚園あるよー」
眩しそうなしかめ面で起きてきたフミエとユウキ。
「ほらほら、早よ朝ご飯食べて学校行く用意してー」
ぼくもガッコウ行くん?、と戯けてちゃちゃを入れるユウキ。その言葉が一瞬、昨夜の言葉と重なる。そこから先を打ち消すようにマサエは言う。
「そんな屁理屈言うてたら、河童になってまうで」
カッパだカッパ、カッパッパー、と寝起きからテンション高く振る舞う息子。もしかすると、昨夜のことは憶えていないのかもしれない。
「おかあさん、ユウキにちゃんとご飯食べや言うたら、なんか蹴ってくんねん」
十歳の娘は、そう母親に訴える。まさにいつもの朝の光景だった。フミエは小学校四年生で、外では優等生タイプ。そして、美しい少女だ。つんと澄ましていれば美少女と評価されるのであろうが、おちゃらけた弟の性格に強く影響され、家の中では五歳下の弟と同じレベルで楽しんでいる。基本的には非常に仲の良い姉弟である。
母親の怒号が鳴り響き始めた頃、ようやく子どもたちは朝の仕度を終え、午前八時十分、二人は小競り合いをしながら玄関へと向かった。マサエはフミエを先に玄関の外に出し、ユウキの肩を抱いて真顔で切り出した。
「ユウキ、昨日の晩、目ェ醒ましたこと憶えてる?」
「うん、おぼえてるよ。ぼく、ツバサはえてきたんやろ?」
「それ、誰にも言うたらあかんよ。お姉ちゃんにも。わかった?」
「うん、わかった。じゃあ行ってくる。いってきまーす」
ユウキの元気な姿が扉の向こうに消えた。それはいつも通りの朝であった。そして、その〈いつも通り〉は、マサエの必死の形相の上に成り立っていた。
子どもを送り出した瞬間、マサエは玄関に座り込み、嗚咽を上げた。
フミエの小学校とユウキの幼稚園は隣り合っていた。幼稚園の始業時間は小学校よりも遅かったが、幼稚園児たちにとっては朝の〈0時間目〉が最も楽しい遊び時間として定着していた。
家から五百メートルほどのその道すがら。
「ユウキ、ほんまにいなくなってしまうん?」
フミエが少し歩く速度を落として話しかけた。
「あれ? おねえちゃん、知ってんの? おかあさんから聞いたん?」
「昨日の夜、お姉ちゃん起きててん。そやから知ってんねん」
ユウキは悲しそうな口ぶりをつくり、答える。
「ツバサがはえてきてんて。テンシになってまうやろ? ツバサはえたら」
「うーん、そうやなあ」
しばらく無言で歩く二人。季節は秋の半ばに差し掛かり、枯れ葉を踏む音だけが響いている。
「お姉ちゃん、ユウキがおらんようになったらイヤやな」
フミエは下を向き、いい音をたてそうな枯れ葉を選んで踏んでいく。
「ユウキ」
「なに、おねえちゃん?」
フミエは立ち止まり、前を見つめたまま言った。
「その翼、取ってもらおか——」
朝のワイドショーのトップは、今日も神隠しの話題だった。街の向こうに「あちら側」が現出して以来、ふざけた物の怪が出没する回数は日増しに増えていた。が、人々の関心は自ずと神隠しに向けられた。それは我が子を持つ親、我が孫を持つ祖父母にとって、現実的な恐怖だったからである。
テレビには子どもを失った親が登場し、経緯を涙ながらに語っている。取材は海外にまで及び、多種多様な事例が報告された。その過程でわかってきたことは、
「現時点で一〇二七例が世界中で確認されている」
「年齢は三歳から七歳児に集中している」
「男女は問わない」
「翼が生えてきてから消滅してしまうまでの時間はまちまち」
「翼は骨で肩胛骨と繋がっており、切り離すことにはリスクがある」
「たとえ翼を切り離しても、子どもは消えてしまう」
「翼は自らの意志で動かし、羽ばたくこともできる」
「一週間で翼の全長が約二メートルまで成長した例もある」
などである。この他にも、「無数の天使が神様の周りを飛び交っているのを見た」と証言する人もいた。これは世界で三二例報告されている。
番組のゲストコメンテーターは、日替わりで、霊能力者、宗教学者、神学者、星占い師、サイコセラピスト、子どもを持つ女優などが登場し、それぞれの持論を述べていた。
霊能力者曰く。
「ぼんやりとしか見えませんが、子どもたちは一箇所、同じ場所にいるようです。そこには巨大な怪物——悪魔みたいなものでしょうか、がいて、子どもたちに何かを指示しています。子どもたちはまだ生のエネルギーを放っています。生きている、ということですね。しかし、その先はまったく見えません」
宗教学者曰く。
「この現象は仏様の来迎図に似ているんですよねぇ。周りを飛び交うという童子は、宗教学では非常に重要なものでして、この世界と神仏の世界——つまり聖なる領域ですね、それを結ぶ存在なわけです。子どもは異界から来た両義的存在と言えます」
「で?」
神学者曰く。
「これは三位一体の教義を具現化したものと考えられるでしょう。父なる神、子なるイエス・キリスト、使徒としての聖霊。おそらくイエス・キリストの再臨を予告する現象なのでしょう。天使はその媒介であり祝福する者として登場したのでしょう。目の前の奇跡は、この世が愛に満ちた世界として再構築されることを示しているのでしょう」
ここで出演の曜日を越えて女優が叫んだ。
「仏だか神だか知らないけど、子どもを奪うなんて何考えてるんだか。あそこに突っ立っているのは神様なんかじゃなくて悪魔よ!」
マサエはテレビを消し、リビングのソファで少し横になった。誰の意見も今は聞く気になれない。我が子が天使となり、裸で冷たい秋の空を飛んでいる姿を思い浮かべると、もうすでにユウキが逝ってしまったような錯覚に囚われる。それでもユウキは跳び続ける。幼い翼を懸命に羽ばたかせ、親の言い付けを守る健気な子どものように。空はすでに薄暮に包まれ、淡い夕焼けの中を烏が鳴きながら飛んでいく。可愛い七つの子の元へ。いつしかマサエは烏に姿を変え、彼方に聳え立つ巨人に向かって猛スピードで飛んでいた。巨人の周りには翼の生えた裸の子どもたちが舞っている。そこに我が子の姿を見る。マサエは速度を上げて飛ぶ。しかし巨人は同じ速度で逃げていく。その原則の壁を打ち破るべく、マサエは肉体を脱ぎ捨て、流線型の魂となって天翔る。天上から夜闇が降り、巨人の姿はその帷に隠れ去っていく。が、近づいている。あと少し。あと少しだ。光速で風を切る音が耳の奥に響く。ヒュルルルル。ルルルルル。ルルルルル……
電話の鳴る音に眠りを遮られ、マサエはソファから飛び起きた。慌てて受話器を取る。
「フミエちゃん、学校に来てないんですけど、どうかされました?」
小学校の担任からの電話だった。時計を見ると、午前九時四〇分を示している。一時間ほど眠ってしまったようだ。
「え、朝はちゃんと登校しましたけど。弟と一緒に」
まさか。マサエは突如胸騒ぎを覚えた。その時、電話にキャッチホンが入った。
「あ、ちょっと待ってくださいね。キャッチが入ったみいなので」
マサエは不安を通り越した恐怖を感じながら電話を切り換える。それは幼稚園の先生からの電話だった。
「ユウキくん、今日は幼稚園お休みですか?」
トモユキは山と積まれた仕事を完全に無視して、インターネットの情報検索に没頭していた。プランナーという仕事柄、その姿は幸いにも周囲の不信を招くことはなかった。
子ども。翼。神隠し。
このキーワードで検索してみる。検索結果は四万六千八百件。上位のほとんどは今回の出来事を記したものに過ぎなかった。が、ひとつ、興味深い記述を見つけた。
「七歳以前の幼児はまだ完全な人間とはなり切っていません。未熟な幼児がいつ異世界へ連れ去られるかわからない、という大人の懼れが、神隠しのような観念を形成しているのです」
突然異界が出現したことに対して、親はまず子のことを心配する。その想念が固まって、神隠しを現実化させてしまったのか。
しかし、このような記事に今は引っ掛かっていられない。とにかく、翼の生えた息子を救う方法を見つけなければ。
子ども。翼。神隠し。救う方法。
この検索結果は二十七件。「千と千尋の神隠し」に関する古い記事が多くあった。それらを読み飛ばして進むうちに、トモユキは奇妙な詩ばかりがアップされているブログに行き当たった。
もしも翼が生えたなら、子らは偽神に召されらい。
魔に間に忍びし神隠し、あちらの婆々が救いてや。
されどあちらに通う者、この世の条理を捨てし者。
勇気はあるか智はあるか、死となり血となり隣り合い。
けだし定めにつながらば、今宵あちらに来らいじゃい。
その時、スーツの内ポケットに入れていた携帯電話が震動した。妻からの電話だ。急いで通話ボタンを押す。
「フミエとユウキがいなくなったって。どうしよう」
トモユキはデスクもパソコンもそのままに、鞄を持って会社を飛び出した。
*
フミエはクラスメートからその話を聞いた。その子は暗く目立たず、時折中空の何かを見つめているような目をして、周りから気味悪がられていた。陰ではサダコと呼ばれていたが、本名はミカと言った。
「あっちの街に髭の生えたお婆さんがいて、翼を取ってくれるんだって」
数日前、帰り支度をしていたフミエに突然ミカが話しかけてきた。フミエは訳が分からず、「あ、そーなんだ」と応えて、早々にその場を離れた。
しかし今、フミエはその言葉を信じ、頼っていた。手をつなぎ楽しげに歩いているユウキを伴い、フミエは「あちら側」に向かっていた。
あちら側。それはこの世界と地続きになっている異世界のことである。間も入り口も定かではなく、人は思いがけずそこに迷い込んでしまう。気づいてすぐに、まったく同じ道を引き返せば、元の世界に戻って来られる。あちら側は街々に存在している。通り慣れた道で違和感を覚えた時は、間違いなくあちら側に入り込んでいる。知らない路地を選択すれば、ほぼ確実にあちら側へ辿り着く。入り口は人それぞれに異なっているのである。
あちら側。そこでは一体何が起こるのであろうか。今や現実世界でも頻繁に起こっている珍妙な出来事——呂律の回らない犬に話しかけられたり、富士山の火口から五十号の特大花火が一晩中打ち上げられたり、河川と同じ長さの水棲生物が上流の滝を易々と昇ったり、道路が恐るべき速度で動き出し目的地へ一時間も早く着いたり、登校してきた同級生が身長三メートルを越していて赤面していたり、時期後れの地蔵盆が時代錯誤の親子たちで賑わっていたり、大阪城公園の桜だけが突如満開となり寒々しい花見が行なわれたり、遙か上空に支点の知れぬ回転ブランコに乗る人を目撃したり、予てより目撃談の多かった「ちっこいおっさん」が人並みの大きさで道を歩いていたり、など、枚挙に暇がない——よりも、さらに奇怪な現象が溢れているのだろうか。あちら側に行って三日後に帰還した男性が、テレビ番組のインタビューにこう答えていた。
「人が住んでいました」
彼は会社の営業車であちら側に迷い込んだ(もともとこちらの世界でも道に迷っていた)。車は細い路地に紛れ込み、そのうち石畳の古い——中世の異国のような街を走ることになった。左側には白い石造りの家々が建ち並び、右側は二メートルほどの高さの石垣が彼方へと伸びていた。これ以上進むと車幅が道幅を越えてしまうことを予感した男性は、石垣に門のようになった切れ目を見つけ、そこに車を乗り入れた。そして眼前に広がる光景に驚愕した。
十字架。卒塔婆。石塔。御廟。小石。盛り土。そこは広大な墓地だった。広大と言うにはあまりにも広大すぎた。見渡す限り、地平線の向こうまで墓標が群れなしている。そして墓地と言うにはあまりにも節操がなかった。各種各国の墓。死は宗教も国境も越えられるのだろうか。
「あまりここにいないほうがいいよ」
男性は背後から突然話しかけられ、飛び上がるほど驚いたという。振り向くと、黒髪に青い目をした異国の少年がいた。
「早く帰らないと、早く帰れなくなるよ」
後半の意味がわからず、尋き返そうとしたが、ふと違和感を感じて言葉を飲み込んだ。少年の唇の動きと耳に入ってくる言葉が奇妙にずれているのだ。少年はこちらの心の裡を見越したように、口を閉じたまま言った。
「ここは死の国だから」
男性は突然底知れない恐怖を感じ、少年の横をすり抜けて無我夢中で駆けだした。元の世界を目指して。乾いた石畳の道を転びそうになりながらとにかく走った。道々には死者たちが現実の世界と同じように暮らしていた。洗濯物を干すアジア系の女性。郵便物を配るアフリカの男。サッカーボールを取り合う毛色の違う子どもたち。その間を駆け抜け、とにかく走る。口の中に血の味が溢れてきた頃、気がつくと見慣れた景色の中を走っていた。
ほんの一時間程度の迷走だと感じていたが、現実世界では三日が過ぎていた。そして例の如く、彼の髪は銀に染まり、おまけに長い白髭まで生えていたという。
しかし、この話だけで「あちら側」を判断してはいけない。それぞれまったく別の体験をした人も、世界各国に多数存在するのである。
*
「ユウキ、この道行ってみよか」
「うん。でもこんな道通ったことないよ」
「だからええんやんか。知らん道のほうが早よ着くねんで、あっちに」
「あっちってどんなとこ?」
「おねえちゃんも知らんよ。でも、ユウキのハネとってくれるおばあちゃんがいんねんて」
「痛ないかなあ、ハネとんの」
「そら痛いわ。のこぎりでガリガリ切んねんから」
「いややー、やっぱり帰る。怖い」
「嘘にきまってるやん。魔法でとんねん魔法で。すぽん、て」
「ウソや。だってなんか怖いもん。魔法使いのおばあさんやろ。悪そうやん」
「悪ないよ。ハリー・ポッターみたいなもんやって」
「あれ男の子やん」
「ハーマイオニー女の子やん」
「あれおばあさんちゃうやん」
「魔法使いのおばあさん、言うからなんか怖いように思うねんて。魔法使いのおばあちゃん、言うたらええねん」
「きゃはは。魔法使いのおばあちゃん。なんか可愛いな」
「そやろ。魔法使いのおばあちゃんに早よハネとってもらお」
「おねえちゃん」
「なに?」
「いっしょにハネとりに行ってくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。おねえちゃんもユウキおらへんようになったらイヤやし」
「でも、いつ消えてしまうんかわからへんねやろ?」
「まだ大丈夫やわ。朝やし」
「朝は大丈夫なん? お昼は?」
「お昼も大丈夫。お日さまパワーがあるから」
「夜は?」
「お星さまパワーで大丈夫」
「ほんならずっと大丈夫やん」
「そやで。でもあんまり遅なったらおかあさんとおとうさんが心配するから、早よおばあちゃん見つけてハネとってもらおな」
「魔法使いのおばあちゃん、な」
*
トモユキが家に着いたのは午前十一時過ぎだった。部屋に入るとマサエは携帯電話で誰かとしゃべっていた。
「うん、そう、とりあえずどこかで見かけた人がおったら教えて。忙しいのにごめんね。じゃあ、よろしくお願いします」
マサエは知っている限りの〈ママさんネットワーク〉を駆使して、子どもたちの行方を追っていた。
「なんかわかったか?」
「まだなんにも」
「警察は?」
「言うた。今探してくれてると思う」
それにしても——。フミエとユウキが一緒にいなくなってしまうなんて、いったいどうなっているのだろう。神隠し? いや、それは翼の生えた子どもだけのはずだ。フミエまでいなくなるなんて。ユウキはまだ消えてしまっていないだろうか? いや、まだ大丈夫だ。あの程度の翼では。
あの程度の翼——。それでも翼は翼だった。ふと先日のニュースを思い出す。外科手術で翼を取り去った親子の話。翼はなんとか切除できた。ステンレス製の骨切断器具でカットしたのである。しかし翌朝、その処置を嘲笑うかのように歪な形の翼が生えてきて、子どもは病院のベッドから眠ったまま消えてしまった。そして母親は病院の窓から見た。白亜のマリア像のような巨人。その周りを飛び回る天使たち。その中に、よたよたと上がったり下がったりしながら懸命に翼を動かしている我が子の姿を。
翼は証なのである。神と呼ばれるものが刻印した。その一方的な約束は必ず守られる。約束の履行時間は神のみぞ知る。
とにかく今は、一秒でも早く二人を見つけることが先決だ。しかし、どうやって?
トモユキがパニックに陥っている時、予告もなく電話が鳴った。マサエは携帯電話で誰かとしゃべっている。家の固定電話だ。トモユキは受話器を取る。
「はい、ムラカミです」
受話器の向こうから、女の子のすすり泣くような声が聞こえてきた。
「もしもし、フミエ? フミエか?」
一瞬の期待の後、女の子が泣き声で答えた。
「あの……わたし……フミエちゃんと同じクラスの……スギノっていいます」
スギノさん? トモユキが知っている限り、フミエがいつも遊んでいる友だちではなかった。トモユキは直感的に尋ねた。
「スギノさん? もしかしてフミエがどこにいるか知ってるの?」
スギノミカは一瞬の逡巡の後、何かを吹っ切るかのように声を大きくして答えた。
「あっちの街に、たぶん、行ったんやと思います」
「あっちの街に? なんで?」
「あたしが言ったんです。あっちの街に、翼をとってくれるおばあさんがいるよ、って」
受話器の向こうがまた泣き声に変わった。
「それ本当? あっちの街に行けば翼をとってくれるおばあさんがいるの?」
「……わからへんけど、なんとなくそう感じたから。ウソついたつもりじゃないけど、あたしのせいやと思って……」
スギノミカは号泣しはじめた。とにかく子どもたちの行き先はわかった。トモユキはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「ミカちゃんはなんでウチの電話番号わかったの? 先生に尋いたの?」
「今朝学校に来たら、机の中にフミエちゃんからのメモが入ってて、これから弟の翼をとってもらいにあっちの街のおばあさんに会いに行くって。で、もし何日も帰ってこないようやったら、ここに電話してって」
トモユキの中にまた焦りが込み上げてきた。早く行かなければ。
「ミカちゃん、連絡くれてありがとうね。今から探しに行くから、ミカちゃんも心配せずに待っていてあげてね」
その時、
「あっちの世界は怖いから、おじさんも気をつけて」
スギノミカのその声はまるで別人のように低く響いた。そして電話は切れた。受話器を握るトモユキの腕には鳥肌が立っていた。気がつくと、マサエがすがるような目でこちらを見ている。電話の内容を理解したのだろう。
「フミエとユウキはあっちの世界に行ったらしい。すぐに連れ戻してくる」
トモユキは受話器を置き、そのまま玄関へ向かおうとした。その手をマサエが掴む。
「止めるな。早よ行かなあかんねん」
マサエは母親の顔で答えた。
「誰も止めへんよ。早よ連れて戻ってきて。でも何があるかわからへんから、手ぶらで行くんはやめて」
マサエはユウキが使っているリュックに、手当たり次第に恐るべき速度で様々なアイテムを放り込んだ。食塩の瓶。ミネラルウォーターのペットボトル。ナイフとフォークを何本か。オロナインH軟膏。財布。などなど。
「無事みんなで帰って来てくれな、絶対あかんねんから」
マサエはそう言うと、トモユキの唇にキスをし、夫と父親を送り出した。
*
路地の両側には木造平屋の住居が連なっていた。軒先には石造りの溝が通り、澄んだ水がさらさらと流れている。ユウキは物珍しげにその流れの底を覗き込みながら歩いている。金魚でもいるのだろうか。フミエはここがもう別の世界であることを雰囲気で感じていた。ここはどこからも車や工事の音が聞こえてこない。人の声もない。街中にこんな場所はあるわけがない。それは夢の中で夢であることに気づいたような感覚だった。ユウキは走ったり止まったりを繰り返しながら、水の流れと遊んでいる。無邪気なものだ。あっちの世界に来てしまったというのに。逆にその無邪気さが、フミエの救いにもなっていた。おバカな弟が一緒だから、こんな所に来ても怖さをあまり感じなくて済むのだ。そしてフミエは、ちょっとだけ母親代わりになったような気持ちになる。
「ユウキ、ふざけてたら溝にはまるでー」
その時、四つ辻から突然男の子が飛び出してきた。フミエの目の前である。男の子はユウキと同じくらいの背丈で、浴衣のような碧い着物を着ている。足元は草履履き。手には風車まで持っている。どう見ても昔の子どもだ。そして顔は狐にそっくりだった。
驚いて声の出ないフミエの代わりに、狐子が口を開いた。
「これこれ、お前たち。ここは人間どもが来るところではないぞ。今すぐ来た道を引き返してお帰りなされ」
細く吊り上がった目とおちょぼ口、真白な顔。声は子どもそのものであった。
フミエはその仰々しい物言いと声との落差に唖然となった。が、なぜか怖くは感じなかった。ユウキと同じくらいの子どもなのだ。
「あの、私たちも早よ帰りたいんやけど、弟のハネをとってもらうまで帰れないんです」
「ハネ? ハネって背中に生えるあれか? もしやあのガキに?」
狐子は興味津々の表情で(目が若干開いたくらいだが)ユウキに顔を向けた。ユウキは溝の流れに右手を突っ込み、何かを掴もうとしている。フミエは狐子に尋ねた。
「ハネをとってくれるおばあさんのこと知ってますか」
狐子は狐に摘まれたような顔でフミエの顔を見た。
「オバーサンてなに?」
「なに、って言われても。おばあさんは年取った女の人やん」
「トシトッタってなに? オンナノヒトってなに?」
フミエは答えかけそうになった口を閉じた。もしかして。
「ここって、あなた一人しかいーひんの?」
「イーヒンてなに?」
「いないの、ってこと」
その途端、狐子の吊り上がった細目から堪えていたかのごとくポロポロと涙が滴り落ち、コーンコンコンと大声で啼き……いや泣き始めた。
「みんな……みんな喰われてしまったんだ……でっかい黒鬼に……」
「く、クロウニン?」
「クロオニだ黒鬼。あっちからやってきて、友だちを皆喰ろうてどこかへ消えた……」
事の次第を狐子は短く語った。ここには元々子どもしか住んでいなかったことをフミエは知った。子どもだけでどうやって生活していたのだろう?
「おねえちゃん」
いつの間にかユウキが隣に立っていた。未だ泣いている狐子を怪訝な顔で見つめている。
「こんなサカナとれたよ」
と、右手を差し出した。その手には、潮の香りのする鯛の塩焼きが握られていた。
*
踏み固められた土の上に、短い三つの影が並んで動いている。フミエ、ユウキ、狐子。三人が連れ立って歩いているのである。どういう訳だか、狐子は子狐ような声で「一緒に連れて行ってくれ」と請い、三人の道行きとなった。とはいえ、狐子がおばあさんの居場所を知っているというわけでもない。しかし、有力な情報もあった。狐子が飛び出してきた道の先は深い森につながっており、その森は〈トバズノモリ〉と呼ばれているという。臆病な狐子たちはその森を懼れて一切近づかなかったそうだ。
「トバズノモリって、〈飛べない森〉ってことやんなあ。それってハネがないから飛べないってことちゃうん」
フミエはテレビ番組のクイズに答えるように得意気な顔で、「きっとおばあさん、そこにいるで」と結論づけた。狐子は、言わなきゃ良かった、という表情を浮かべながらも、二人の後を怖々ついてきた。それも束の間、気がつくと三人は、戯れ笑い縺れ合いながら、茫々と雑草の生えた田圃に挟まれた小道を進んでいた。
*
自転車は坂道を上っていた。勾配はますます急になっていく。大阪平野にこんな坂はないはずだ。車輪の回転はついに止まり、トモユキは自転車を降りた。荒い息を繰り返す。血の味がした。中学三年のマラソン大会を思い出す。あの時は、クラスの好きな女の子にいいところを見せようとして頑張った。が、今回はそんな甘ったるい目的ではない。トモユキは十五歳と四十歳の体力の差を感じながら、自転車を牽いて坂道を急いだ。
そこは綺麗に舗装された道路で、両側には戸建ての大きな家が並んでいた。どの家の車庫にも高級車が置いてある。あちら側の高級住宅街というところか。どの世界でも裕福な人は坂のある街に住んでいるものだ。
「トモユキ」
ふいに背後から呼び掛けられ、トモユキは首を百八十度回す勢いで振り返った。
「叔父さん!」
アイリッシュリネンのジャケットとパンツ。鼻の下の整えられた白髭。春を思わせる笑顔の紳士。それは間違いなくトモユキの叔父であった。
叔父は大阪で広告代理店を経営していた。年商百二十億円の中堅企業である。トモユキは叔父のコネで大手電器メーカーに就職した。叔父のクライアント企業である。が、トモユキは上司との折り合いが悪く、一年も経たずにそこを辞めた。それでも叔父は怒ることもなく、別の会社を紹介してくれた。そこも三年ほどで退社し、今度は自分で見つけた小さな広告会社に入社した。その時も叔父は付き合いのある優秀な制作プロダクションや印刷会社を連れてきて、トモユキの仕事をサポートしてくれた。「困ったことがあったらなんでも言うてや」と叔父は言った。トモユキにとっては頭の上がらない叔父であった。確か来年は、叔父の三回忌があるはずだ。
トモユキが口を開く前に、叔父は明るく言った。
「お前、もう死んだんか」
「いやまだ死んでませんよ。て、ここは死後の世界なんですか? 叔父さんは幽霊?」
「幽霊言うな。このとおり、ピンピン死んどる」
叔父は生前と変わらず戯けてみせた。が、すぐに真面目な顔になってこう語った。
深い睡りの奥底でぼんやりと目醒めているような感覚。揺蕩う波に身を任せ漂う安らかな時間。それが死の状態だ。生者の睡りは死の模倣、もしくは予行演習と言えるかもしれない。そんな時のない時間が突然打ち破られた。チクチクする流れが押し寄せてきて、どこかへ流されているのを感じた。それは叫びだしたくなるほど不安と恐怖に満ちていた。堪えきれず目を開けると、ここでこうして暮らしていた……
なんだかおかしなことになってるようだな、と叔父は言った。トモユキは現実世界で起きていることを叔父に話した。ユウキに翼が生えてきたこと、フミエとユウキが翼を取ってもらうために「こちら側」に行ってしまったことも。
「そら早よ見つけなあかん。ここは何が起こるかわからんとこやからな」
叔父はお尻のポケットから携帯電話を取り出すと、アドレス帳を開いて次々とどこかへ電話をかけ始めた。叔父のコネクションは死後も生きているようだ。
*
その森は鎮守の森の如く、こんもりとした緑の山として忽然と現れた。入り口には生木を荒縄で依って設えた鳥居まである。その奥は巨大な楠の群れが天蓋を成し、多種多様な木々が侵入を拒む番人の如く、鬱蒼たる闇を宿していた。その闇を縫い、奥へと続く細い道が伸びている。まるで獲物を呑み込むための舌のように。
「おねえちゃん、いやや、ここ怖い」
ユウキはさすがに尻込みしている。狐子も何者かの襲撃を警戒し、辺りを落ち着きなく見回している。もちろんフミエも怖くないわけではない。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。
「まだ昼間やし大丈夫やって。ちゃちゃっとおばあさん見つけて、早よ帰ろ」
フミエは真っ暗な森の奥を指差して二人を促した。が、ユウキも狐子も動こうとしない。仕方なく、フミエは鳥居をくぐり、すたすたと森に入っていく。体中の勇気を振り絞って。ユウキと狐子も慌ててその後を追う。
暫く歩くと、森の暗さに慣れてきたのか、周囲の様子がよく見えるようになってきた。路傍には背の低い草が生い茂り、緑のグラデーションが波打っていた。その中に赤、青、黄、白、紫、大小の花が咲き乱れている。遠く近くの立木は、上空の青葉を透け梢を抜けて落ちてきた淡緑の光線を受けて雲母にきらめいている。濃い植物の芳香が澄んだ大気を満たし、昔話の森に迷い込んだような不思議な気分になってくる。奥床しき鎮守の森は、ケルトの妖精が木陰に潜む森であった。その美しさに虚を衝かれ、子どもたち一行は無言で森の奥へと歩を進めた。森に酔った子どもたちは気づかなかった。そこに鳥の声も羽虫が葉を移る音も、悪戯な笑みを浮かべて飛び交う妖精の姿もないことに。
「あ、おうちがあるよ」
ユウキが声を上げた。指差す方向、木立の奥に、いかにも森の一軒家、といった風情とはほど遠い、病院の廃墟に似た巨大な建物が聳えていた。
その建物は三階建ての白いコンクリート造りで、外壁には亀裂と蔦が這い、屋根にまで植物が侵入していた。割れた窓には鉄格子が嵌められ、異常に背の高い蘇鉄の葉が一部の窓にしなだれ込んでいる。屋上には発電所で見るような鉄塔が何本か突き出ている。人目を避けるように建てられた実験施設のようだ。
「こ、こわっ」
狐子が声を上げ、ユウキの後ろに隠れる。その異様な建造物にフミエも尻込みした。しかし、屋上の煙突から仄かに立ち昇る煙に気づき、中に人がいることを確信した。ここにおばあさんがいるかどうかはわからないが、ともかく住人に会ってみるしかない。
「あそこ行くよ」
フミエはつかつかと雑草の中を建物に向かって歩き始めた。その時。
森の奥からざわざわと草を分けながら何かが近づいてきた。小枝を踏む音が地響きに掻き消され、辺りの低木がゆさゆさと揺れ始める。何か巨大なものが——それは息を呑む暇もなく、フミエたちの前に姿を現した。
全長三メートルはあろうかという真っ黒な獣が、四つん這いで建物の前に立ち塞がった。
黒鬼。それは顔だけをこちらに向け、真っ赤な唇をにたりと傾けた。鋭い牙がぬめっている。額には二本の白い角。熊のように全身が硬い毛で覆われている。現実世界では滅びてしまったと思われる、禍々しい異形の生き物だった。
誰も足がすくんで動けない。恐怖の叫びすら上げられない。叫んだところで誰が助けてくれるのか。
黒鬼は四つん這いのまま、ゆっくりと獲物の方へ近づいてきた。フミエは反射的に弟たちの前に立ち、獣を睨み付ける。黒鬼は唇の両側を吊り上げ、愉しげに言った。
「みんな喰ってやる」
絶頂に達した恐怖が、フミエの体を動かした。足元に落ちている大きな石を掴み、次々と黒鬼に投げつける。三つ目の石が黒鬼の額に命中した。その瞬間、黒鬼は二本の足で立ち上がり、森中を震撼させるように咆哮した。そして黒鬼が振り下ろした手がフミエを薙ぎ倒し、そのまま片足を掴んで宙高く振り回した。フミエは人形のようにぶらぶらと手足を揺らしている。そのパフォーマンスの後、黒鬼は六本の指でフミエの頭を鷲掴みにし、彼女の左半身を喰いちぎった。真っ赤な血が噴き出し、地面に飛沫き落ちる。辺りにがりがりと骨の砕ける音が響く。
「こらーっ! おねえちゃんを離せーっ!」
ユウキが叫んだ。その顔は恐怖と怒りで真っ赤になっている。黒鬼はユウキを横目で見ると、フミエの頭と胴体を引きちぎり、地面に投げ捨てた。
ユウキの体の奥で、何かが爆発した。その焰は灼熱の痛みと共に背中に伝わった。瞬間、ベリッと音を立てて服を突き破り、巨大な翼が背中から飛び出した。それは金色に輝く天使の翼であった。
ユウキは黒鬼に向かってファイティングポーズをとった。
黒鬼は翼に少し驚いた表情を見せたが、またニタニタと笑みを浮かべ、一歩二歩と近づいてきた。
が、その歩みがふと止まった。黒鬼の視線がユウキの上へ上へと移動していく。同時に、その顔が醜く歪んできた。口元の笑みは消え、顔色は蒼くなっていくように見えた。そして黒鬼が後ずさりを始めた瞬間、その体が恐ろしい勢いで横に吹っ飛んだ。まるで巨大な掌で張り飛ばされたかのように。
黒鬼は倒れたまま、自分の頸元を呻きながら掻きむしり始めた。次から次へと何者かがその頸を締め付けにかかっているらしい。黒鬼はのたうち回り、もんどり打ち、口から大量の白いどろどろとした液体を吹き出し、大きく痙攣した後、ついに絶命した。
その光景を呆然と見つめていたユウキは、急に体中の力が抜け、その場にへたり込んだ。見ると黒鬼の屍は、無数の地を這う蟲へと姿を変え、叢へと逃れて行った。ユウキは立ち上がると、逃げる蟲を片っ端から踏み潰した。怒りのままに、夢中で踏み潰した。
気がつくと、辺りは潰れた黒い蟲と白い粘液で覆われていた。その中に、一塊の肉片が転がっていた。フミエの左手だった。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
ユウキは泣きながら、姉の肉を集め、汚れていない草の上に並べた。
「これも」
狐子も神妙な顔で小さな肉塊を両手に持ち、丁寧に草の上に並べた。
いつの間にか陽は傾き、濃い緑の光が赤みを帯びて、二人とかつて一人であったものを照らしている。二人はこれからのことを考えることもできず、その場に座り込み、泣き続けた。
「こりゃひどいなあ」
背後からの声に二人は振り向いた。そこには、白衣を着た若い男が立っていた。長めの金髪に銀縁の眼鏡。高い鼻。青い瞳。日本人ではないようだったが、言葉は日本語で聞こえてくる。まだ二十歳を過ぎたくらいに見えるその男に対して、恐怖心は湧かなかった。彼は集められた肉片の傍らにしゃがみ込み、一つひとつを子細に眺めながら呟いた。
「うん、まだ間に合いそうだ」
男はフミエの右半身と頭部、左腕を抱え、建物に向かって歩き始めた。唖然とするユウキと狐子に男は言った。
「ごめん、残りの体を持ってきてくれないか。細かいのも全部」
建物の内部は外観からは想像できないほど新しく綺麗に整っていた。廊下を挟んでたくさんの部屋が並んでいたが、どこも扉が閉じられていて中は見えない。男は一番奥の部屋の扉を開け、中に入った。ユウキと狐子も後に続く。
扉の中を見て、子どもたちはまた驚いた。小学校の教室ほどの広さの部屋は、ぎっしりと機械の部品で埋め尽くされていたのである。中央には鉄製のベッドが置いてあり、その周りは工場で使われるような種々の機器で囲まれていた。男はフミエの体をすべてベッドに置くと、部屋中を歩き回ってめぼしい部品を掻き集め始めた。そしてふと顔を上げて言った。
「少し時間がかかるから、君たちは隣の部屋で休んでいなさい」
まだ状況が把握できていない二人は、促されるまま隣の部屋に入った。そこは病室のような匂いが仄かに漂っていた。蛍光灯を点けると、三つ並んだ白いベッドが眩しく光った。きちんとガラスの嵌った窓が少し開いていて、淡い植物の香と涼風が柔らかに忍び込む。ユウキと狐子は一つのベッドに並んで座った。
「おねえちゃん、大丈夫かなあ。あの男の人、お医者さんなんかなあ」
「よくわからんが、悪い奴ではないみたいだ。とにかく任せるしかないだろう」
二人は橙色に染まった窓外を見つめながら黙り込んだ。ユウキの翼も黄昏色に項垂れている。ユウキが何かを思い出したように口を開いた。
「さっきの黒鬼、なんであんなふうになったんやろ?」
まさに鬼の霍乱。頓死した黒鬼は何者かに襲われているようだった。狐子が俯いたまま呟く。
「あれは喰われた仲間たちがやったのだ。みんなこの森で待っていたのだ。黒鬼をやっつける機会を」
「ふーん。すごいなー、あんなでっかい怪物に勝つなんて」
「いやいや、お前だってすごかったぞ。黒鬼に立ち向かおうとしたではないか」
「そんなことしたっけ? 全然おぼえてないわ。まあ、結局なんにもできひんかったけどね」
そう言ってユウキは泣きそうな顔で笑った。狐子もつられて笑った。そのまま二人はまた黙り込む。だんだんと光を失っていく窓の外を眺めながら。
*
「おい、君たち、起きなさい」
突然体を揺さぶられてユウキと狐子は目を覚ました。男が二人の両肩に手をかけている。いつの間にか二人とも眠ってしまったらしい。
「お腹減っただろう。晩ご飯の用意ができたから、こっちへ来なさい」
寝起きのぼんやりとした頭で促されるまま部屋を出て、玄関に近い部屋へ通された。ユウキは部屋に入る前に、ちらりと奥の部屋を見た。あの実験室のような部屋の扉は閉じられ、建物は静まりかえっていた。
招かれた部屋は一時代前の食堂のような広間だった。長方形の白いテーブルが八台置かれ、それぞれに六脚ずつの椅子が並べられていた。部屋の左手にはキッチンが見えている。ソースとニンニクの香ばしい匂いが部屋に充ち、子どもたちの食欲を刺激した。
「こんな場所だし男一人のやもめ暮らしなものだから、たいしたものは用意できなかったんだけど」
机の上には、二つの大きな陶器の皿が置いてあった。その上には、ハンバーグにスパゲティ、チキンナゲット、ピザ、エビピラフ、そしてレタスとプチトマトが盛られていた。ほとんどが冷凍食品である。が、そんなことは気にせず、空腹の二人は椅子に座るやいなやフォークを片手に好きなものから食べ始めた。狐子は(果たしてハンバーグなど食べたことがあるのかどうか定かではないが)手づかみでむしゃむしゃと美味しそうに食べている。思えば子どもの好きそうなものばかりである。
男は満足そうな笑みを浮かべながら、子どもたちを眺めている。手に一斤の食パンを持ち、それを小さくちぎって食べている。スパゲティをフォークに大きく巻きつけながら、ユウキは男に尋いた。
「おにいちゃん、なんでこんなところにいんの?」
男は唇でキュッと笑みをつくると、こう答えた。
「ちょっと逃げてきたんだよ。あっちの世界から」
「え、おにいちゃんて、もしかして人間?」
ユウキが驚いて尋ねる。男はおかしそうに答える。
「そう、人間だよ人間。人間の世界にいられなくなった人間さ」
男は少し寂しげに微笑んだが、ユウキにその微妙な表情はわからなかった。男の唇の動きと発声される言葉に違和感があったが、それはさほど気にならなかった。とにかくイノチノオンジン、てやつだ。とユウキは思った。その時、ハンバーグを口に運ぼうとしていた手がぴたりと止まった。そうだ!
「おねえちゃんは?」
男は食パンを二つに裂きながら答えた。
「大丈夫。今、処置してるから」
「ショチって?」
「元通りに直してる、ってこと」
そう言いながら、二つに裂いたパンをまたくっつけて見せた。その時、ユウキの脳裏に引きちぎられた姉の姿が浮かび上がった。ハンバーグが刺さったままフォークを皿に戻す。男はテーブルに身を乗り出し、ユウキをじっと見つめて言った。
「そう心配しなさんな。明日の朝には会えるから」
突然、ユウキの眼から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。麻痺させていた感情が一気に緩み、五歳児の感覚が押し寄せてきた。おねえちゃんがいないとさびしい。おねえちゃんがいないとこわい。おねえちゃんがいないとあそべない。おねえちゃんがいないとどこにもいけない。おねえちゃんがいないと、かなしい……。
えぐえぐと泣き出したユウキを元気づけるように男は言った。
「こらこら泣いてないで、ちゃんと食べなきゃ。君たち、おばあさんを探しに来たんだろ?」
ユウキは驚いた。
「なんで知ってんの?」
「だって、それ」
男はユウキ越しに背中に目をやってそこを指差した。
「翼を取ってもらうんだろ、おばあさんに。何人か君と同じ翼を持った子どもに道を尋かれたよ」
今度はユウキがテーブルに身を乗り出した。
「おばあさんどこにおるか知ってんの?」
男は窓に目をやり、その向こうの夜を見ながら呟いた。
「まだもう少し先だよ。この森を抜け出る辺り。おばあさんはそこにいるんだ」
そしてまたこちらに向き直って微笑んだ。
「だから、たくさん食べて元気つけとかなきゃ」
ユウキは少し元気が出てきた。明日はおねえちゃんに会える。そして一緒におばあさんに会いに行くんだ!
「おかわりならまだあるからね。と言っても、冷食をチン、だけど」
「おかわり!」
叫んだのは狐子だった。
*
プーンという音と震動でユウキは目覚めた。どこかで大きな機械が唸っているような音だ。狐子は隣のベッドでまだ眠っている。
ユウキはベッドを降り、部屋を出て、音の聞こえてくる方へ向かった。そこは姉のいる部屋に違いなかった。
ユウキがドアノブに手を掛けた時、扉が部屋側に開き、男がぬっと出てきた。その顔を見上げてユウキは後ずさった。男は別人のようだった。一夜のうちに頬は痩け、目の下が黒くなり、髪はざんばらに乱れていた。が、目からは爛々とした光が溢れている。
「ああ、ちょうど良かった。今君を呼びに行こうと思ってたんだよ」
その声に抑揚はなく、男の目は遠いところを見据えていた。ユウキは男の横をすり抜け、部屋に入り込んだ。
鉄のベッドの上に、フミエが横たわっていた。ごちゃごちゃとした線がフミエを取り囲んでいる。ブーンという音が微妙に高低を変えながら部屋中に鳴り響いている。ユウキは恐る恐るベッドに近づいた。
「ユ……ウキ……」
おねえちゃんがしゃべった! 生きてるんだ! ユウキはベッドに駆け寄った。そして——
*
信頼篤き偉大な霊能力者であり天文学者であるムハンマド・アリスラは、アカシックレコードに奇妙な雑音が入っていることに気づいた。それは歴史への人為的介入を示すものであった。が、どこかしら無機質な響きに違和感を覚えた。その響きの中には、助けを求める叫びのようなものが時折交差していた。彼は全神経を集中させ、その雑音の奥へと潜っていった。注意深く、獣めいた光る眼で、音の粒子を観想し、追いつめる。そして彼は見つけた。この異次元を造り出しているものを。
「信じられない……まさかこんなものが……」
*
叔父の携帯電話が黒電話の着信音で鳴った。
「ああ、はい、わかりました。そこにあるんですね。あ、行き方とかわかります?」
叔父は誰かと話しながら道の先を見つめ、指で家を何軒か数えた後、トモユキを振り返り、右手でOKサインをつくった。
携帯電話を切った叔父は、温かな微笑み——そういえば、いつもこんな顔をしていたっけ——を向け、トモユキに問い掛けた。
「トモユキ、お前はいま幸せか?」
「幸せどころか、大不幸ですよ、フミエもユウキもいなくなって」
「いや、そこからやない。ここへ来る前のことや」
ここへ来る前——それは幸せだった。いや、ここへ来る前は幸せかどうかなど考えたことはなかった。しかし今は思う。子どもたちがいて、妻がいる。その最小宇宙は、存在そのものが幸福であることを。日常が通常となり、普段は幸福など気に留めなくなる。幸福は無意識のうちに当たり前の日常に転化され、人は幸福を感じることよりもそれを侵されぬよう腐心することに努めるようになる。そこから生まれるのが、ぼんやりと世界を覆っている不安や恐怖である。幸福を守るがために不幸を恐れる。不幸が現実になった時、人は幸福を思い出す。
トモユキは言った。
「幸せですよ、すごく。今は心からそう感じます」
その答えに叔父は肯いた。
「よし、じゃあ行ってこい。フミエとユウキを連れ戻し、決して手放さないために」
子どもたちは別の場所にいる。別の世界、と言ってもいいだろう。が、すべての世界は繋がっている。ここからその世界に行く入り口がある。三軒向こうの家の裏に、小さな池がある。それが入り口だ。
「フミエとユウキのことを想いながら、その池に頭から飛び込め」
「わかりました、ありがとうございます」
トモユキは駆けだした。そして一旦立ち止まって振り返った。
「叔父さん、またどこかで会えますか」
「ああ、会える。夜中に枕元に立っといたるわ」
叔父とトモユキは笑った。
「それじゃあ、また」
再び駆けだす。その後ろ姿に叔父が叫んだ。
「風邪ひかんようにな。水冷たいぞ」
*
ベッドに裸で横たわるフミエを見て、ユウキは言葉を飲み込んだ。
フミエの身体は、半分機械になっていた。
首には鉄輪が嵌められ、頭部と胴体を繋いでいる。額の真ん中と右の頬に大きな穴が開き、そこには小さなバネを幾つか組み合わせた部品が埋め込まれている。顔の左半分は鼻と口を除けて鋼鉄のマスクが打ちつけられ、丸く開いた穴からフミエの左目が見えている。左半身はすべて機械になっている。左手は元に戻せなかったのだろう。機械の手と足は、鉄パイプとワイヤーが幾筋か組み合わされ、関節部分には大きなボルト、後は適当に調達してきたような統一性のない部品で造られていた。が、手の指はきっちり五本あり、カチャカチャと音を立てながら動いている。胴体の表面は成型した鉄板を何枚か貼り合わせたもので覆われている。中身がどうなっているのかはわからない。中からは歯車が触れ合い、自転車のチェーンが回っているような音が聞こえている。
フミエは目覚めていた。ユウキの方へ顔を向け(ギギーッと音をさせながら)、微笑みかける。
「おねえちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。なんだか体が重くて変な感じがするけど」
そう言ってフミエはゆっくりと体を起こした。ベッドに上半身だけ起こし、両手を前に持ち上げて眺めている。指を握ったり開いたりを暫く繰り返して、言った。
「おねえちゃん、ロボットになってもた」
「立つことも歩くこともできるよ。ゆっくりだけどね」
知らぬ間に男がユウキの後ろに立っていた。顔つきは少し穏やかになっている。一晩中、フミエの体を機械で造り、命を組み立てていたのだろう。そして男は付け加えた。
「でも一つ、言っておかなければならないことがあるんだ」
機械は徐々に肉体を浸食していく。この世界では機械も生きていて意思を持っている。やがて体全体が機械に変わる。体だけではない。感情も記憶も機械のメモリーに組み込まれ、機械の思考と置き換えられていく。最後には人間としての体も記憶も消え、完全な機械になってしまう……
「さあ、急いでおばあさんのところへ行きなさい。時間はあまり残されていない」
男は自分の使命を託すかのように子どもたちを促した。
「でも、この格好じゃあ……」
フミエが恥ずかしそうに言う。
ちょっと待ってて、と男は部屋を出て行き、暫くして戻ってきた。
「ごめん、こんな服しかないけど、裸よりマシだろ」
それは男の物と思われる紺色のジャージで、腕とスボンの裾が鋏で不器用に切り取られている。男の靴下もあった。靴は幸いフミエのものが残っていた。学校指定の黄色い靴は、所々に黒い血が乾いていた。
この服も充分恥ずかしい。フミエは心の中で思った。
漸く起きてきた狐子——フミエを見てコンと叫んだ——と子どもたちは、男に冷凍食品の焼きおにぎりとペットボトル入りのお茶を持たされ、再び森を行くことになった。
「おにいちゃん、ありがとう。おねえちゃんをなおしてくれて」
男は微笑み、軽く手を上げた。
「気をつけて。おばあさんによろしく」
子どもたちは歩き始めた。その後ろ姿、大きく垂れた翼と機械の手を見つめながら、男は呟いた。
「頼んだよ、子どもたち」
*
現実世界は、全世界にテレビ中継された信頼篤き偉大な霊能力者であり天文学者であるムハンマド・アリスラの発言に騒然となっていた。
「この世界は今、ある機械に支配されている」
ある機械、とは一体何であるのか。アリスラは「何か鉄製の焼却炉みたいなもの」と表現し、「側面に大きな穴が開き、短い煙突が二本上部に突き出ている」と付け加えた。その大きさはわからないと言う。
様々な憶測と噂が世界を飛び交った。
「どこかの国の戦略兵器だ」
「いや、宇宙人が地球を支配しようとしているのだ」
「その焼却炉は死せる魂の象徴であり、これは霊界からの干渉に他ならない」
「アトランティス文明の隠された機械がついに蘇り発動したのだろう」
「それなら小学校の裏にある」
「アリスラはペテン師だ」
しかしどの想像も真実に至ることはなかった。そもそも機械に支配されているという状態が誰にも理解できなかった。アンドロイドの軍団が体中からレーザー光線を撃ちながら街を破壊しているわけではない。むしろ機械のイメージとはほど遠い、奇々怪々たる超常現象が起こっているのだ。アリスラは言う。その機械が異界を創造し、地球に覆い被さっているのだ、と。
その間にも龍は雨雲の隙間を駆け、飛行機の翼にガルーダが舞い降り、墓場から這い出た骸骨たちがどこかで調達してきたフォア・ローゼスを垂れ流しながら宴に興じていた。学校の天井にはミケランジェロの天井絵画が浮き上がり、絵の中の天使が夜毎ラッパを吹き鳴らした。マンションの建設現場には古びた大聖堂が一夜のうちに姿を現し、パイプオルガンの音が中から聞こえてきた。神様は相変わらず突っ立ったままである。
*
朝まだきの森は夜雨に濡れ、土と植物の臭気が充満していた。時折天を覆う葉や梢から水滴が落下し、子どもたちの背筋を脅かした。古代の森を思わせるその光景に、似つかわしくない機械音がリズミカルに響き渡る。
フミエの歩みはぎこちなかった。機械の左足はまだ思うように動かず、引き摺るようにしか歩けなかった。湿った土の上に深い足跡の筋ができる。その横を心配そうにユウキが歩いている。
「おねえちゃん」
「ん、なに?」
「痛くない?」
「うん、痛くないよ。ちょっと歩きにくいだけ」
「おねえちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
「なにが?」
「黒鬼出てきたとき、助けようとしてくれたやろ」
「当たり前やん。おねえちゃんやねんから。それより、ユウキも助けてくれようとしてたやん。おねえちゃん、見えてたで。ユウキがファイティングポーズとってんの。さすがユウキや。勇気あるわ」
そう言ってフミエは笑った。その声に金属を擦り合わせるような音が微かに混じっている。だんだんと機械になっていく——男の言葉を二人は思い出した。
その時、フミエが突然立ち止まった。ふと眺めた森の奥、緑の葉が生い茂る中に、真っ赤な眼でこちらを伺う獣を見つけたのである。それは巨大な狼に見えた。恐る恐る周囲を見渡す。まったく気づかなかったが、そこここに数知れぬ眼があった。狼。蜥蜴。猫。熊。蜘蛛。蛇。蛙。無数の足を持つ蟲。地を這う生き物たちがびっしりと周りを取り囲んでいた。それらはどれも図抜けて大きく、故に今まで目に入らなかったのかもしれない。
「大丈夫。奴らは手を出せぬ」
狐子が落ち着いた声で言った。
「守ってくれておるのだ。仲間たちが」
眼に見えない狐子の仲間たち。黒鬼に喰らわれ、肉体を奪われた魂が、生き残った仲間を守護している。そのイメージにフミエは美しく尊いものを感じた。
「仲間って、狐なん?」
フミエが尋ねる。
「狐に育てられた人間だ。正しく言えば、あっちの世界に生まれ得なかった人間が、こっちの世界で狐に育てられた、ということだ。わからんだろ?」
「うーん、ようわからんけど、なんか、ちょっとあったかい感じがするね」
言い終えてフミエは咳き込んだ。咳と共に口から小さなネジが飛び出した。
「ちょっと急ぐとしよう。二人とも消えたり機械になられてはたまらん」
一番後ろにいた狐子は、ちょこちょこと歩を進めると、先頭に立ち歩き出した。フミエも機械音を立てながら急ぎ足で進んだ。無数の光る眼に囲まれ、無数の眼に見えぬ仲間に守られながら。
*
教えられた家の裏に、確かに池はあった。高級住宅街の裏手に突如現れた小さな野池。その向こうには遥々とした田園風景が広がっている。まったく現実離れした光景である。その中に、現実として受け止めざるを得ない光景があった。
池が干上がっていたのである。
池の底は例の如くひび割れた土しかなく、魚やザリガニの死骸さえ見当たらない。地面を大きくえぐった落とし穴。そんな感じだ。深さは二メートルもあろうか。
——フミエとユウキのことを想いながら、その池に頭から飛び込め——
ここに頭から飛び込めと言うのか。だがトモユキは腹を括った。こんなわけのわからない世界。現実的な心配をしている場合か。きっと目には映らない水があって、飛び込んで目を開けばフミエとユウキのいる場所に続く洞窟がぽっかりと口を開けているのだろう。そう、叔父の言葉を信じるのだ。フミエとユウキのことを想いながら頭から飛び込む。急げ。
「くそ、風邪ひくどころちゃうやんけ」
トモユキはあたかも水の充ちた池に飛び込むが如く、池の縁を蹴り、腕を真っ直ぐに伸ばして宙に飛んだ。しかし、イメージしていた幻の水面はやはり存在せず、あっという間にひび割れた池の底が眼前に迫った。
ぶつかる!——と思った瞬間、予想外のことが起こった。池の底に突如真っ暗な穴が開き、トモユキは深淵なる暗黒に吸い込まれていった。ただ落下するのではなく、吸い込まれるように加速していく。トモユキはとっくに気絶していた。
*
もう三時間は歩いただろうか。森は粛々と続いている。陽光が強くなり、木漏れ日がフミエの鉄の腕を煌めかす。子どもたちは無言で歩き続けていた。ユウキの荒い息づかいにも増して、森に響く機械音が大きくなっている。ユウキはちらりと姉の顔を見て目を逸らした。左顔面を覆っている鉄のマスク。そこから覗いていたはずの目が機械の目に変わっていた。フミエの目に模した機械の目は、カチッ、カチッと小さな音を鳴らして瞬きを繰り返している。その音を聞き分けながら、ユウキは考えていた。魔法使いのおばあちゃんは、おねえちゃんも元に戻してくれるだろうか。
先を行く狐子が立ち止まった。
「道が、無くなっとる」
遙か前方に小高い岩壁がそそり立っていた。ユウキには見えなかったが、道がそこで途絶えているのが狐子には見えるらしい。
「とにかくあそこまで行ってみよう」
狐子は再び歩き出す。ユウキとフミエも後に続く。フミエは一言も発しない。もう体の中まで機械になってしまったのだろうか。道が無いって、じゃあ、おばあさんの家はどこに?——
確かに道は途絶えていた。眼前には一枚岩を割ったような荒っぽい壁が聳えている。それは左右にも伸び、木々が絡み合った険しい森に埋まっていた。岩壁の上部は葉と枝の天井に隠れて見えない。日の光も遮られ、辺りは暗い緑に覆われている。
——ガシャン!
突然大きな金属音が響き、ユウキと狐子はびくりと首をすくませた。振り向くと、フミエが仰向けに倒れていた。
「おねえちゃん! おねえちゃん!」
ユウキはフミエの上に屈み込み、叫んだ。
「そんナ大きナ声ダさんデも」
フミエが機械音の混じった声で喋った。生身の右目と機械の左目でユウキを見つめ、微笑んでいる。
「ちょッと滑っテ転んダダけやから」
右の頬に埋められていた鉄の部品は、今や青光りする鉄板に変化し、大きく広がっていた。ユウキは泣き出した。
「もお、おねえちゃん機械になってもたらイヤや。機械にならんといてえやぁ」
「泣かんデもええヤん。おネえちャん、機械ニナっテもユウキと遊んダげルカラ」
フミエは右手でユウキの背中をぽんぽんと叩いた。その指先が鈍色に変化し始めている。機械化は加速しているようだ。
ふとフミエの瞳が木々の天井に向けられた。
「あ、トリ」
ユウキと狐子もフミエの視線の先を見上げる。深緑の葉と幾重にも交差する枝の間に、真っ白な鳥がいた。丸い大きな眼でこちらを見下ろし、突き出た耳で子どもたちの声を聞いている。それは体長が五十センチはありそうなミミズクであった。
「地を這う者たちがいなくなっておる」
狐子が辺りを見渡して呟いた。ずっと子どもたちに付きまとっていた獣や蟲の眼が消えている。周囲に充ちていた不穏な気配もいつの間にか無くなり、この森に初めて踏み入った時の美しい光景に戻っていた。
「ここで終わりなん? トバズノモリ」
その時、白ミミズクがばさりと飛び立った。暫く枝を縫うように飛び回り、やがて右側の道無き森へと飛び込んで行った。その直前に首だけをくるりと後ろに回し、片眼を閉じた。ミミズクの白色が緑の奥でちらちらと輝いている。
「今、ウインクしたで、あの鳥」
「ツいテ来い、ッテこトかナ?」
フミエはギシギシと音を立てながら上半身を起こした。
「重タ。チょット起キるノ手伝ッテ」
ユウキと狐子はフミエの脇の下を両側から支え、持ち上げた。尋常でない重さである。フミエの内部で確実に機械化が進んでいるようだ。
「とにかく行ってみるか。あの鳥が飛んで行った方向へ」
狐子はそう言うと、木の枝を掻き分け、右側の森へと入って行った。同時に狐子の周りの木々がざわざわと揺れ動いた。見えない仲間がまだ一緒に来てくれているのだろう。フミエとユウキも狐子たちが拓いた道に入り、白い鳥を追った。
泳ぐように枝葉を割いて進むうちに、森は突如として拓けた。目の前には紫と白の花が咲く小さな草原があった。森に囲まれた草原には日光が降り注ぎ、草花は目映く輝いていた。上空には晴れ渡った青い空が広がっている。子どもたちは思わず目を細めた。その明るい光を浴びながら、幾匹かの蝶が飛び交っている。まるで春の真っ只中に迷い込んだような状態である。夢を見ているのか、はたまた狐に騙されているのか。狐子さえ狐につままれたような顔をしている。その不思議な風景の中に、子どもたちは見た。岩壁に張り付くように建つ、奇妙な形の小屋を。
その小屋は二階建ての丸太小屋で、随分と古びていた。一階には小さな扉があり、二階にはガラス張りの小窓が一つ。中は暗くて見えない。そして屋根からは、太い煙突のようなものが岩壁の上まで伸びている。三十メートルくらいはあろうか。
「おばあさんの家や」
ユウキが思わず叫ぶ。いかにも魔法使いが住んでいそうな佇まいである。ユウキは駆けだしていた。叢からバッタやコオロギが驚いて跳ね出る。ユウキは息を切らして扉の前に立った。そして扉をノックしようとした時、ギィーッと音を立てながら扉が内側に開いた。
*
「もしもし、大丈夫ですか。もしもし」
男の声が意識の遠くから聞こえ、トモユキは覚醒した。顔を上げると、目の前に若い男の顔があった。長めの金髪に銀縁の眼鏡。高い鼻。青い瞳。まだ二十歳を過ぎたくらいに見える男が、日本語で話しかけてくる。(口の動きは外国語を喋っているようだった)
「あの子たちのお父さんですね。お顔が息子さんにそっくりだ」
トモユキははっと我に返った。
「子どもたちのことを知ってるんですか!」
こんなところではなんですから、と、男はトモユキを建物に招き入れた。そしてトモユキに缶コーヒーを渡し、これまでの経緯を語った。話を聞き終えたトモユキは明らかに動転していた。
「フミエが……そんなことに」
トモユキは口を手で覆い項垂れた。しかも時と共に身体が機械に浸食されていくという。ユウキの翼も成長したらしい。いつ消えてしまうかわからない。
「ありがとうございます。私は今すぐ後を」
その言葉を遮るように男は言った。
「その前に、僕の話を聞いてくださいませんか。もしかすると、お子さんたちを救えるかもしれません」
立ち上がりかけていたトモユキは、再び椅子に腰を下ろした。
「子どもたちを救える? いったいどうやって」
男は落ち着いた口調で、始めにこう言った。
「この世界を造っているのは、ある一つの機械なんです」
この世界を造っているのは、機械である。
その機械は、生命体が発する「想念」を感知し、吸収し、増幅させて吐き出す、という仕組みになっている。想念は生物が発する微弱な電気エネルギーである。それは電磁波や諸々の粒子の波に乗って速やかに地球を覆い尽くす。そして風を伝い地を伝い、携帯電話やワイヤレスネットワークに潜入して世界中の人々の体に入り込む。いや、人間だけではない。あらゆる生物から想念は放出され、また送り込まれる。多種多様な生命体の想念がごちゃ混ぜとなり、すべての生命体に吸い込まれるのだ。
想念のほとんどは、不安と恐怖、諦めに近い願望で占められている。その成分の多くは、嫉妬や虚栄心や被害者意識、そしてそれらを解決するための妄想云々である。通常、これらのネガティブな要素を打ち消すために、頭脳はポジティブな願望や期待、喜び、そして愛と総称されている様々な感情を獲得し、バランスをとりながら生物を生かしている。そのバランスがこの機械の作用によって崩れ、剥き出しの想念が形を成して現実界に立ち現れているのである。それは単なる幻影ではない。想いというエネルギーの粒が物質化した実像である。その機械は地面に足跡を残す百鬼夜行を止めどなく製造しているのだ。
「その機械を造ったのは、僕なんです」
男はアメリカに本社のある精密機器メーカーのエンジニアだった。子どもの頃からオカルトじみたものに興味があったが、大学生の頃にドッペルゲンガー——もう一人の自分を目撃して以来、超心理の世界に傾倒するようになった。中でも彼がのめり込んだのは「タルポイド説」というものだ。タルポイドとは、人間の想念が物質化する現象のことである。タルポイド説によると、古来より人々を脅かしてきた怪物や異星人、今も目撃談の絶えない未確認生物、未確認飛行物体、延いては天使や悪魔、妖精に至るまで、すべては人の想念が物質化して出現したものだという。想念の物質化。その蠱惑的な現象に取り憑かれ、彼は一人で研究を始めた。人の想念を増幅し、物質化させる機械の研究である。人の思考が脳内で発生する電気活動である以上、そのエネルギーを何らかの粒子と結びつけ、質量を持つ物質に転化することは可能であると思われた。彼は自宅の地下室に様々な部品や道具を持ち込み、夜毎研究に没頭した。そして試験段階の機械に電気を通した途端、それは暴走し始めた。発明者は最初の犠牲者となった。彼は想念の異空間に吸い込まれ、気がつくとここで生活していたという。幾度も元の世界に戻ろうとしたが、この森を抜け出すことはできなかった。彼はすでに異界の住人として籍を置かれてしまったのだ。しかし、機械の強力な作用を受けたためか、彼には想念を現実化する力が備わった。ただしその力は、現実世界の物体をここに持ち込む程度のものであったが。
「なんだかよくわからんが、とにかく子どもたちを救う方法を教えてくれ」
男の説明をそこまで聞いて、トモユキは思わず口を挟んだ。男は肯き、手短に語った。
「あの機械を破壊することです。機械は今、想念の世界と現実世界の間に身を隠しています。その場所へは、あなたのお子さんたちが案内してくれるでしょう。ちょっと待っていてください」
男は足早に部屋を出て行き、ほどなく何か大きな物を持って戻ってきた。
それは黄金に輝く「翼」であった。
翼は翼部と制御パネル、装着用のハーネス、操縦用の手袋で構成されていた。翼部は開長三メートル強、幅は一メートル、厚みは最大三五センチメートル。その形はツバメの翼に似ている。翼の表面には、木の葉型の形状記憶プラスチックが鱗状に重ねられている。その内部には伸縮性のある強化電熱線が葉脈のように張り巡らされ、形状記憶プラスチックのピースを複雑につないでいる。その電熱線の発熱による形状記憶プラスチックの変形が羽ばたきの力となる。形状記憶プラスチックは大小のピースが連動することにより、それぞれの微妙な変形が増幅され、大きく滑らかな翼の動きを生み出す。翼の変形に伴ってピースの密着度が高まるように設計されており、力強く風を孕むことができる。また、翼に取り込まれた空気が電熱線を瞬時に冷却し、プラスチックピースの素早い変形を繰り返し得られるようになっている。各ピースに伝わる発熱のタイミングは飛行の状態に合わせてプログラムされている。
「この翼を使って、森の外れまで飛んで行ってください。地上を行くのは危険ですから。そこでお子さんたちに出会えるはずです」
それから、と言って、男は金属製の小さなボールを目の前に掲げた。
「機械を見つけたら、この爆弾で破壊してください」
トモユキは背負っていた荷物を置いて背中に翼を装着した。爆弾をズボンのポケットに入れて、教えられたとおりに助走した。
「地底の次は空かいな。しかも爆弾付きや。ほんまえらいとこ来てもた。早よ子どもら連れて帰らな。フミエ、ユウキ、待っとれよーっ!」
トモユキは大地を蹴り、腕を前に伸ばした。その瞬間、翼は一瞬にして大きく開き、深く、素早く羽ばたき始めた。
*
扉の向こうに立っていたのはおばあさんではなく、さっきまで一緒にいた青年であった。顔はもちろん、白衣まで同じである。男は扉から出てくると、狸に化かされたような顔をしている子どもたちに向かってニヤリと嬉しそうに笑った。
「魔法使いのおばあさんじゃなくてごめんね。僕は彼のドッペルゲンガー……って言ってもわかんないか。まあ、双子みたいなものだよ双子」
フミエが恐る恐る尋ねる。
「ココじャナいんデすカ? ツバさをトッテクれるおバあサんノトコろッテ?」
男とは真面目な顔になって言う。
「実はおばあさんなんていないんだ。すべては君たちをここに導くために、僕たちが仕組んだこと——」
ある機械が、人の想像したことをごちゃごちゃに混ぜて変な世界を創ってしまった。今、その変な世界の一部に君たちと僕はいる。この世界を消し去り、元の世界を取り戻すには、その機械を壊すしか方法はない。しかし、生身の体では——つまり人間はその機械に近づくことはできない。機械はこの変な世界に隠れてしまったから。
「その機械に近づいて壊すことができるのは、君たちだけなんだ」
男はフミエとユウキ、狐子を小屋に招き入れた。中は調度品が何も置かれておらず、埃が積もった床が広がる殺風景な場所だった。部屋の端に上階へと続く階段がある。
男は階段を上り始めた。三人も後に続く。フミエが機械の足で階段を踏みしめる音が響く。階段は螺旋状に、上へ上へと伸びている。
「その機械を壊したら、おねえちゃんも元に戻る?」
ユウキが男の背中に尋ねる。男は振り向かずに答えた。
「そう信じていれば、きっと元に戻るよ。信じて、願うんだ。ユウキくん、君は知っているかい?」
男は階段を上りながら話し始めた。ユウキが生まれた時のことを。
「君のおかあさんが君を産み落とした時、真っ先に抱き上げたのはおとうさんだった。おとうさんは心からこう願った。生きてくれ、と。おとうさんだけじゃない。おかあさんもおねえちゃんも、同じことを願った。その時、君の体に命が吹き込まれ、産声を上げたんだ」
ユウキはその時の光景を思い出したような気がした。血まみれの世界から明るく白い世界に導いてくれた三人の声。
「今度は君が想い、願うんだ。おねえちゃんのこと、おとうさんのこと、そしておかあさんのことを」
ユウキの小さな体の中に、熱い火のようなものが灯った。それは左胸の辺りから背中に回り、翼を一瞬大きく奮わせた。後ろにいた狐子が階段を踏み外しそうになる。
果てどなく続いた階段がついに途絶えた。目の前に木の扉がある。男が扉を開き、外に踏み出す。そこは岩壁の頂上だった。
そこには意外な風景があった。断崖から望む眼下には、黄金色に暮れなずむ異国の街が広がっていたのである。そして四人は見上げた。街の中心部に聳え立つ、巨神の姿を。
「機械は、あの中にある」
男は神を指差した。その姿は、鋼鉄を纏ったダビデ像のようであった。不思議なことに、四人とも同じ姿を見ていた。男は言った。
「あれは、機械の神様なんだ」
鋼鉄の神。それは機械自体が描き出した神の姿だった。現実世界の人々はその黒光りの表面に映し出された自身の神を見ている。言わばあれが本体なのである。
「そしてあの虚像に近づけるのは、この世界にいる者だけなんだ。見てごらん」
鋼鉄の神の周りを飛び交う天使たち。それは現実世界から突然姿を消した子どもたちである。よく見ると、翼の生えた子どもたちは、神に向かって何かを投げつけている。
「子どもたちが投げているのは鉄屑なんだ。あの中にある機械を壊そうとしているんだよ。彼らは君たちと同じように、僕たちが導き込んだ。でもあの程度の鉄屑じゃあ、機械にダメージを与えることは難しいようだ」
男は奮闘している子どもたちを悲しそうな目で見つめた。しかしその目の奥には、覚悟にも似た強い光があった。
その時、遠く背後から声が聞こえた。四人は振り向いた。森の巨木を越え、こちらに向かってくる大きな鳥。
「おとうさん!」
ユウキが叫んだ。それは金色の翼を大きく羽ばたかせて飛ぶトモユキだった。トモユキは速度を弛めることなく接近し、断崖の上に滑り込むように転がり落ちた。
「フミエ! ユウキ!」
トモユキはしゃがんだまま、子どもたちを両手で強く抱きしめた。声を上げて泣き出すフミエとユウキ。
「ほんまお前ら心配かけやがって」
トモユキは抱きしめたフミエの冷たさに驚き、その顔を覗き込む。顔のほとんどが鉄のマスクで覆われている。機械化、ってやつがここまで進行しているのか。トモユキは立ち上がると、青年に向き直った。
「あなたが彼のドッペルゲンガーですね。言われたとおり、爆弾を持ってきました。早く機械とやらを破壊してください」
トモユキはズボンのポケットをまさぐりながら言った。両手を前のポケットに差し込み、次に後ろのポケットを探る。その動作を何度か繰り返し、絶望的な表情で顔を上げた時、森の遠い所で爆発音が響いた。振り返ると、森の一部がぽっかりと消失し、黒い煙がその上空に立ち込めている。青年は言った。
「落とした爆弾のスイッチを地を這う者がいじったんでしょうね」
トモユキは煙を見つめながら、呆然と地面に両膝をついた。
「ああ、なんちゅうことをしてしもたんや……。ごめん、みんな、ごめんな」
子どもたちはその大爆発の跡を口を開けて見つめている。男は少し微笑みながら、しかしきっぱりとした口調で言った。
「こうなったら最後の手段しかないですね。皆さん、僕を信じて協力してください」
最後の手段。それは機械の神様の中に入り、直接機械の作動を停止させる、というものだった。そこにどのような危険が待ち受けているのか。それは男にもわからないという。
「おそらく、機械は地下室に据え付けられているはずです。その周りにはいろんな工具が転がっていると思いますから、それで機械を破壊してください。スイッチを切るだけでは止まらないでしょう」
トモユキが答える。
「わかった。じゃあ私が行ってきます。こうなったのも私の責任だ。お前たちはここで待っていなさい。あれに飛び込んだらいいんですよね? それでは」
早速飛び上がろうとするトモユキを男が慌てて制する。
「ダメなんです。現実世界の体であの中に入ることはできないんです。ここであの中に入れるのは、現実と想念の世界、その二つにまたがった存在」
「誰ですか?」
「ユウキくんです」
「はあ〜っ? こんなちっこい子どもにそんな危ないことさせられるか!」
トモユキは男の胸ぐらに掴みかかった。男は伏し目がちに言った。
「確かにそうですね。ユウキくんがあの中に入っても、機械を停止するのは難しいかも知れない……」
希望は一瞬にして潰えた。しかしここで諦めるわけにはいかない。トモユキは言った。
「もう一度君の本体の所に戻って、爆弾をもらってくる。今度は落っことさないように戻ってくるから」
「その時間はありません。おそらくその間に、ユウキくんは完全にこの世界の住人になってしまうでしょう。いずれにせよ、あの神に近づけるのは今の状態のユウキくんだけなんです」
万事休す。トモユキは両手で顔を覆った。その時、ユウキが口を開いた。
「ぼく、やってみるわ。機械こわしてきたらええんやろ。あそこのみんなも頑張ってるし、ぼくもやってみる」
ユウキは鋼鉄の神の周りに飛び交う翼の生えた子どもたちを見つめながら言った。
そんなもん無理や、とトモユキが言いかけた時、
「アタしモ入レルんチャウかナ。まダ全部機械ニナッテナイみタイやし」
フミエが機械音の混ざった声で言った。
「ワシも行く。元々は霊界ってところの住人だから、行けると思う」
狐子も声を合わせた。トモユキは狐子を初めて振り返り、何か不思議な感覚にとらわれた。もしかして君は——
「おとうさん、どうされますか?」
男が尋いてくる。元々お前が悪いんやろが、という言葉が喉元まで出てきたが、今更そんなことを言っても始まらない。トモユキは再び腹を括った。
「よし、わかった。とにかくやってみよう。でも、お前たちだけを行かせるわけにはいかない。俺も行く」
トモユキは言った。俺がフミエを抱いてあの中に飛び込む。ユウキは狐の子を抱いて飛べ。ユウキ、飛べるか?
「やってみる」
ユウキは背中に神経を集中し、翼に力を込めた。その瞬間、翼は大きく風をはらみ、ユウキを中空に打ち上げた。
「あんまり意識せんでも飛べるみたい」
空の高みで大声で叫ぶ。そして上空を一回転して再び舞い降りた。
「じゃあ一か八かやってみるか。フミエ、おとうさんにしっかり掴まっとくんやで」
トモユキはフミエを片手で抱きかかえる。重たっ、と思わず声が出る。
「危ないと思ったらすぐに戻るからな。ほんじゃ行くで。せーのー」
「あ、そうそう」
男が間の悪い声を掛ける。
「神の心臓を目掛けて飛び込んでください。あの辺りが入りやすくなるよう、僕が念を送りますから。おとうさんの体も一緒に」
トモユキは右手を軽く挙げて了解を示した。再び仕切り直す。
「よっしゃ本番や。行くで。せーのーでっ!」
フミエを抱いたトモユキと狐子を抱いたユウキが断崖の縁に向かって走り出す。二組は速度を上げ、地面を思い切り蹴り、その絶壁から空へ飛び立った。ユウキは天高く上昇し、トモユキは真っ逆さまに落ちていった。
「あかん、重すぎる!」
トモユキは懸命に機械の翼を羽ばたかせたが、落下は阻止できなかった。眼下には異国の白い街が広がり、急速に拡大されていく。トモユキはフミエをしっかりと抱きしめ、無意識に翼に力を込めた。機械の翼であるにも関わらず。
が、その瞬間、体がふわりと宙に浮いた気がした。思わず閉じた目を開く。街がゆっくりと遠ざかっていく。上昇しているのだ。トモユキは背後を振り返った。翼の先に、天使がいた。右の翼に三人、左にも三人。天使たちは機械の翼を両手で掴み、巨神の方へと引っ張っている。一人は歪な翼を持ち、時折ふらふらしながらも懸命に翼を掴んで飛んでいる。
「おじさん、落っこちてる場合じゃないよ」
天使の一人——アジア系の子どもだ——が言う。どう答えていいかわからず、無言のまま翼の生えた子どもたちに曳航されていく。機械の神がだんだんと近づいてくる。黒い鋼のダビデ。
ダビデ。それはヘブライ語で「愛された者」を意味する。そしてダビデは戦士でもあった。ミケランジェロの創ったダビデ像は、ダビデが巨人兵士ゴリアテとの闘いを決意した瞬間を表しているという。皮肉なことに今、ダビデが巨人となり、この小さき者たちに闘いを挑まれている。
ユウキは狐子を抱いたまま、左胸の前に掲げられた巨神の腕の周りを旋回していた。
「おとうさん、びっくりするやん。落っこちてる場合とちゃうで」
「そんなこと言われてもやなあ——まあええわ。それより、みんなで一気に突っ込むで」
トモユキは翼を持つ子どもたちに向かって叫んだ。
「こいつの左胸、心臓の辺りに思い切り突っ込んでくれないか」
子どもたちは肯き、翼の羽ばたきを速めた。ユウキも大きく旋回して速度を上げた。崖の上で白衣の男が念じる。すべてが神の左胸に向けて一直線に放たれた。そして四人は、神の中へと消えた。
*
四人は固いコンクリートの地面に転がり落ちた。
そこはあの男の地下実験室に違いなかった。くすんだ白い壁を天井からぶら下がった二つの蛍光灯が薄暗く照らしている。広い部屋には様々な部品や工具が転がり、至る所を配線が這っていた。中央には木のテーブルが一脚置いてあり、書物が山積みになっている。その横にはデスクトップタイプのパーソナルコンピュータがあり、モニタには回路の設計図らしきものが映し出されている。部屋中に耳鳴りのような機械音が響いている。電気ストーブのスイッチを入れた時に鳴るブーンという音だ。音の源は、テーブルの向こうの壁際に隠れていた。
それは小型の工業用送風機を思わせる機械だった。四角いコンクリートの台座に太い筒状の胴体が横たわっている。右側には網目状のカバーが嵌め込まれ、中で羽根車が音を立てて高速回転している。左側には丸い大きな穴が黒い口を開けている。胴体の中央部には制御盤らしき箱が埋め込まれ、薄く開いた蓋の向こうに幾つものボタンが見えている。剥き出しの鋼で覆われた機械。色も種類も異なる有り合わせの鉄材。出鱈目に打ち付けられた螺子。見るからに未完成の試験装置。こんなものが、混沌たる巨大な異空間を生み出しているのか。
「こいつだ。よし、とっとと壊してまおか」
君たちは下がっていなさい、とトモユキは子どもたちを扉近くに移動させると、翼を外し、足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げて機械に近づいていった。その時——
トモユキの前をトモユキが歩いている。右手に鉄パイプを持ち、機械に近づいていく。トモユキは機械の左側に回り込むと、鉄パイプを捨て、機械の穴に頭から飛び込んだ。その後ろからまたトモユキが歩いていく。機械の左側に回り込むと鉄パイプを捨て、機械の穴に頭から飛び込んだ。続くトモユキも鉄パイプを捨てると、機械の穴に頭から飛び込む。トモユキの前を歩くトモユキは、機械の左側で鉄パイプを捨てると、機械の穴に頭から飛び込んだ。トモユキは機械の左側に回り込むと鉄パイプを捨て、機械の穴に頭から——
「おとうさん!」
腰にしがみつく子どもたちに気づき、トモユキは我に返った。目の前にはぽっかりと機械が口を開けている。一瞬、真っ赤な舌がべろりと穴の縁を舐めたように見えた。子どもたち諸共、慌てて後退する。
「これは舐めてたらあかんな」
うっかり近づけば、想念の世界に引きずり込まれる。近づけば? この部屋にいること自体、充分に近づいているではないか。世界中の人の想いが入り乱れて部屋中を満たし、形成す不可視の波に変換されて吹き出されている。その波もまたこの部屋に広がり、壁を抜けて奇天烈な世界を創り出す。その真っ只中に彼らはいるのだ。
機械から何かが染み出してきた。黒い煙のようなもの。それは機械を取り囲み、徐々に広がっていく。闇が涌いてきたのだ。壁際から部屋を埋めていく闇。その中には何があるのか。
「一旦、外に出るぞ」
トモユキが叫び、背後の扉に手を掛けた。
その扉に、ドアノブは無かった。
体当たりしたがびくともしない。振り返ると闇は眼前に迫っていた。
「みんな、手をしっかりと繋ぐんだ」
四人は隣同士で手を繋いだ。トモユキはフミエとユウキの手を握り、ユウキは狐子の手を掴んだ。その瞬間、部屋は闇に呑み込まれた。
「フミエちゃん、今度はどれ乗りたい?」
「メリーゴーランド!」
母のマサエに手を引かれ、フミエは目の前に広がる光景に興奮していた。
その遊園地は、幼稚園に入る頃までよく連れてきてもらった思い出の場所だ。が、二年前に経営不振で閉園し、今は跡地にマンションが建設されている。
フミエはメリーゴーランドの白馬に跨った。横にはマサエが立ち、フミエを支えてくれている。マサエのお腹は大きく膨らんでいた。中にユウキが宿っているのだ。ユウキが産まれるまでは、マサエもトモユキもフミエ一人のものだった。フミエ一人にその愛情は注がれていた。
ブザーの音と共に、メリーゴーランドが回り始める。上下しながら走る馬。周りの景色がぐるぐると巡り、楽しそうな乗り物や親子がどんどん後ろに過ぎ去っていく。
目を戻すと、マサエの姿が無かった。驚いて辺りを見回す。いた。マサエは少し後ろの茶色い馬の横に立っていた。その馬にはユウキが乗っていた。嬉しそうに笑っている。フミエの馬が激しく上下に動き出した。必死で馬の首から突き出た棒を握り締める。が、そんな棒は存在せず、馬は本物の馬に変わっていた。その首に強くしがみつく。馬は前足を上げて嘶き、メリーゴーランドから飛び出した。
「おかあさーん!」
疾駆する馬にしがみつきながら、フミエは叫んだ。遠く後ろから、マサエとユウキの笑い声が聞こえてきた。
突然、馬が立ち止まった。恐る恐る目を開く。道の左右に水の流れる溝が見えた。そこは、狐子に初めて出会った場所だった。
「おねえちゃん、目を覚まして」
狐子が馬の前に立ちはだかっていた。これまでとは違う口調で話しかける。
「闇は人を不安にさせるけど、闇は光が生まれる場所でもあるんだ。僕は闇の中で光に出会った。それは、親が子を想う心だ。僕はこの世に生まれることはできなかったけど、その光に触れることはできた。暗闇で見つけたその光は、闇を祓い去り、僕を温かく抱きしめてくれた。ほら、これが僕がもらった光の力だ」
狐子の体から、真っ白な光が溢れ出した。その輝きは力強く広がり、すべてを目映く覆い尽くした。
三人の目の前に狐子が立っていた。あの実験室である。暗闇は消え、元の仄暗い蛍光灯がパチパチと音を立て、部屋を照らしている。狐子は言った。
「この機械は現実世界だけでなく、霊界にまで影響を与えている。早く何とかせねば」
トモユキもユウキも、それぞれの幻を視ていたのだろう。惚けたような顔で狐子を見つめている。その時、トモユキの携帯電話が黒電話の音で鳴った。お尻のポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てる。
「こら、何をぐずぐずしとんねん。早よそんな機械壊してしまえ」
「お、叔父さん!」
叔父は言った。機械には機械を。想念には想念を。そして電話は切れた。
トモユキはその言葉の中に、啓示めいた閃きを感じた。トモユキはフミエを振り返り、言った。
「フミエ、その左手は動くか?」
「ウン、大丈夫」
「よし、じゃあその左手で、この壁を思いっ切り殴ってみなさい」
「ウン、わカッタ」
フミエは扉の横の壁を力一杯左手——機械の腕で殴った。その瞬間、トモユキは心の中で念じた。壁を壊せ、と。
フミエの左腕は壁を突き破っていた。腕を抜くと穴の向こうに暗い通路が見えた。
「腕、痛ないか?」
「ゼンゼン、大丈夫」
「おねえちゃん、すごい!」
ユウキが叫ぶ。そのユウキにトモユキが尋く。
「ユウキ、この部屋の中、飛べるか?」
ユウキは翼を一振りし、天井近くに舞い上がった。自慢げな顔をしている。
「よっしゃ、わかった。では反撃開始といくか」
狐子は機械の方を向き、何やらぶつぶつと唱えている。きっと仲間たちに守ってくれるようお願いしているのだろう——フミエはそう思った。
トモユキは床に置いてある機械の翼のスイッチを入れた。翼は起動し、電熱線が熱を秘め始める。
「まず、フミエ、あの機械の真ん中にあるパネルをぶち壊してきてくれ。他も二、三発殴りたかったら殴ってこい。ユウキはこの機械の翼を左側の穴にぶち込んできてくれ。中に放り込んだら飛んで戻ってこい」
わカッタ、と返事をして、フミエは機械に近づいた。トモユキは意識を集中して念じる。ただの機械だ、ただの機械、と。
ガシャン、という音が三回部屋に響いた。フミエが制御盤を打ち壊し、他にもその周辺に二箇所穴を空けていた。穴からは白い煙が出ている。
続けてユウキが飛び立ち、機械の左側に立つと、力一杯翼を穴に放り込んだ。翼はガリガリと音を立てながら機械に吸い込まれていく。
急いでフミエとユウキが戻ってきた。トモユキが二人を両手で抱きしめる。
「ようやった。じゃあ仕上げや。みんなで強く念じるんやで。爆発しろ、って。よし、いくぞ。せーのーで!」
爆発しろ!——四人は機械を睨みつけて念じた。その瞬間、機械の中で大きな爆発音が響いた。やった!、と四人は声を上げた。が、それで終わりではなかった。機械は白い煙をもくもくと纏いながら、シューッという呪いの声を出し、赤黒く膨張し始めたのである。内側から灼熱のマグマが噴出しようとしているかの如く。
「あ、マズイ。ほんまに爆発しよる」
トモユキがそう叫んだのと同時に、機械は大爆発した。思わず後ろを向き地面に身を伏せる。
熱風が部屋を駆け抜けた。その熱はユウキの翼を焼き落とし、フミエの鋼を溶かした。真っ赤に染まる部屋の中、トモユキは薄目で機械を振り返った。しかし、機械は見えなかった。トモユキたちを包み込むように、狐子とその仲間たちが組み重なり、大きな壁をつくっていたのである。背中で紅蓮の炎を受けながら。
狐子は火に焼かれ、燃えながらこう言った。
「おとうさん、会えて嬉しかったよ」
トモユキはそのまま、すっと気を失った。
*
「おとうさん、おとうさん」
ぼんやりと近づいてくる声でトモユキは意識を取り戻した。フミエとユウキが覗き込んでいる。
「おとうさん、機械やっつけたよ」
ユウキが誇らしげに言う。見回せば、部屋の半分が真っ黒焦げに焼け、あの機械は台座を残して微塵に消し飛んでいた。木のテーブルも書物も、すべてが灰になっている。
「でも、あの子まで消えてもてん」
あの子——狐子のことだ。フミエが泣きながら指を差す。そこには、焼け残った草履が片方だけ転がっていた。トモユキはその小さな草履を拾い上げ、胸のポケットに仕舞った。え? トモユキはフミエに向き直り、尋ねた。
「今なんて言うた?」
「あの子も一緒に消えてもた、って」
「お、お前、声元どおりになってるやん」
「あ、ほんまや」
トモユキはフミエに近づき、顔を覆う鉄のマスクに触れた。それは炭のようにぽろぽろと剥がれ落ち、その下から元の顔が現れた。顔だけではない、完全に機械だった左手も左足も、纏っていた鋼はすべて炭と化し、中からフミエの手足が出てきた。
「おとうさん、ほら、僕も」
ユウキが背中を向ける。翼が消えている。ユウキの足元には灰燼と化した翼の残骸が落ちていた。トモユキはユウキのシャツをめくって背中を確かめた。翼の付け根に少し炭の塊のようなものがついていたが、それも指で撫でると綺麗に消えた。
「奇跡や」
トモユキが呟いた。ユウキが言い返す。
「キセキやなくて魔法やで。あの狐の子の魔法や」
三人は忌まわしき地下実験室を後にした。扉を思い切り蹴破って。暗い通路の奥にあった階段を上り、蓋のように閉じられている扉を押し開ける。眩しい光に三人は目を細めた。
そこは大きな白い家の庭だった。よく手入れされた芝生の上に立ち、三人は北西の空を見つめた。神は姿を消していた。青く澄み渡った空がどこまでも続いている。
「はぁ、終わったか」
トモユキは芝生に座り込んだ。近隣の住人も戸口に姿を現し、北西の方角を眺めて歓声を上げている。その姿をぼーっと見ているうちに、トモユキの顔は次第に険しくなっていった。そして勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「おいっ、まだ終わってへんぞ」
フミエとユウキがなんで?と尋ねる。トモユキは遠い所を見つめたまま答えた。
「ここ、外国や」
*
トモユキたちがいたのはイリノイ州の古い街だった。不可思議な現象が世界を覆い尽くした直後でもあり、「気がついたら親子でここにいた」という説明だけで、日本大使館を通じて帰国の手筈を整えてくれた。それは巨大な神が消え、世界中から珍現象が去ったことに対するお祭り騒ぎ的な驚喜に後押しされたことでもあった。
すべての怪異は楽天的な結末を迎えた。カリフォルニアでサーフィンを楽しんでいたエリック・カレンは、ビッグウェーブに乗って再び浜辺へと戻ってきた。(彼は束の間の行方不明をクールな体験だったと仲間に吹聴している) イラクの空は乾いた穏やかな碧を湛え、平凡な航空機の音が時折聞こえるだけだった。日本の鈴木酒店の防犯カメラの前を、河童が横切ることは二度と無かった。重慶市に住むヤン・スーは、鏡に映る自分のメイクに満足し、悪戯に自分で舌を出してみた。そして、翼が生えて消えていった子どもたちは、玄関を開けてひょっこりと帰ってきた。あの歪な翼でふらふら飛んでいた子どもも、今頃母の胸に抱かれていることだろう。
一つ、トモユキたちが知らない情報が空港のテレビで流れていた。目撃者の中年男性がインタビューを受けている映像だ。男はこう言った。
——神は消え去る瞬間、ニタリと笑みを浮かべた。その口には、銀歯が三本光っていた——と。
トモユキは飛行機の小窓から雲の海原を眺め、思った。あの青年は異世界と共に消えてしまったのだろうか。叔父さんはちゃんと天国に戻れただろうか。フミエとユウキは、この冒険譚を興奮してマサエに話すだろう。爆弾を森に落っことした話は、ことさらおかしく伝えられるだろうな。マサエはきっと、泣きながら笑うだろう。狐子のことはどう伝えよう? トモユキにはわかっていた。この親子を守ってくれたのは、生まれ得なかった第三子——経済的、精神的な理由で堕ろしてしまった我が子であることを。
雲の隙間、遙か彼方に、そろそろ故郷の明かりが見え始めた。
(完)
(第2回 ダ・ヴィンチ文学賞/ボツ)
応募と反省 ― 2007年03月27日 23:10
本日、某文芸誌新人賞の応募作品を郵送しました。
3月末締め切り。400字詰原稿用紙250枚以内の規定。
結局、156枚で完結。当初の予定より50枚もショートしてしまいました。
1月15日くらいから書き始めましたから、2ヶ月ちょいで156枚。
少ないですねー。
1日3枚。たった3枚書き進めるだけの計画で、こんなにショートするとは。
ただ反省あるのみです。
作品にも満足はできず。
まあ、それなりに頑張りましたけど、それなりに頑張るだけでは全然ダメですね。もっと命がけでやらないと。
今年は「常に締め切りを!」をテーマに、「とりあえず書き始める!」というやり方で書いています。書くことで考える——それが裏のテーマでもあります。
が、もっと書いてもっと考えなきゃ。デキやシツに今年はこだわりませんが、そのぶん、「書いて考えたか?」にはこだわりたいと思っています。
その点、今回応募した作品は、いまいち考えが浅かったです。
もっと奥深く、もっとえぐるように。
訓練ですから、過激にいかねば。
とりあえず今日は反省して、次の作品に臨みます。
次、そして次へ。
今年は自分に厳しくいきますよー。
3月末締め切り。400字詰原稿用紙250枚以内の規定。
結局、156枚で完結。当初の予定より50枚もショートしてしまいました。
1月15日くらいから書き始めましたから、2ヶ月ちょいで156枚。
少ないですねー。
1日3枚。たった3枚書き進めるだけの計画で、こんなにショートするとは。
ただ反省あるのみです。
作品にも満足はできず。
まあ、それなりに頑張りましたけど、それなりに頑張るだけでは全然ダメですね。もっと命がけでやらないと。
今年は「常に締め切りを!」をテーマに、「とりあえず書き始める!」というやり方で書いています。書くことで考える——それが裏のテーマでもあります。
が、もっと書いてもっと考えなきゃ。デキやシツに今年はこだわりませんが、そのぶん、「書いて考えたか?」にはこだわりたいと思っています。
その点、今回応募した作品は、いまいち考えが浅かったです。
もっと奥深く、もっとえぐるように。
訓練ですから、過激にいかねば。
とりあえず今日は反省して、次の作品に臨みます。
次、そして次へ。
今年は自分に厳しくいきますよー。
売れてます〜! ― 2007年03月18日 14:12
![]() | 中古が楽しい!家えらび60のポイント―「売る・買う」「リフォーム・暮らす」快適術 ハウスドゥ!推進委員会 幻冬舎メディアコンサルティング 2007-02 売り上げランキング : 609 おすすめ平均 ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
そこそこ売れてるみたいでホッとしてます(^.^
まんががかなり「濃い」〜です。
本屋さんで見つけたら立ち読みでもしてやってください。
ここからご購入いただくとアフィリ的に嬉しいです(^.^
はらから掲示板 ― 2007年03月09日 23:45
私に覗き見の趣味はない。少年時代からカンニングなど一度もしたことはないし、今も嫁さんの携帯電話をこっそり開いたりすることは決してない。
しかし、一つだけ、ついつい覗いてしまうものがある。覗き歴はかれこれ六年にもなろうか。そろそろ筋金が入ってきた。何を覗いているのか? それは、親父のためにつくった、インターネットの「OB用掲示板」である。
親父は十四歳で就職し、六十歳の定年退職まで一つの会社で勤め上げた。社歴四十六年。四十歳になっても転職を繰り返している息子(私だ)とは大違いである。一社一筋。そんな生き方も当然尊敬に値する。
それ故か、定年後しばらくすると、家でぼーっとテレビを観て過ごす時間が多くなった。いわゆるバーンアウト——燃え尽き症候群てやつだ。飼っていた犬が死んでからは、外に出る機会も減った。このままでは畳の上ではなくテレビの前で往生することにもなりかねない。親父が七十歳の声を聞く前に、私は半ば無理矢理パソコンを実家に持ち込み、同じく会社を定年退職した方々とコミュニケーションするための掲示板を立ち上げた。
同様の状況がどの家庭でも進行していたようだ。親父宛の年賀状にEメールアドレスの記されたものが数通あった。文面には小さくこう書かれている。「息子に勧められてパソコンとやらを始めました」。とりあえずその方たちにメールを送り……と本来ならそういきたいところだが、やはり昭和一桁生まれ。親父は電話を掛けて掲示板のURLを伝えていた。
そんなこんなで三、四人のインターネットコミュニケーションが始まった。お決まりの近況報告から各地の季節の頼り——この辺りは理解できるが、そのうち「ロト6,次の通り買いました。03,22,24,28,36,42デス」などという、ロト6購入報告会の様相を呈し始め、現在もまだ続いている。
気づけばそんな集まりも十数名を超え、半年に一度は「温故知新の会」と銘打たれた同窓会も開かれているようだ。さらには「紅葉バスツアー」や「大阪城(親父の)案内ツアー」「京都寺巡り」などが好き放題に企画され、リアルに顔を合わせる機会も増えている。
「デジカメ買うてんけど、これどうやって掲示板に載せるんや」
いまや七十五歳の親父にいきなりそんなハイテク機器を買わせてしまうほど、この掲示板はアクティブシニア育成に貢献しているようだ。ちなみに掲示板にはコメント機能も付けてあるのだが、それはまったく無視されている。掲示板に貼り込む写真も巨大な解像度のままで、表示されるのに時間がかかったりしている。ああ、ちょっと顔を出してやり方を教えてあげたい——。が、多少のジレンマを抱えつつもデバガメは決して表に登場することなく、そのぼちぼちとしたコミュニケーションを見守っている。
覗き見の中で私が発見したこと。それは、親父たちが決して後ろばかりを振り向いていない、ということだ。掲示板の開設当初は、思い出話に花が咲き乱れる場になるだろうと期待していたが、そんな話題は一切登場しない。現在進行形。そう、今もなお現役の同胞関係が続いているのだ。懐かしさではなく、ずっと一緒にいるような感覚。仲間というのは生涯そういう関係なのかもしれない。
そろそろ実家のインターネット回線を光に換えて、大きな写真もパッと表示できるようにしてあげようと思う。せっかくだから、ウェブカメラでも付けて、直接対話できるようにでもしてあげようか。いやいや、そこまですると恥ずかしがるだろう。ほどほど、にできるのもネット活用の良いところだ。その人それぞれのマイペースで。
会えば「もういつ死ぬかわからんぞ」などと何故か偉そうに言う親父だが、あの掲示板の中では、永遠に仲間たちとの未来に向けての会話が続いていくような気がする。そんな場所をつくれたことは、良い親孝行をした、と自分では考えるようにしている。
さて、今日も親父たちのくだらない会話を覗いてみるとするか。そうしてこっそりと、私自身もパワーをもらおう。まだまだたっぷりある、人生に向かう力を。
(完)
(第4回 NTT西日本 コミュニケーション大賞/ボツ)
しかし、一つだけ、ついつい覗いてしまうものがある。覗き歴はかれこれ六年にもなろうか。そろそろ筋金が入ってきた。何を覗いているのか? それは、親父のためにつくった、インターネットの「OB用掲示板」である。
親父は十四歳で就職し、六十歳の定年退職まで一つの会社で勤め上げた。社歴四十六年。四十歳になっても転職を繰り返している息子(私だ)とは大違いである。一社一筋。そんな生き方も当然尊敬に値する。
それ故か、定年後しばらくすると、家でぼーっとテレビを観て過ごす時間が多くなった。いわゆるバーンアウト——燃え尽き症候群てやつだ。飼っていた犬が死んでからは、外に出る機会も減った。このままでは畳の上ではなくテレビの前で往生することにもなりかねない。親父が七十歳の声を聞く前に、私は半ば無理矢理パソコンを実家に持ち込み、同じく会社を定年退職した方々とコミュニケーションするための掲示板を立ち上げた。
同様の状況がどの家庭でも進行していたようだ。親父宛の年賀状にEメールアドレスの記されたものが数通あった。文面には小さくこう書かれている。「息子に勧められてパソコンとやらを始めました」。とりあえずその方たちにメールを送り……と本来ならそういきたいところだが、やはり昭和一桁生まれ。親父は電話を掛けて掲示板のURLを伝えていた。
そんなこんなで三、四人のインターネットコミュニケーションが始まった。お決まりの近況報告から各地の季節の頼り——この辺りは理解できるが、そのうち「ロト6,次の通り買いました。03,22,24,28,36,42デス」などという、ロト6購入報告会の様相を呈し始め、現在もまだ続いている。
気づけばそんな集まりも十数名を超え、半年に一度は「温故知新の会」と銘打たれた同窓会も開かれているようだ。さらには「紅葉バスツアー」や「大阪城(親父の)案内ツアー」「京都寺巡り」などが好き放題に企画され、リアルに顔を合わせる機会も増えている。
「デジカメ買うてんけど、これどうやって掲示板に載せるんや」
いまや七十五歳の親父にいきなりそんなハイテク機器を買わせてしまうほど、この掲示板はアクティブシニア育成に貢献しているようだ。ちなみに掲示板にはコメント機能も付けてあるのだが、それはまったく無視されている。掲示板に貼り込む写真も巨大な解像度のままで、表示されるのに時間がかかったりしている。ああ、ちょっと顔を出してやり方を教えてあげたい——。が、多少のジレンマを抱えつつもデバガメは決して表に登場することなく、そのぼちぼちとしたコミュニケーションを見守っている。
覗き見の中で私が発見したこと。それは、親父たちが決して後ろばかりを振り向いていない、ということだ。掲示板の開設当初は、思い出話に花が咲き乱れる場になるだろうと期待していたが、そんな話題は一切登場しない。現在進行形。そう、今もなお現役の同胞関係が続いているのだ。懐かしさではなく、ずっと一緒にいるような感覚。仲間というのは生涯そういう関係なのかもしれない。
そろそろ実家のインターネット回線を光に換えて、大きな写真もパッと表示できるようにしてあげようと思う。せっかくだから、ウェブカメラでも付けて、直接対話できるようにでもしてあげようか。いやいや、そこまですると恥ずかしがるだろう。ほどほど、にできるのもネット活用の良いところだ。その人それぞれのマイペースで。
会えば「もういつ死ぬかわからんぞ」などと何故か偉そうに言う親父だが、あの掲示板の中では、永遠に仲間たちとの未来に向けての会話が続いていくような気がする。そんな場所をつくれたことは、良い親孝行をした、と自分では考えるようにしている。
さて、今日も親父たちのくだらない会話を覗いてみるとするか。そうしてこっそりと、私自身もパワーをもらおう。まだまだたっぷりある、人生に向かう力を。
(完)
(第4回 NTT西日本 コミュニケーション大賞/ボツ)
寄り道コミュニケーション ― 2007年03月09日 23:43
私は彷徨った。蜘蛛の糸の砂漠を——。
詩人ランボオではないが、私はインターネットという電子網を彷徨することが多い。プランナーという仕事柄、インターネットで調べ物をすることが多く、何故か頻繁にその海(もしくは砂漠、あるいは森、ときに街)を漂泊してしまう。
「CGM 消費行動」というキーワードで企画書の参考資料を検索しているうちに、気がつくと「コピーライターになるにはどうすればいいですか?」という高校生の悩みに行き当たり、ご丁寧にアドバイスを書き込んだりしている。
「イベント シニア」というキーワードで検索すれば、「おばあちゃんの米寿の記念に何をプレゼントすれば喜ばれますか?」という質問に遭遇し、「滑りにくくて暖かいスリッパなんていかがでしょう?」などと一緒に考えてしまったりしている。
東ニオ困リノ人アレバ……これではランボオというより、宮沢賢治デアル。
決して世話焼きなのではない。単なる寄り道好きなのだ。
その寄り道で出会うのは、もちろん人である。喜び、悲しみ、怒り、悩み……現実社会の仮面を脱ぎ去り、本来の自分を探している彷徨者たち。ブログが普及して以来、このような想い人に出会うことが多くなった。情報という目的地への最短距離、その周辺には、生々しい人間の声が漂っている。
便利で簡単、快適で楽しいインターネット。表通りにはそんな広告看板が連なっている。が、路地裏へと寄り道してみれば、そこではリアルな人の暮らしが淡々と営まれている。寄り道の中にこそ、感動や夢との出会いが隠れているような気がする。
光ブロードバンドでコミュニケーションはますます促進されるだろう。映像、音声、画像、それらを活用した「顔」の見えるコミュニケーション。その広がりを想像しただけでわくわくしてくる。しかし、時にはその脇道で迷子になっている人たちの元へ寄り道してみよう。そこにいるのはもしかすると自分自身かもしれない。
(完)
(第4回 NTT西日本 コミュニケーション大賞/ボツ)
詩人ランボオではないが、私はインターネットという電子網を彷徨することが多い。プランナーという仕事柄、インターネットで調べ物をすることが多く、何故か頻繁にその海(もしくは砂漠、あるいは森、ときに街)を漂泊してしまう。
「CGM 消費行動」というキーワードで企画書の参考資料を検索しているうちに、気がつくと「コピーライターになるにはどうすればいいですか?」という高校生の悩みに行き当たり、ご丁寧にアドバイスを書き込んだりしている。
「イベント シニア」というキーワードで検索すれば、「おばあちゃんの米寿の記念に何をプレゼントすれば喜ばれますか?」という質問に遭遇し、「滑りにくくて暖かいスリッパなんていかがでしょう?」などと一緒に考えてしまったりしている。
東ニオ困リノ人アレバ……これではランボオというより、宮沢賢治デアル。
決して世話焼きなのではない。単なる寄り道好きなのだ。
その寄り道で出会うのは、もちろん人である。喜び、悲しみ、怒り、悩み……現実社会の仮面を脱ぎ去り、本来の自分を探している彷徨者たち。ブログが普及して以来、このような想い人に出会うことが多くなった。情報という目的地への最短距離、その周辺には、生々しい人間の声が漂っている。
便利で簡単、快適で楽しいインターネット。表通りにはそんな広告看板が連なっている。が、路地裏へと寄り道してみれば、そこではリアルな人の暮らしが淡々と営まれている。寄り道の中にこそ、感動や夢との出会いが隠れているような気がする。
光ブロードバンドでコミュニケーションはますます促進されるだろう。映像、音声、画像、それらを活用した「顔」の見えるコミュニケーション。その広がりを想像しただけでわくわくしてくる。しかし、時にはその脇道で迷子になっている人たちの元へ寄り道してみよう。そこにいるのはもしかすると自分自身かもしれない。
(完)
(第4回 NTT西日本 コミュニケーション大賞/ボツ)
川上弘美さんインタビューより ― 2007年03月03日 23:06
例えば、「自分の子供のことを書く」と書いたとすると、その1行を読んだだけで、そこに何かの気分が含まれちゃいますよね。そういう意味で、私は、人だけじゃなく、実在の土地や時代をできるだけ書かない、という方法をいつも選んでいます。
読者の方が何かを感じてくださることはとても嬉しいのですが、私が効能を考えちゃいけないと思うんです。何かを人に知らせるために書くとか、何かを感じさせるために書こうと意識すると、そこでもうお説教になっちゃうような気がします。変な言い方ですけど、書く側っていうのは、これが届いてほしいとか、誰のためだとかは考えず、ただ書くために書いたほうがいいと思うんです。その無法な感じが小説のよさのような気がします。なんというか、その、正しくない感じ、ですね。
読者の方が何かを感じてくださることはとても嬉しいのですが、私が効能を考えちゃいけないと思うんです。何かを人に知らせるために書くとか、何かを感じさせるために書こうと意識すると、そこでもうお説教になっちゃうような気がします。変な言い方ですけど、書く側っていうのは、これが届いてほしいとか、誰のためだとかは考えず、ただ書くために書いたほうがいいと思うんです。その無法な感じが小説のよさのような気がします。なんというか、その、正しくない感じ、ですね。
幻想文学とは ― 2007年03月03日 23:04
「幻視の文学」と銘打った作品募集であっただけに、今度の応募作品のなかには、一般の小説とは一味ちがった、現実の奥に別の現実を垣間見たものだとか、寄木細工のように凝ったものだとか、あるいは華麗な文体や措辞のものだとかを発見することができるのではないかと期待したが、残念ながら、その期待は裏切られた。夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想になると信じこんでいるひとが多いようだ。もっと幾何学的精神を! と私はいいたい。明確な線や輪郭で、細部をくっきりと描かなければ幻想にはならないのだということを知ってほしい。
(澁澤龍彦「もっと幾何学的精神を——第一回幻想文学新人賞選評」より)
ダリの絵でもいい、あるいは「幻想文学」の表紙を描いている建石修志さんの絵でもいい、すぐれた幻想絵画を見ていただきたい。必ず明確な線や輪郭で、細部がくっきりと描写されていることに気がつくだろう。それと同じことで、幻想文学にも幾何学的精神が必要だということを私はいいたかったのである。幾何学的精神は、また論理と構築性といいかえてもよい。
あいまいな、もやもやした雰囲気の中を、ただ男や女がうろうろと歩きまわるだけの話をいくら書いたって、そんなものは幻想でも何でもありやしない。ぴんと一本の筋が作中を貫通して、部分と全体が有機的に支え合っていなければならないのである。このことは何度でも繰りかえして強調しておきたい。
(澁澤龍彦「ふたたび幾何学的精神を——第二回幻想文学新人賞選評」より)
(澁澤龍彦「もっと幾何学的精神を——第一回幻想文学新人賞選評」より)
ダリの絵でもいい、あるいは「幻想文学」の表紙を描いている建石修志さんの絵でもいい、すぐれた幻想絵画を見ていただきたい。必ず明確な線や輪郭で、細部がくっきりと描写されていることに気がつくだろう。それと同じことで、幻想文学にも幾何学的精神が必要だということを私はいいたかったのである。幾何学的精神は、また論理と構築性といいかえてもよい。
あいまいな、もやもやした雰囲気の中を、ただ男や女がうろうろと歩きまわるだけの話をいくら書いたって、そんなものは幻想でも何でもありやしない。ぴんと一本の筋が作中を貫通して、部分と全体が有機的に支え合っていなければならないのである。このことは何度でも繰りかえして強調しておきたい。
(澁澤龍彦「ふたたび幾何学的精神を——第二回幻想文学新人賞選評」より)


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